寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

随想 神世紀「68年」センチメンタル・ジャーニー —変革期/転形期としての「68年」頃の系譜—

1、はじめに 神世紀72年と神世紀168年という「特異」

・ゆゆゆの作品分布と特異な時期の存在

 

 「勇者である」シリーズ(以下、「ゆゆゆ」と呼称)には、非常に多数の作品が存在しており、それらを網羅するのは一筋縄ではいかないものがある。しかし、それでもなおそれらの作品群を作品内部の時系列順で整理してみると、差し当たり以下のようになるだろう。

 

 まず、西暦2010年代~神世紀0年代の『乃木若葉は勇者である』/『結城友奈は勇者である 大満開の章』・『白鳥歌野は勇者である』(『乃木若葉は勇者である』)・『上里ひなたは巫女である』(『勇者史外典』)・『烏丸久美子は巫女でない』(『勇者史外典』)の5作品。次に、神世紀29年~神世紀30年の『芙蓉友奈は勇者でない』(『勇者史外典』)・『勇者史異聞 芙蓉友奈は語部となる』の2作品。そして、神世紀298年の『鷲尾須美は勇者である』/『結城友奈は勇者である 鷲尾須美の章』の1作品。最後に、神世紀300年以降の『結城友奈は勇者である 結城友奈の章』・『結城友奈は勇者である 勇者の章』・『結城友奈は勇者である 大満開の章』および『楠芽吹は勇者である』/『結城友奈は勇者である 大満開の章』の4作品。小説版とアニメ版の重複はあるものの、とりあえずはこのようになるだろう。

 

 また、『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』(スマートフォンゲーム版/PCブラウザ版/コンシューマ版)(以下、「ゆゆゆい」と呼称)の内容を踏まえれば、西暦2010年代の「秋原雪花の章」・「古波蔵棗の章」や神世紀72年の「赤嶺友奈の章」を挙げられるし、「花結いの章」には神世紀72年の内容が、「きらめきの章」には、神世紀168年の内容が、それぞれ存在していた。

 

 このようにゆゆゆを構成する諸作品群は、質・量ともに間違いなく膨大なものだが、しかしその時系列的密度を考えてみると、粗密があることは明白である。それらは①西暦2010年代~神世紀0年代②神世紀298年・神世紀300年以降というふたつの時期に集中しており、神世紀29年~神世紀30年神世紀72年神世紀168年がそれぞれ孤立して存在する。

 

 このうち、神世紀29年~神世紀30年の2作品の場合は、「戦後」の平和な時期に西暦・神世紀の変わり目の時代(「神世紀移行期」)の真相を追求するという内容であり、「外典」・「異聞」という名称にみられるように、諸作品群のなかでは例外的性格の色濃いものだと言えるし、ある意味では、①の時期との連続性がある。しかし、神世紀72年の「赤嶺友奈の章」の場合は、「鏑矢」という勇者に類似した存在になった赤嶺友奈・弥勒蓮華(および巫女の桐生静)が「カルト団体」による「大規模テロ」を鎮圧するという内容であり、神世紀史上極めて重要な事件を取り扱ったもので、前後の時代とは隔絶した特異な位置づけをもつ。

 

 

赤嶺友奈(「Character」『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』)

 

 

 そして、「きらめきの章」だが、こちらには讃州市立讃州中学校勇者部に試練を与えるために、神世紀168年の四国地方に暮らす中学生の法花堂姫・天馬美咲が「中立神」の巫女として登場する。

 

 

法花堂姫・天馬美咲(『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』「きらめきの章」第13話公開プレスリリース)(©2017 Project 2H・©KADOKAWA CORPORATION 2017 Developed by AltPlus Inc.)

 

 

 両名ともに少なくとも勇者や大赦と直接的に関係ないと思われるが、なぜ中立神によって神樹内部の「特別な世界」に召喚され巫女となったのか、それ以前のかれらはどのように生活していたのか、そもそも神世紀168年の四国社会とはどういったものだったのか、このような問題に十分に解答可能な情報がなく、詳細は不明のままである(もしかしたらコンシューマ版ゆゆゆいでは、新規情報が判明している可能性もあるが、筆者は未所持のため確認できていない)。

 

 この時期は、最初期と最後期に偏った時代分布をしめす諸作品群のなかだと、以前の神世紀72年からは約100年、以後の神世紀298年までは130年あるという空白期間の只中のタイミングであり、まったく状況を類推することが難しい、謎に包まれたものだと言わざるを得ない。

