寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

濫読漫筆①

・「濫読漫筆」を始めるにあたって

 

 最近流石に多忙になりつつあるためにゆゆゆ研究を放置しているものの、ブログそのものから離脱する状況には危機感を覚えたので、適当に読書した論文・記事の感想や適当に思考した内容などを定期的に雑駁に書き散らしてみることとした。名づけて「濫読漫筆」である。その名の通り、濫りに読み漫ろに筆をとったものに過ぎないから、内容の正確性はもとより考慮していないし、その妥当性は一切保証できない。だから、信用するべきではない記事である。それでもよければ本記事を濫りに/漫ろに眺めてもらいたい。

 

 なお、今回の内容は論文・記事の感想だが、歴史(学)関係が物凄く大量となっている(今後もそうなる気がするが、他分野まで足を広げられれば広げたいものである)。

 

・遠藤ゆり子「歴史手帖 秀吉の『全国統一』と東北」(『日本歴史』891、2022年)

 

 遠藤氏は小林清治氏の先行研究を踏まえながら奥州仕置に際した逃亡者の帰還過程を手際よく論じている。東北地方の「戦後」を戦国期民衆の立場から具体的に描いているものと言えよう。寺院の僧侶や「郷代官」など村落の有力者たちが果たした役割は注目される。興味深い内容だった。

 

 

内容・概要

 

1590年から1591年にかけて豊臣政権は東北の諸大名を服属させ「全国統一」を達成する。その最中の東北地方では、奥州(再)仕置によって多くの大名が改易・国替となるなど、豊臣方の軍勢の指揮下に新体制づくりが(「一揆」の抵抗もありつつ)進められることになった。この過程で仕置の抵抗する人々=「一揆」が目立つ一方で、住んでいた村町から山中や他所へ逃げた人々もいた。仕置軍は身の安全を守るために帰還命令には容易に従わなかったが、信頼できる顔見知りが仕置軍から得た「証文」を携えて必死に走り回って説得することでかれらはそれを信用して帰村し、戦乱後の村町の復興に向き合うことになった。

 


・小林和幸「史料散歩 鎌田勝太郎と衆議院選挙」(『日本歴史』888、2022年)

 

 鎌田勝太郎というと、筆者は香川県坂出市の鎌田共済会郷土博物館や隣接する香風園との関連で想起する。と言っても、実際にはゆゆゆ2期前半のOPにおいて乃木園子が香風園と思しき庭園でスキップしながら橋を渡るシーンがあって調べたから知ったに過ぎないが。


 そもそも鎌田勝太郎は醸造業で成功した鎌田家に生まれ、醤油醸造販売を成功させ、製塩事業・紡績業・金融業・化学工業や朝鮮半島における拓殖開発事業を展開するなど、事業家としても成功を収めた人物である。さらには香川県の教育・社会事業にも顕著な活動を残し、政治家として香川県会議員・同県会議長・衆議院議員(香川第三区選出)・貴族院議員(多額納税者議員)を歴任している。

 

 このような事績を残したかれの関係文書(史料)に関して、小林和幸氏は前出の鎌田共済会郷土博物館で同館歴代理事長の許可のもと所蔵史料の調査・整理を進めており、この論稿はその「鎌田勝太郎関係文書」のうち「明治二七年衆議院議員選挙関係」史料中「衆議院議員選挙契約証」を紹介するものである。


 当時の香川第三区は綾井武夫派と都崎秀太派の両派が伯仲し各選挙ごとにどちらかが当選するような状況だった。その後、両派に選挙契約が締結され、引退する都崎の後継者として鎌田が擁立され、契約証の通りに両派の支持を得て選挙に勝利する。両派の支持を受けたことで都崎の所属した改進党には加入しなかったが、対外硬を主張する大手倶楽部や無所属で活動した。契約証は明治29年6月をもって辞表を提出することを規定していたため、7月までに辞職する(補欠選挙は鎌田・都崎の推薦する綾井が当選した)。


 このような選挙契約が有効となったのは、当選者1人の小選挙区制・有権者数1000人程度の制限選挙・明白な主義主張の対抗関係の不在や地域代表としての意味の重視・日清戦争開戦後の選挙という事情による選挙競争の回避志向があったと小林氏は指摘している。また、先行研究=西尾林太郎「多額納税者議員鎌田勝太郎と貴族院改革」(2016年)が衆議院議員辞職の理由を多額納税者議員互選出馬とすることはこの史料によって単に選挙契約を忠実に履行しただけだとわかるという。

 

