寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

濫読漫筆②

・現代語訳「大平年代記」(慶応4年条・明治4年条)

 

 静岡県沼津市東部に位置する大平地区には、中世から近世にいたる歴史について(その時々の編集を経つつ)書き継いで記録されてきた、「大平年代記」・「大平旧事記」という非常に貴重な史料群が存在する。

 

 そのうち、「大平年代記」は「大平地区の出来事を中心に、当時の政治・社会状況を織り交ぜながら鎌倉時代初期から明治初年までの歴史を書き綴った記録」である。「四冊之内 一」~「四冊之内 四」の4冊と「四冊之外 一」~「四冊之外 四」の4冊の計8冊があり、片岡本(片岡家蔵・桃源院蔵)の系統と綾部本(綾部家蔵)の系統にわかれる。その内容は「古帳」(中世以来の大平村に関連する古記録、同村の草分百姓・星谷家に伝来したものと推定される)を参照して執筆されたと思われ、「大平旧事記」も「古帳」や年代記をもとに享保19年(1734年)・同20年~元文3年(1737年)に執筆されたものだと見られる。「内」と「外」の区分の相違に関しては、寛永期~慶安期における同村の大変動(中世的地侍層の衰退と近世村落の形成)=「中世から近世への転換」を反映したものであり、古帳は大平村における「中世の記憶」を体現するものだったという指摘がある[1]

 

 とはいえ、その大平年代記には単純な誤記や享保以後の整理者による創作・改竄部分も少なからず存在し、正確性という基準で言えば、資料的価値を欠如すると言わざるを得ない部分もある[2]。だが、友野博氏が指摘するように、「大平村に居住し、村を築いてきた永い歴史を民衆の立場から事実に基いて記録してきた」ところに年代記の価値があるのであり、「民衆生活史」を軸とした内容は非常に意義深い[3]。この史料は大変重要なものだと言わなければならない。

 

 

「最後に、『年代記』の価値について一言ふれておきたい。同書の史料的価値という点では正確さを欠く部分がかなりある。しかし、そのことが、直ちにこの記録の価値を低下させることにはならない。『年代記』の価値は、大平村に居住し、村を築いてきた永い歴史を民衆の立場から事実に基いて記録してきたことにある。支配者の要請によって提出した村の歴史でもなく、村方三役の行政管理上の記録でもない。どこまでも民衆生活史が軸になっている。『年代記』の意義はここにあると思う。」

 

友野博「『大平年代記』解題」(沼津市駿河図書館編『沼津資料集成8 大平年代記 付 大平旧事記 大平道之記』沼津市駿河図書館、1981年)、6頁

 

 

 なお大平年代記を対象とした研究には、既に友野氏や小和田哲男氏、水口淳氏、福田アジオ氏、湯浅治久氏などによる成果がある(特に、湯浅治久「日本中・近世における災害対応と『記憶』の形象化」(専修大学人文科学研究所編『災害 その記録と記憶』専修大学出版局、2018年)を参照されたい)。

 

 以下では、その「大平年代記」のうち、慶応4年(明治元年)条・明治4年条を抽出して書き下し・現代語訳を行ったものである。史料読解・分析能力の到底ない筆者にとって蛮勇とも呼べるような行為であり、初歩的な誤記や誤認などもあると思うが、ご寛恕願いたい。

 

 『大平年代記』のテキストについては、沼津市編集委員会編『沼津市史叢書7 大平村古記録』(沼津市教育委員会、2000年)(※75頁-76頁)に依拠し、現代語訳に際しては、三谷博『維新史再考』(NHK出版、2017年)を参照することとした。

 

 

(書き下し)

 