 

 そのため、神世紀168年とは、『芙蓉友奈は勇者でない』(『勇者史外典』)・『勇者史異聞 芙蓉友奈は語部となる』同様に、「戦後」の平和な時期なのかもしれないし、神世紀298年以降の勇者たちがそうだったように、かれらがその後に戦闘に巻き込まれることもあるかもしれない。そのように考えてみると、謎ばかりの神世紀168年は神世紀72年と同じく隔絶した異様な時期と見なすことも不可能ではない。

 

・ふたつの時期の「共通点」と「68年」頃という問題

 

 では、神世紀72年と神世紀168年、このふたつの特異な時期を取り出してみたとき、何か共通点はあるだろうか。

 

 とりあえず前者に関しては以前考察したこともあったので[1]、おおまかな内容は理解しているが、後者はまだ着手しておらず、またそもそも比較検討できるような情報にも(管見の限り)接していない。とすると、もはや72年と168年という年数に着目するほかないが、100年=1世紀のうち70年前後の時期という共通点が辛うじて見つかる。

 

 これだけの情報では到底何も言い得ないのが当然だが、筆者にとっては、そうした時期的共通性に日本列島史における大変化の周期(サイクル)との類似性を感じざるを得ない。後述するように、西暦における各100年=各世紀の「68年」頃はそれぞれ大変化と呼べるような出来事が発生しており、神世紀における特異な時期の「68年」頃への集中もその文脈で把握できるように思われるのである。

 

・「センチメンタル・ジャーニー」の出発へ

 

 もちろん、西暦から神世紀への暦法変更にともなう周期のズレがあるし、神世紀268年前後の時期がゆゆゆにまったく登場しないので、厳密には言えないものであるのは百も承知だが、今回はそうした厳密性から一旦離脱して、一種の「随想」として特異な時期の問題を考えてみたいと思う。

 

 題すれば、「随想 神世紀『68年』センチメンタル・ジャーニー」である。本コラムとは、筆者にとって、神世紀「68年」頃の系譜から西暦の日本列島への遡航にみちびき、過ぎ去ってしまった日々への哀惜をもたらす「感傷旅行」のようなものなのである。

 

 無論、感傷旅行という割には、「感傷」にひたれるほどの経験や知識、理解などを到底持ち合わせてはいないし、神世紀の歴史をしっかりと追求する(「旅行」する)ことはないだろう。「語りたいというよりも、語らざるをえないといった気分においこまれている」わけもないし、「信友」の「死」や「保守的心性」への「転向」とも[2]直接的には関係ない。

 

 しかし、とりあえず書き始めたものは書き終えなければならないだろう。

 

 以下は、1968年、そして日本列島史の「68年」頃の系譜を雑駁に辿りながら、神世紀の特異な時期をそれらの文脈に位置づけようとする思いつきの試みである。

 

2、日本列島史と西暦「68年」頃の系譜

・「70年安保」と「1968年」

 

 日本列島史において、西暦「68年」頃というとまず思い出されるのは、直近の「68年」すなわち1968年のことだろう。

 

 「70年安保」などという言い回しをする場合もあるが、実態としては、そのような一国史ナショナリズムの想像力と(少なくとも表面上は)乖離するものだったし、そもそも「60年安保」のような「国民的」盛り上がりをまったく欠如していた。また、前提として1968年前後の時期の中心的テーマとは実質的に「反安保」に回収されないものだった。

 

 それよりは、世界システム論で知られるイマニュエル・ウォーラーステイン氏が「世界革命」として強調するような、(メディア環境の発達を前提とした)先進資本主義諸国をはじめとする世界各国の政治的・社会的変革傾向とその同時多発的展開とその影響の持続性(決定的影響力)から判断すれば、1960年代末という時期をはっきりと明示した「1968年」という言い回し(総称としての「1968年」)を採用するべきだろう[3]

 

・日本列島史における「1968年」① 大学紛争

 

 では、日本列島の「1968年」とは具体的にどのようなものだっただろうか?