 また、鎌田にとっての衆議院議員経験は、その後貴族院議員となった際に香川県政界への通暁、衆議院議員への影響力保持などの「得がたい政治資産」をもたらしたし、多額納税者議員選出後は「香川県の代表」意識のもとに活動した事実も同種議員の性格を考えるうえで検証の必要があるとする。なお、末尾には長年にわたる鎌田家および関係各位の社会教育・文化事業への敬意が表されている。


 日本近代史研究の、しかも議会政治史研究というテーマの持つ膨大な研究史は正直よくわからないので何とも言えないが、近世・近代移行期の議会政治が「地方」に定着する過程を知るためには好事例だろう(もちろん、香川県政治史にとっての重要性は間違いない)。何よりも選挙契約の話題が面白いが、これからの鎌田勝太郎研究の深化が愉しみである。


・若槻剛史「歴史手帖 『栃木県人』であること」(『日本歴史』898、2023年)

 

 「栃木県人」であることの政治的意味を問う興味深い論稿。県人会と言えば非常に強固な紐帯があるというのが「常識」的発想だろうが、本稿はそれを根底から転覆させている。紐帯が弱いことを慨嘆される栃木県人会があり、そこに立ち現れた紐帯の弱さのために高等教育機関に進学しづらく、文官高等試験を受験しづらく、合格しても採用されづらい状況にあった、というのである。

 

 近代日本の官僚研究には興味がありながら触れられていなかったので、このあたりを正確に論じる資格はないが、長閥・薩閥や官僚の政党化はあっても試験という近代的な選抜システムに貫徹されているからそこまでものを言うことはないだろうと踏んでいたので、かなり意外だった。後は、「地方」や都道府県の近代性=構築性や旧藩社会論の文脈から議論の余地があるようにも思われたし、成田龍一『「故郷」という物語』(1998年)あたり(議論のなかで先行研究として触れられているのはもしかしたらこれかもしれない)を思い出しもした。

 

 いずれにせよ本稿が投げかけるのは、「✕✕県人」であることは決して強烈・濃厚なものばかりではなく、極めて多様なグラデーションのもとに意味を有する以上、それをそれとして追及されなければならないということなのだろう。

 

 

内容・概要


栃木県出身者による栃木県人会などの同郷団体は、(同郷意識に基づく紐帯を前提にすることなく)そもそも近世期の小藩分立状況による一体性の欠如や明治期以降の交通を通した他県との強い結びつきなどによって、昭和戦前期にすら紐帯が形成されにくい状態にあり、活動は停滞した。このことは県出身者の高等教育機関への進学のハードルを高め、低い進学率は結果として県出身者のエリート官僚化を阻害することとなった(文官高等試験迄は学力=本人の実力次第だったものの、省庁への採用にものを言う同郷出身官僚の紹介が期待出来ず、不利となった)。その一方、戦前の栃木県出身者が比較的に進出したのは、司法・警察分野だった。そして、こうした状況には「実直」だからこそ「正義」に重点を置く「情実」不要の世界において成功したという言説が登場し、戦後に侍従武官長・奈良武次が栃木県出身者への不当に低い評価を象徴する存在として「発掘」されるようになる。以上を踏まえ、若月氏は栃木県出身であること(栃木県人であること)が官僚・軍人・政治家のキャリアに少なからぬ影響を与え、その帰結として新しい言説が創造されたことを指摘する。政治史研究や選挙研究における政治家の生い立ち・地域の多様性に着目する潮流を踏まえ、日本政治史研究における✕✕県人であることの政治的意味の多角的分析の可能性を示唆する。

 

 

・久保田昌希「歴史手帖 今川氏真の行方」(『日本歴史』894、2022年)

 

 川崎市教育委員会による市域古文書所在調査に携わる久保田氏が調査過程で出会った1点の戦国大名北条氏関係文書(所蔵は川崎市麻生区王禅寺所在の王禅寺)を紹介するもの。引用されている翻刻文を筆者が読み下したものが以下である(※改行記号は削除、読点は残置した)。

 

 

存じ寄らず候処、此度出陣致すに就いて、御使特に御折紙を、披閲す本望の至りと存じ候、昨日は興国寺へ罷り移り、万端申し付け候、陣屋等これ無きの間、喜瀬川端に打ち返し陣取り申し候、明日は、吉原辺り迄陣を寄せ、一両日の内に、富士筋の地形を見聞せしめ、彼口の様子を申し達すべき覚悟に候、委曲は大草方に頼み入り候、恐々謹言
 七月十二日     氏照(花押)
           氏規(花押)
 韮山え       北条源三
   御報      □□□