 慶応四辰年国中納り兼候故や、二月下旬より三月四日迄(まで)御勅使御下向にて諸大名御下向す。東海道筋御城主方大に迷惑と相成り候由。大平村も是迄(これまで)五給の処七月より駿府領に成り、急に徳川様御引越し成され候。右に付き無禄の武士遠州、駿州へ御引越し成され難渋と相成り候。猶お大平村の儀も是迄百六拾四年五給にて、急に徳川領に一本に相成るに付き、諸勘定向きその年は出来兼ね(できかね)、是迄の通りの五給取り立て致し候。殊に当年は諸国納り兼ね候に付き、天子様も御下向御座候。これより江戸を東京と言う。国々の凶作、別して大平村の儀は五月八日、九日大雨にてそれよりふり続きにて廿二三日迄の間水入り、十四五日水付く。畑方の夏毛皆無、田作は水入り虫付き両難にて、西方は荒れ増り皆無、東方は少々取り候えども凶作。殊に田畑米納に付き大小の百姓手前夫食(ふじき)これ無し、此の年年号替る、明治元年と成る。

 

(現代語訳)

 

 慶応4年(1868年)、日本国中が(戊辰戦争のために)治まっていないからだろうか、2月下旬から3月4日まで朝廷のご勅使(東征大総督有栖川宮熾仁親王(?))が(東国へと)下向されるので、諸大名も(それに付き従い)下向されました。東海道筋の城持ち大名の面々は途方に暮れたとのことです。大平村もこれまでは1村を5つの領主が支配する「五給」状態だったところ、7月から駿府領となり、急に徳川様(※徳川宗家を徳川慶喜から相続した徳川家達(?))がお引越しなされました。右の件については、無禄だった武士が遠江駿河へとお引越しされ困苦するようになりました。なお大平村のことに関しても、これまで164年間「五給」だったところ、急に徳川領(静岡藩領)に一本化されましたので、年貢などに関する計算・決算関連の事柄がその年は出来かね、これまでのように「五給」で年貢などの取り立てをいたしました。特に今年は諸国が(安定せずに)治まらないため、天皇明治天皇)の(東国への)ご下向がございました。これより江戸を東京と言うようになりました。諸国の凶作、とりわけ大平村のことは5月8日・9日に大雨がありそれ以来降り続いたので、22日・23日までの間に(狩野川が)氾濫し、14日・15日には浸水しました。畑作の夏作(夏の作物)は皆無となり、田作は水害と虫害の両難によって、(大平の)西方は荒廃して(収穫)皆無、(大平の)東方は少々取れましたけれども凶作となりました。殊に田畑は米納方式につき大小の百姓たちは自分の食料がありませんでした。この年年号が変わり、明治元年となりました。

 

 

 

 

(書き下し)

 

 明治四辛未(しんび)年、諸国豊作。尤も七月窪地えは出水(しゅっすい)致し候えども、格別の障り(さわり)とも相成らず。諸作ともよし。さて此の節柄印し(しるし)置き候えども、何事によらず皆替り(かわり)、書き尽くし難く(がたく)候間、印しなし。尤も仲堤七百六拾間、「上置上」(※詳細不明)より御手伝い、村方にても出金す。去る暮より当春迄(まで)に出来(しゅったい)の事、今年所々の神主は皆御差し留めに相成り申し候。

 

(現代語訳)

 

 明治4年(1971年)、諸国豊作。ただし、七月に(大平の)窪地へ(狩野川の水が)出水いたしましたが、それほどの問題ともなりませんでした。諸々の作物(生産物)とも良い出来でした。さて、このような時期ですから(「大平年代記 四冊の外四」記録者が執筆に際して使用した文書・記録類にいろいろと)記し置きましたが、何事においてもみな変わってしまい、(ここにとても)書き尽くし難いですので、記しませんでした。とは言っても、(昨年夏の「稀成る大水」のために「切れ込み大荒れ」になった)仲堤(中堤)の760間(約1.4km)は、(静岡藩から御手伝普請を仰せ付けられたので(?))村方からも出金しました。去年の暮頃から今年の春頃までに発生したこと(で特記すべきこと)を挙げれば、今年所々の(神社の)神主はみなお差し止めになりました。

 

 

参考文献

 

小和田哲男「戦国期駿豆国境の村落と土豪」(『静岡大学教育学部研究報告 人文・社会科学篇』32、1982年)