 

 そのように問われれば、まず(日大紛争(1968年~1969年)や東大紛争(1968年~1969年)[4]が象徴的代表例となる)全国各地の大学紛争(大学生による学生運動)とそうした紛争主体としての全学共闘会議全共闘)—だから当時の学生運動を「全共闘運動」というように呼ぶことがある—が真っ先に想起されることになるだろう[5]

 

 それらは、1968年に紛争に突入した大学が全国の大学の約3分の1にのぼるなど、紛争を経験した大学や参加した学生が大多数となったこと②その学生たちが大学を直接の攻撃対象にしたこと③かれらの暴力的傾向が著しく強まったこと④大学紛争の主要な主体として全共闘が存在したこと、4点を特徴としてもつ。そして、中核派革マル派革労協社青同解放派などの「新左翼(ニューレフト)」(「穏健化した日本共産党を革命の敵と見なす左翼」)[6]諸党派(セクト)やそれら特定党派には所属しない「ノンセクト・ラジカル」が一連の紛争で重要な役割を果たした。

 

 

外山恒一「1968年諭に関係する新左翼党派の系統図」(『対論 1968』264頁-265頁)

 

 

 その後、急進化した一部党派が引き起こした1972年の連合赤軍事件(※あさま山荘事件を含む)では、仲間へのリンチ殺人事件(山岳ベース事件)という凄惨な事件が発覚した。諸党派間の対立抗争(「内ゲバ」)や運動の全体的過激化などの影響もあっただろうが、この事件の衝撃によって—連合赤軍のリンチを導出した「自己否定の論理」は、当時の学生が共有していたものだったと言われる—、全共闘運動をはじめとした学生運動はそれ以後沈滞することになったとされる[7]

 

 もとより「革命」の余地が少ない「高度経済成長」期だったから、政治的過激主義に走り集団的自己閉塞に陥った末に、労働運動の脱政治化で孤立化した学生たちは、現実の政治的変革への具体的展望・回路を喪失して「反社会的な危険分子」と見なされる以外なかったのかもしれないが、その成果と課題はその後の列島社会にさまざまな影響を残したことは間違いない[8][9]

 

・日本列島史における「1968年」② 多党化と革新自治

 

 そして、戦後日本政治史という観点で補足しておくと、この時期(の前後)には、脱党した日本社会党右派を糾合した西尾末広氏によってつくられた民主社会党や、都市部で特に勢力を伸長した(新興宗教団体(新宗教・「旧」新宗教)・創価学会を支持母体に結成された)公明党、(武装闘争路線を放棄し大衆的党勢拡大運動を展開した)日本共産党が一定の勢力を保持する「多党化」が発生・進展したことや、「高度経済成長」の副作用への住民の不満を背景として社会党共産党の支援をうけた首長をもつ「革新自治体」が登場・増加したこと(たとえば、東京都知事美濃部亮吉氏の「革新都政」がその典型例である)が特筆されるだろう。それらもまた「1968年」の重要な過程(のひとつ)である[10][11]

 

・日本列島史における「1968年」③ ベ平連ウーマンリブ運動・沖縄

 

 それ以外にも、鶴見俊輔氏や小田実氏らの関与した「ベトナムに平和を!市民連合」(「ベ平連」・ベトナム反戦運動)が(「1968」前後の「西側」諸国におけるベトナム反戦運動の盛り上がりとも共鳴しながら)「ふつうの市民がやるふつうの運動」(無党派市民運動)を標榜しながら活発な活動を展開し、現在のネットワーク型市民運動につながるあたらしい社会・政治運動のあり方を提示していた[12][13]

 

 そして、田中美津氏らの主導した「ウーマンリブ運動」(女性解放運動・日本列島社会における第二波フェミニズム[14])は、前述した学生運動の「自己否定の論理」や女性の役割を後方支援に限定する姿勢を批判しつつ、女性たちの日常生活や意識を点検して、自分たちの存在する社会・文化・意識(近代社会における社会・経済・文化などのあらゆる領域に内在する女性差別・男性による女性支配=「性支配」)を徹底的かつ根本的に(ラディカルに)問いなおし、その是正・廃絶を追求した非常に重要な運動実践である[15]

 

 また、アメリカの占領統治下にあった琉球政府時代(「アメリカ世」)の沖縄地域においては、「祖国復帰」と「反基地」をスローガンとする運動が全島民的運動として盛り上がり、沖縄返還交渉の過程で「本土並み」の在日米軍基地の撤退が見通せないことがわかると、「反復帰論」の登場やコザ騒動の発生がみられた。「本土」の運動とはほとんど断絶しつつも展開した一連の動向は極めて重要な意味をもち、「復帰」直前に問われた問題の大半が棚上げされたまま、基地負担の集中や本土との間の構造的不均衡などの問題が現在まで継続することを踏まえれば、決して無視しえないものがあると言わなければならない[16]