 

 

 「韮山」宛の北条氏照・氏規連署書状で、2022年当時未知の連署状だという。ただし、王禅寺に関係する内容を持つ同寺の北条氏関係文書2点とは違い、関連性や伝承などが不明のため伝来経緯は不明である。文中の地名や文言から両者が同地域の戦況を報じたものであり、戦国大名今川氏滅亡後の永禄12年(1569年)における武田信玄駿河侵攻に関係する書状と推定する。記述の丁寧さ(「御使」・「御折紙」など)や小路名(「韮山」)などから今川氏真を宛所だとみなす。駿河国駿府→(駿河侵攻)→遠江国掛川城→(徳川家康との籠城戦ののち開城)→駿河国大平城(永禄12年閏5月半ば頃)→相模国小田原(元亀元年(1570年)9月)という経緯や「氏真=韮山」の認識からすると大平城移転直後に韮山に移動したことになり、6月半ばの信玄による三島・北条(韮山)侵攻を踏まえ北条氏の指示で堅固で大規模な拠点に移ったのではないかという。さらに久保田氏は「大草」を今川家臣の大草次郎左衛門とし、使者として書状を届けつつ軍事行動をともにしたとする。氏真の韮山移転のタイムラグに関しては、氏直を養子として駿河を譲渡するという政治的手続きと関連して駿河東端にある大平城に一時的に居ることで「駿河国主」たる体面を示そうとしたものだと説明している。

 

 調査に同行した加藤哲氏の氏照自筆の可能性の指摘や連署書状にみる北条氏政の弟たちによる結束の示唆なども興味深いが、タイトルにもあるように「今川氏真の行方」が新たに判明したことは意義深いものがある。短いながらも大変面白い内容だった。

 

・清水克行「起請文にみる武蔵六所宮信仰」(府中市編集委員会『新府中市史研究 武蔵府中を考える』1、2019年)

 

 起請文の「神文(罰文)」に挙げられる神名に当事者たちの信仰の反映を見る立場から中世における武蔵国総社・六所宮の信仰実態を「六所大明神」の神名を含む起請文・請文など7点、その可能性のあるもの1点、武蔵六所宮の護符を使用した可能性のあるもの1点から考察するもの。

 

 断定を避けながら慎重な検討を加え、中世後期の六所宮が武蔵国内外に持つ小さからぬ権威のあり方を指摘する。特に戦国期の永禄初年における上杉謙信の関東出兵に際し、武蔵の実効支配をめぐり北条氏・上杉氏が六所大明神への信仰をお互いに声高にアピールしあう事態は興味深く、そのような戦国期の意識が近世以降の多摩地域の信仰核化の前提となったとする指摘も納得できる。末尾で起請文言や料紙から地域の信仰実態を推測する研究の可能性を提起しているが、確かにあり得るものだろう。全体として比較的読みやすく、非常に面白い内容だった。

 

・竹井英文「城絵図の愉しみ」・荒木裕行「一九世紀の近世日本を取り巻く外圧と軍事技術革新」(『本郷』170、2024年)


 それぞれ竹井英文・中澤克昭・新谷和之編『描かれた中世城郭』(吉川弘文館、2024年)・荒木裕行・小野将編『日本近世史を見通す3 体制危機の到来』(吉川弘文館、2024年)の著者・編者が著書の内容について書いたエッセイである。


 前者は城の塀の狭間や毛利家に残る小田原合戦関係絵図を事例に中世城郭の城絵図について紹介するものである。後者は、近世日本の崩壊要因を「内憂外患」のうち「外患」=外圧が大きかったことを指摘し、19世紀の軍艦に関する技術的革新(蒸気機関の実用化・炸裂弾への移行・装甲の装備+回転砲塔・魚雷・潜水艦など)によって強力な軍事力が出現したことを具体的に提示している。短いながら示唆に富む内容だった。

 

・レジー「ファスト教養は何をもたらす?」(『中央公論』2022-4、2022年)

 

 ビジネスシーンで重視されると言われる「一般教養」や「リベラルアーツ」とは、実際のところ、「『個人の生存戦略に必要なツール』程度の扱いになりつつある」。「教養という言葉の持っていた様々な意味が剥ぎ取られた結果、『ビジネスの場で使える小ネタ』としての機能ばかりがフォーカスされ、そしてそこに多くの人が飛びついている」のが2010年代以降の日本社会である。レジー氏の論稿の最初に出てきたこういった文章に最初は驚き、しかし後には納得した。いやせざるを得なかった。実際、現代社会とはそうなのだから。