友野博「『大平年代記』解題」(沼津市駿河図書館編『沼津資料集成8 大平年代記 付 大平旧事記 大平道之記』沼津市駿河図書館、1981年)

沼津市編集委員会編『沼津市史叢書7 大平村古記録』(沼津市教育委員会、2000年)

三谷博『維新史再考』(NHK出版、2017年)

 

・「100年前」の日本列島社会をみる視座

 

 今年(2024年)から100年前は1924年となる。大正時代の大正13年である。

 

 日本では、第二次護憲運動の結果、護憲三派内閣の加藤高明内閣が成立し、以降8年間にわたり政党内閣が継続することになる(いわゆる「憲政の常道」)。翌年には(「貧困者」や女性、植民地の人々を排除しながら)普通選挙法が治安維持法とともに成立する。アメリカでは、移民法(排日移民法)が成立し、西ヨーロッパでは、マクドナルド内閣(イギリス最初の労働党内閣)が登場し、東ヨーロッパでは、ウラジーミル・レーニンが死去し、東アジアでは、第1次国共合作1924年~1927年)が開始した。1924年とは、そういう時代だった。近代化・大衆化・グローバル化(国際化)が一段と進展し、「現代社会」の原型が形成されるようになった。

 

 当時の日本列島社会は、第一次世界大戦の影響によって外交・軍事・政治・社会・文化の各面において「光」と「影」をあわせもちながら急速に変貌していた。大正時代の日本は「光り輝く文明国」となり、経済的国際協調を前提として「モダンで平和」な大衆消費社会が到来する。しかし、「戦争とファシズム」の種子が既に蒔かれてもいた[4]

 

 そのことは「大正デモクラシー」においても例外とは言えない。

 

 日露戦争直後の都市民衆騒擾(日比谷焼き打ち事件)を契機に「民本主義」の潮流として登場したそれは、第一次世界大戦ロシア革命米騒動の影響によって加速し、「改造」の動向を生み出した。雑業層や旦那衆、労働者、農民、そして女性、被差別部落・植民地の人々は、それぞれの立場からアイデンティティを掲げつつ社会変革を主張した。そうした動向は、最終的に普通選挙(包摂)と治安維持法(排除)によって選別的に「国民化」を企図する「一九二五年体制」を成立させた[5]

 

 ここで注目されるべきなのは、大正デモクラシーがその内部において帝国主義的膨張とデモクラシーを共存させたものだったということである。「政党政治が実現し、社会運動が展開した」とはいえ、一連の社会変革要求には「日本人」や「国民」と重なり合いもあり、その主体たる「日本」の「民衆」(大衆)は〈帝国〉を擁護した。大正デモクラシーとは、「帝国のデモクラシー」を意味した。「大正デモクラシーにもかかわらず」/「大正デモクラシーゆえに」、満州事変以降の列島社会は「戦時動員の時代」に突入することになる[6]

 

 もちろん、1924年前後の時期(大正時代)を「間違いのはじまり」や「デモクラシーの時代」だとばかり理解するのは一面的だろうが[7]、そのような両義性を胚胎しながら展開したのが大正時代だったことは改めて強調しなければならない。いずれにしても、そのような大正時代こそ、「現代社会」(現代の日本列島社会)の源流にあるものにほかならず、その重要性を無視することは到底困難である。明治時代と昭和戦前期の狭間にあるためにその一般的歴史像は残念ながら曖昧に過ぎ、忘却の彼方にあるとも言える[8]

 

 いわゆる「大正ロマン」という言説もこうした動向に棹差すものだろうが、以下の有馬学氏の議論にあるように、実際の状況を反映したものとは決して言えない。

 

 

「大正期日本は、『大正ロマン』という陳腐な表現に示されるような、〈偉大な明治〉と〈激動の昭和〉の間に咲いたひ弱な花ではない。近代日本が一般に激動の中にあったとするなら、大正期日本もまた激動していたのである。」

 