 

・日本列島史における「1968年」④ まとめ

 

 以上、いろいろと日本列島の「1968年」をめぐる事例を雑駁に提示してきたが、それらは列島社会の「1968年」のすべてをしめしたわけではないし、前提として妥当性を欠くところもあるだろう。

 

 とはいえ、これ以上挙げられるほどの余力も修正するほどの時間もないので、差し当たり、近年の「1968年」研究における重要な成果だと言える、荒川章二編『国立歴史民俗博物館研究報告 第216集 〔共同研究〕「1968年」社会運動の資料と展示に関する総合的研究』の一節(「共同研究の経過と概要」)を以下に引用することで、その責任に応答し、以上の「1968年」をめぐる諸事例の「まとめ」としておくことにする[17]

 

 

「本研究が対象とした1960年代末は、革新自治体など戦後革新運動の新しい戦術と「個」「私」の主体性を重視する新しい社会運動の高揚期が重層的に同時展開した時代である。後者の社会運動のうち、学生運動分野では、これまでの学生自治会主体の運動とは異なり、大学の意義、学問研究の意義を問い、生産性の論理が支配する社会のあり方とそこでの自分の「生」を重大な関心事とした「大学紛争の時代」が現出した。一般社会運動としては、ベトナムの戦場化に見られる冷戦期の世界体制と日本の役割を切り口に戦争の加害と被害の関係性を問う市民的平和運動が、かたや、公害の告発運動や公共性を押し立てた開発政策の正当性を問う運動が全国的な広がりを見せた。

 

 前者の「戦後革新」的社会運動は、革新自治体など1970年代後半以降の福祉・環境政策の転換などに大きな影響を与えたが、後者の「個」を重視する社会運動が切り開いた世界観は、それ以上に、思想的あるいは運動のありようについて長期的なインパクトを有しており、半世紀を経た今日まで少なからぬ影響を与えている。」

 

荒川章二「共同研究の経過と概要」(『国立歴史民俗博物館研究報告』216、2019年)、1頁

 

 

・日本列島史における「68年」頃の系譜

 

 然るに、「1968年」とその重要性なるものを把握したところで、日本列島史の文脈において考察するにはまだ不十分もいいところである。そこからさらに遡及して西暦「68年」頃の系譜を追求してみて、実際にどのような様子が見えてくるのか、五味文彦氏の議論に依拠しながら以下において確認してみたいと思う。

 

 その五味氏の議論とは、中世の日本列島社会(日本中世社会)の歴史像として各世紀=100年間における画期を「68年」頃に設定する見方を提示するものである。まず五味氏は、10世紀~15世紀の中世社会を以下のように整理する(※引用にあたり表現を一部修正したところがある[18]

 

 

中世の日本列島社会における「68年」頃の系譜(筆者=寺末桑町作成)

 

 

 以上のような年表を提示しつつ、「一〇〇年ごとに大きな変わり目がやってきて」おり、それは「西暦でいえば六七年・六八年辺が境目になる区切り」だとする。そして、このような中世社会の転換の周期(サイクル)には、中国や朝鮮半島などの大陸との関係・東アジア世界の社会の変化に連動するところがあるとし、中世後期にはヨーロッパの動向とも連動しながら世界史ともつながると言うのである[19]

 

 さらに五味氏は中世以降の現代に至る歴史にも、100年周期の大変化が考えられるという[20]。五味氏の近年の整理[21]も踏まえながらふたたび年表として表現してみると、以下のようになる(※引用にあたり表現を一部修正したところがある)。

 

 

中世以降の日本列島社会における「68年」頃の系譜(筆者=寺末桑町作成)

 

 

 1968年の箇所は空欄にいずれの整理においても空欄ないしは未記載となってはいるものの、産業構造の大変化(農村の大変貌と過疎化の進展)とともに、大学紛争にはじまる石油危機・公害問題・環境問題、国際化・情報化などのさまざまな問題の噴出が指摘され、「国民国家にゆらぎがでたことからのあらたな模索の時代である」という時代認識が表明されることからみれば[22]、「国民国家の動揺」などが「時代の動向」に想定されているのだろう。

 

 このような五味氏の議論は、10世紀以降の1000年以上にわたる日本列島史の展開を「68年」頃(「67年」・「68年」)という年代に注目して整理し、100年ごとの大変化が発生してきたと指摘するものである[23]。年代によってはやや疑問に思うところもありはするが、実際に挙げられた「事項」や「時代の動向」の大半は文字通り「画期的」な重要性をもち、十分「大変化」とするに足る内容があるように思われる[24]。1968年に関して位置づけの不明瞭なところがあるにしても、既に詳細に確認してきた「1968年」の重要性を一瞥すれば、それを100年周期の大変化に容易に数えられることは明白である。

 

 だとすれば、そうした日本列島史における「68年」頃の大変化の系譜が(ゆゆゆの)神世紀にどのように継承されていったのか、という問題はある程度意味のあるものとして考えられるし、神世紀四国社会の特異な時期との年代的符合(共通性)は単に牽強付会なこじつけだとは必ずしも言えなくなるだろう。

 

3、おわりに 変革期/転形期としての「68年」頃の系譜

・西暦と神世紀における「68年」頃の系譜と「執拗低音」

 

 「1968年」や日本列島史(西暦)の大変化の系譜を辿ってきたことで、筆者はようやく神世紀四国社会の特異な時期を論じる段階に立つことができるようになった。

 

 既に見たように、五味氏は日本列島史の「68年」頃に大変化が周期的に発生すると指摘し、「68年」頃という時期をいわば(必然的な)「変革期」や「転形期」のような時期として設定していた。神世紀四国の場合は、神世紀72年と神世紀168年に画期的重要事件や「謎」に包まれた時期が立ち現れており、それらの時期は変革期や転形期の可能性を秘めている。

 

 これら西暦の「68年」頃の系譜と神世紀の「68年」頃の系譜。そのふたつの符合は単なる偶然なのだろうか。陰謀論めいた言い草にはなるが、筆者にはそこに何らかの歴史的必然性のようなものが力学として働いているように思われるのである。

 

 もちろん、西暦2019年の神世紀への改元という事実から判断すれば、神世紀72年は西暦2091年であり、神世紀168年は西暦2187年であるので、西暦の系譜とは断絶があるし、そもそも神世紀268年頃の状況は完全に不明であり、厳密には「神世紀の『68年』頃の系譜」とも言い切れない。

 

 だが、この系譜の一致には、あたかも丸山眞男氏が日本列島史/日本列島社会に通底する「古層」的な「執拗低音」(バッソ・オスティナート)として、「つぎつぎになりゆくいきおひ」(輸入思想に微妙な修飾を付与し無意識的に旋律全体のひびきを「日本的」に変容する規定範疇(のひとつ))を見出したように[25]、歴史的・社会的に基礎づけられた条件の発露のような趣がある。

 

 つまり、一連の日本列島史/日本列島社会の変革期/転形期の系譜というものが日本列島そのものに条件として存在し、それが神世紀において改めて出現することで、個々の「68年」頃に「特異」な時期を生起せしめているように思われる、ということである。とすれば、神世紀における「68年」頃の系譜とは、日本列島におけるそれ以前からの変革期/転形期の系譜の文脈上に存在するものであって、同じ日本列島という舞台のもつ条件に立脚したものだと言うことになるだろう。

 

・「随想」の結論

 

 したがって、神世紀の「68年」をめぐる筆者の「センチメンタル・ジャーニー」は、ようやく結論に到達した。神世紀72年と神世紀168年という特異な時期というのは、日本列島史/日本列島社会の変革期/転形期の系譜という文脈に位置づけられうるものであって、神世紀においても西暦同様の100年周期の変革/転形という「古層」的な「執拗低音」の条件が日本列島を媒介として持続していたと言えるだろう。ふたつの時期はまさしくその神世紀的表現だったかもしれないのである。

 

 とはいえ、以上の記述は当然のことながら「随想」的表現に過ぎず、確固たる証拠をともなわない空論と言えば肯定せざるを得ないし、本当に存在するかどうかなど定かではない。しかし、神世紀の両極端に分化した作品分布のなかで、その中間にある空白地帯を埋める何らかの参考にはなるかもしれないので、そのたたき台としての意味は最低限もっていたように思う。

 