有馬学『「国際化」の中の帝国日本』(中央公論新社〈中公文庫〉、2013年、初出1999年)、9頁-17頁

 

 

 1924年という「100年前」の時代は、簡単に理解し簡単に解釈し簡単に消費することを許容しない。当然のことながら、それはどの時代・どの地域・どの人物においても該当するものだし、そのような理解・解釈・消費そのものは否定されえない。しかし、そのようなロマン主義的なものに象徴されるあり方が実際の100年前を反映しないことには十分に自覚的である必要がある。

 

 100年前というもっとも印象的かつ効果的な周年記念は、これまで何度も注目され続けてきたが、そこには相当に現在からするバイアスが包含され偽史的想像力も付随しないとは言えない。現在より100年前の時代というものがいったいどのような時代だったのか、しっかりと認識しておくことは重要だろう。

 

 1924年の列島社会がモダニズム文化の爛熟した平和かつ安定した「大正ロマン」の時代というのはあまりにも牧歌的・楽観的・空想的な認識である。そこには不況も格差もあったし、差別や暴力もあった。それは現在よりも相当に深刻に重大に存在した。「現代社会」の原型とは言っても、「現代社会」が「現代社会」のようになるのはごく最近年を待たなければならないのだから、現在からする理解には慎重であるべきである。

 

 筆者は「100年前」の日本列島社会を(正確に)みるためには、以上のような事情に留意するべきなのだと考えるし、それは、その他の如何なる「○周年」・「○年前」という言説にも該当するものだろう。

 

 もちろん、それが唯一絶対とは決して言わないし、そもそも言えないことは間違いない。

 

 だとしても、「後の時代になってから過去を振り返って、当時の人たちが抱いていたのとはかけ離れたストーリーを作ってしまうから」こそ、歴史一般への「誤解」が発生する事情や、「歴史」と「記憶」のバランスに留意しないまま後者に依存してしまうと、存在していたはずのもの・ひと・ことなどが不可視化されたり、他者の記憶への理解が困難になったりする事情[9]に鑑みれば、おそらく選択肢のひとつとして十分ありうるものだと思われるのである。

 

参考文献

 

有馬学『「国際化」の中の帝国日本』(中央公論新社〈中公文庫〉、2013年、初出1999年)

井上寿一第一次世界大戦と日本』(講談社講談社現代新書〉、2014年)

成田龍一『シリーズ日本近現代史④ 大正デモクラシー』(岩波書店岩波新書〉、2007年)

成田龍一『戦後史入門』(河出書房新社河出文庫〉、2015年、初出2013年)

那覇潤『日本人はなぜ存在するか』(集英社集英社文庫〉、2018年、初出2013年)

 

[1] 沼津市編集委員会編『沼津市史叢書7 大平村古記録』(沼津市教育委員会、2000年)、107頁-113頁

[2] 友野博「『大平年代記』解題」(沼津市駿河図書館編『沼津資料集成8 大平年代記 付 大平旧事記 大平道之記』沼津市駿河図書館、1981年)、6頁・小和田哲男「戦国期駿豆国境の村落と土豪」(『静岡大学教育学部研究報告 人文・社会科学篇』32、1982年)、15頁-18頁

[3] 友野、1981年 6頁

[4] 井上寿一第一次世界大戦と日本』(講談社講談社現代新書〉、2014年)、6頁-10頁

[5] 成田龍一『シリーズ日本近現代史④ 大正デモクラシー』(岩波書店岩波新書〉、2007年)、190頁-200頁・237頁-242頁

[6] 成田、2007年 i頁-vi頁・237頁-242頁

[7] 有馬学『「国際化」の中の帝国日本』(中央公論新社〈中公文庫〉、2013年、初出1999年)、9頁-17頁

[8] 井上、2014年 6頁-7頁

[9] 成田『戦後史入門』(河出書房新社河出文庫〉、2015年、初出2013年)、54頁-86頁・與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』(集英社集英社文庫〉、2018年、初出2013年)、39頁-55頁