 では、果たして実際の神世紀とはどのようなものだったのだろうか。「特異」な時期の真相がわかる日が来ることを願いながら、そろそろ小稿を閉じることとしよう。

 

4、書いてみた感想

 

(2日遅くなりましたが)乃木若葉さんの誕生日(6月20日)を心よりお祝い申し上げます。

 

5、研究資料および参考文献

研究資料

※ゲーム版※

結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』(PCブラウザ版・配信期間2017年~2022年)

 

参考文献

荒川章二「共同研究の経過と概要」(『国立歴史民俗博物館研究報告』216、2019年)

石川真澄山口二郎『戦後政治史 第四版』(岩波書店岩波新書〉、2021年)

小熊英二『1968』上・下(新曜社、2009年)

笠井潔・絓秀実・外山恒一(聞き手)『対論 1968』(集英社集英社新書〉、2022年)

北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版〈NHKブックス〉、2004年)

北村紗衣「波を読む」(『現代思想』48-4、2020年)

小杉亮子「東大闘争の戦略・戦術に見る1960年代学生運動の軍事化」(『国立歴史民俗博物館研究報告』216、2019年)

林哲夫『高校紛争』(中央公論新社中公新書〉、2012年)

五味文彦『中世社会と現代』(山川出版社、2004年)

五味文彦「『日本史のなかの横浜』を書き終えて」(『web版 有鄰』540、2015年)(https://www.yurindo.co.jp/yurin/4042(2024年6月22日閲覧))

五味文彦『シリーズ日本中世史① 中世社会のはじまり』(岩波書店岩波新書〉、2016年)

境家史郎『戦後日本政治史』(中央公論新社中公新書〉、2023年)

佐藤文香「テーマ別研究動向(男性研究の新動向)」(『社会学評論』61-2、2010年)

絓秀実『1968年』(筑摩書房ちくま新書〉、2006年)

絓秀実『増補 革命的な、あまりにも革命的な』(筑摩書房ちくま学芸文庫〉、2018年、初出2003年)

千田有紀・中西祐子・青山薫『ジェンダー論をつかむ』(有斐閣、2013年)

西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2018年、初出1986年)

西山伸「第12講 全共闘運動・三島事件連合赤軍事件」(筒井清忠編『昭和史講義【戦後篇】(下)』筑摩書房ちくま新書〉、2020年)

姫岡とし子『ジェンダー史10講』(岩波書店岩波新書〉、2024年)

丸山眞男「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1998年、初出1972年)

吉見俊哉『シリーズ日本近現代史⑨ ポスト戦後社会』(岩波書店岩波新書〉、2009年)

吉見俊哉「終章 東大紛争 1968-69」(『さらば東大』集英社集英社新書〉、2023年)

 

6、画像引用元

「赤嶺友奈」(「Character」『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』)(https://yuyuyui.jp/character/(2024年6月22日閲覧))

「「ゆゆゆい」で“きらめきの章 第13話”が公開。天馬美咲と法花堂姫が登場」(4Gamer.net、2021年)(https://www.4gamer.net/games/373/G037355/20210506067/(2024年6月22日閲覧))(©2017 Project 2H・©KADOKAWA CORPORATION 2017 Developed by AltPlus Inc.)

外山恒一「1968年諭に関係する新左翼党派の系統図」(笠井潔・絓秀実・外山(聞き手)『対論 1968』(集英社集英社新書〉、2022年)、264頁-265頁)

五味文彦「『日本史のなかの横浜』を書き終えて」(『web版 有鄰』540、2015年)(https://www.yurindo.co.jp/yurin/4042(2024年6月22日閲覧))

 

[1] 拙稿「ゆゆゆ「神世紀72年」考 —鏑矢たちの戦いはどのようなものだったのか?—」(https://terasue-sohcho.hatenablog.com/entry/2024/03/10/235000(2024年6月22日閲覧))参照。

[2] 西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』(文藝春秋〈文春学藝ライブラリー〉、2018年、初出1986年)、8頁-11頁・47頁-51頁

[3]

 なお、本コラムは1970年7月7日の「華青闘(華僑青年闘争委員会)告発」の画期性や「六八年の課題」の「受動的」・「反革命的」実現を強調し、「1968年の革命は『勝利』し続けている」(「六八年が今なお持続する世界革命であるとは、それが圧倒的な『勝利』以外の何ものでもないということなのだ」)とアイロニカルに主張した絓秀実氏の議論(絓秀実『1968年』(筑摩書房ちくま新書〉、2006年)、7頁-22頁・絓『増補 革命的な、あまりにも革命的な』(筑摩書房ちくま学芸文庫〉、2018年、初出2003年)、10頁-21頁(※引用は12頁-13頁より))を意識はしたが、必ずしもその大半を説明に盛り込まなかったので、ご興味・ご関心のある場合には、具体的に絓氏の著書・著作や笠井潔・絓秀実・外山恒一(聞き手)『対論 1968』(集英社集英社新書〉、2022年)などを参照されたい。

[4]

 東大紛争に関しては、島泰三安田講堂 1968-1969』(中央公論新社中公新書〉、2005年)、小熊英二『1968』上(新曜社、2009年)、『企画展示 「1968年」 無数の問いの噴出の時代』(国立歴史民俗博物館、2017年)、小杉亮子『東大紛争の語り』(新曜社、2018年)、荒川章二編『国立歴史民俗博物館研究報告 第216集 〔共同研究〕「1968年」社会運動の資料と展示に関する総合的研究』(国立歴史民俗博物館、2019年)、吉見俊哉「終章 東大紛争 1968-69」(『さらば東大』集英社集英社新書〉、2023年)などを参照されたい。

[5]

 なお、高校紛争(高校生による政治運動)に関しては、小林哲夫『高校紛争』(中央公論新社中公新書〉、2012年)、高橋雄造『高校生運動の歴史』(明石書店、2020 年)などを参照されたい。

[6] 笠井・絓・外山、2022年 23頁

[7] ただし、このような沈滞史観は必ずしも妥当性のあるものだとは言えないので、外山『改訂版 全共闘以後』(イースト・プレス、2018年)を参照されたい。

[8]

 以上の記述は、西山伸「第12講 全共闘運動・三島事件連合赤軍事件」(筒井清忠編『昭和史講義【戦後篇】(下)』筑摩書房ちくま新書〉、2020年)、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版〈NHKブックス〉、2004年)、27頁-64頁、197頁-210頁・吉見『シリーズ日本近現代史⑨ ポスト戦後社会』(岩波書店岩波新書〉、2009年)、1頁-25頁・39頁-40頁に基づく。

[9]

 当時の学生運動の軍事化(対抗暴力への傾斜)にともなう「軍事的男性性」(Paul Higate氏ら)の台頭と女性性・女性参加者の周辺化に関しては、小杉「東大闘争の戦略・戦術に見る1960年代学生運動の軍事化」(『国立歴史民俗博物館研究報告』216、2019年)などを参照されたい。

[10] 石川真澄山口二郎『戦後政治史 第四版』(岩波書店岩波新書〉、2021年)、90頁-123頁・境家史郎『戦後日本政治史』(中央公論新社中公新書〉、2023年)、53頁-86頁)

[11]

 ちなみに、当時の「保守」政権(自由民主党政権)の首相・佐藤栄作氏はその個人的不人気にもかかわらず、高度経済成長の持続による政権交代機運の不存在や慎重姿勢を全体的に維持した政権運営などによって長期政権を可能にし、前任の池田勇人氏とともに国内の政治的安定の確保と戦後憲法体制の固定化を実現した(「保守本流」の政治=「吉田ドクトリン」(永井陽之助氏)の定着)。

 

 「保守」陣営と対称となる「革新」では、「多党化」した諸政党以外に社会党が各種選挙での不振から党内路線の対立が発生し、最終的には江田三郎氏らの構造改革論を排除して左傾化していき、人々の支持を喪失していくことになった(石川・山口、2021年 90頁-123頁・境家、2023年 53頁-86頁)。

[12] 吉見、2009年 25頁-29頁

[13]

 ただし、ベ平連を「無党派市民運動」という側面だけで評価するのには問題があり、元日本共産党ソ連派などが集結した共産主義労働者党との関係性などに留意する必要がある(絓、2006年 71頁-151頁参照)。

[14]

 第二波フェミニズムとは、それまでのフェミニズム運動(第一波フェミニズム=女性参政権運動)の主要テーマだった政治参加のみならず、中絶や性暴力などの性・生殖をめぐる問題、賃金の不平等など労働における差別、家庭内暴力などの広範な問題を追求し、(まさしく「個人的なことは政治的なこと」というスローガンで知られる通り)個人的な問題として公的に議論されてこなかった不平等に注目した、1960年代~1980年代のフェミニズム運動の動向(「波」)を意味している(北村紗衣「波を読む」(『現代思想』48-4、2020年)、49頁)。

 

 なお、フェミニズムの一連の潮流に関しては、千田有紀・中西祐子・青山薫『ジェンダー論をつかむ』(有斐閣、2013年)、195頁-205頁、北村、2020年 48頁-56頁などを参照されたい。

[15] 吉見、2009年 30頁-33頁、千田・中西・青山、2013年 195頁-205頁、北村、2020年 48頁-56頁、姫岡とし子『ジェンダー史10講』(岩波書店岩波新書〉、2024年)、18頁-19頁

 

 なお、「1968」以降になると、近代(市民)社会に固有の「公私二元的ジェンダー秩序」(フランス革命を契機として台頭した、両性の役割を発揮すべき領域を男性=公領域(国家・経済・社会)・女性=私領域(家庭)に固定した近代的ジェンダー秩序のこと。「自然の性差」論に依拠しながら男女の非対称性=女性の従属を制度化した。)の解体への動きが発生し、具体的には、性別役割分担の廃棄やジェンダー主流化、LGBTの可視化などが顕著に進展している(姫岡、2024年 63頁・95頁-116頁)。

[16] 吉見、2009年 33頁-40頁

[17]

 ちなみに、小熊英二氏は、「1968年」の学生運動の背景には、①学生の大衆化、②高度成長による社会変化、③戦後の民主教育、④当時の若者のアイデンティティ・クライシスと「現代的不幸」からの脱却願望があったとし(小熊英二『1968』下(新曜社、2009年)、786頁-787頁)、「1968年」の「叛乱」そのものを「若者たちの自己確認運動」(同書801頁)としつつ、以下のように説明している。

 

 

「すなわち『あの時代』の叛乱は、高度成長にたいする集団摩擦反応であったと同時に、こうもいえるであろう。それは、日本が発展途上国から先進国に、『近代』から『現代』に脱皮する仮定において必要とした通過儀礼であり、高度資本主義社会への適応過程であったのだ、と。」

 

小熊英二『1968』下(新曜社、2009年)、782頁-783頁

 

 

 とはいえ、こうした小熊氏の提示する歴史像(「小熊史観」)には批判もあり、たとえば、絓、2006年、田中美津小熊英二『1968』を嗤う」(『明日は生きてないかもしれない……という自由』インパクト出版会、2019年、初出2009年)、笠井・絓・外山、2022年などがある。

[18] 五味文彦『中世社会と現代』(山川出版社、2004年)、94頁-95頁・五味『シリーズ日本中世史① 中世社会のはじまり』(岩波書店岩波新書〉、2016年)、i頁-iii頁

[19] 五味、2004年 94頁-99頁

 なお、五味氏は中世文化の変化として11世紀~14世紀の67年・68年の「画期」間にそれぞれ「家」・「身体」・「職能」・「型」という「思潮」(各時期に通底するものの見方や考え方)を設定し、そうした思潮の変化が文化の展開を考えるうえで重要だと見なしている(五味、2016年 ii頁-iii頁)。

[20] 五味、2004年 99頁-101頁

[21] 五味「『日本史のなかの横浜』を書き終えて」(『web版 有鄰』540、2015年)(https://www.yurindo.co.jp/yurin/4042(2024年6月22日閲覧))

[22] 五味、2004年 100頁-101頁

[23]

 ただし、五味氏は近年の議論でその100年周期説を古代社会まで拡延している(五味、2015年および下図参照)。

 

 

五味文彦「100年ごとの変化を見る表」(『web版 有鄰』540、2015年)

 

 

[24]

 五味氏が一連の見方—「68年」頃を基準とした大変化の100年周期説—を提唱した背景には、(前提として100年周期説の根拠の有効性はあっただろうが)中世と現代の関係を探りながら、日本中世社会の歴史が必ずしも「遠い時代のこととはいえない」こと(中世と現代の関係性)を強調するとともに、日本列島史そのものを総体的に把握する枠組みとして有効だと考えたためだと思われる(五味、2004年 1頁-3頁・101頁・五味、2015年参照)。

[25] 丸山眞男「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1998年、初出1972年)、402頁