 「えらい人に話を合わせるツールとしての教養論」/「ビジネスシーンで役に立つ教養論」などは、それはそれとしてアリだろう。だが、レジー氏の指摘するように「このようなビジネスで成功するため(=金を稼ぐため)に教養というツールを使うといった考え方が、ここ数年力を持ちすぎてしまっている」のは問題である。


 いわゆる「ファスト教養」は、YouTubeを牙城として自己責任論蔓延る現代社会で生き残りへの不安を抱えた人々に受け入れられ、「社会全体への知の還元」という発想すらなく「個人の成功」が目的として最優先される。「成功への欲望と『使えない人材』としてのレッテルを貼られることへの恐怖の狭間で平衡感覚を失」い、「ビジネスシーンで振りかざすための大雑把な知識を手っ取り早く学ぼう」とするビジネスパーソンたち、かれらの先にあるのが(現在のように「教養」が取り沙汰されるきっかけとなった)オウム真理教と同様の「経済的なメリットのために深い思考プロセスや守るべき倫理を平気で放棄できる新しい『オウム』」だとしたら、あまりにも不味いだろう。この状況はファスト教養のみに限ったものではなく、「あらゆるものがビジネスの論理にからめとられていく社会の歪み」である。確かに、その通りだろう。


 もはや大正期以来の教養主義は1968年の合間に死に絶え、「教養主義の没落」(竹内洋氏)を迎えた。「大衆教養主義」(福間良明氏)も大衆歴史ブームに姿を変え、知の断片化を招きながら2000年代までに消滅する。勤労青年は必ずしも教養を重視しなくなり、高等教育の大衆化(もはや「ユニバーサル」段階である)にもかかわらず、教養は経済に従属させられた(ファスト教養の誕生と隆盛)。それはまさしく21世紀以降の現代日本社会の相似形である。だとすれば、どうしたらよいのだろうか。経済還元論を超克することは可能なのだろうか。読みながらも読み終わっても、その答えは出なかった。あるのは諦念ぐらいなものだろう。公共圏の再創造?教養主義リハビリテーション?正直、アトム化された個人には荷が重いと言わざるを得ない。

 

速水健朗「なぜ批評は嫌われるのか?」(『中央公論』2022-4、2022年)


 「一億総評論家」時代の先に「解釈」や「批評家」を嫌悪し「経験」・「共感」を重視する一億総批評家(?)時代が来た、ということなのだろうか。筆者の読解力がないからか、「なぜ批評は嫌われるのか?」への回答がよくわからず、読みはしたが読み飛ばした感が強い。反省したい。

 

・鴇田義晴「ムックが『時代を映す鏡』だった90年代」(『中央公論』2022-4、2022年)

 

 1990年代のA5判型サブカルチャー系ムックを通して1990年代の世相を概観するもの。実体験のない1990年代のサブカルチャーを知るためには良かったと思う。最後の最後で指摘されている(同時期に登場した)インターネット情報の散逸とムックの高いアクセス可能性は興味深く、「時代を映す鏡」と言われればその通りだろう。だが、裏を返せばそれ以降の「時代を映す鏡」が紙からインターネットへと転換するなかでその時代を解明しきれなくなることも想定されるわけであり、アーカイブサイトも万能ではない以上、厄介である。

 

・『御成敗式目』第1条~第51条注釈メモ(※特記の無い限り「御成敗式目」『日本思想大系21 中世政治社会思想 上』笠松宏至校注より引用)


・その左右に随ひて=幕府の指示・命令に随って
・後勘=後日の咎め
・地利=その土地から生じる収益得分
・対捍=不服従・敵対
・愁欝=訴訟
・自由=いわれのない
・結解(ケツゲ)を遂げ勘定を請くべし=決算を遂げ本所の監査を受けるべきである
・難渋=速やかに履行しない
・口入=容喙・干渉
・越訴=敗訴人による再審請求・違法の訴訟
・その次を守りて=その機会を捉えて
・擬す=企む
・面々の=各自気ままな
・理非を論ぜず=権利の正当性にかかわらず
・兼日=あらかじめ
・論所=当該訴訟の対象物権
・張行=強引に・あるいは表立って事を行うこと
・結構の趣=たくらみの趣旨
・見存=現存・生存中
・侘傺(タクサイ・タテイ)=困窮・特に経済的貧困
・証跡=証拠文書
・掠め=あざむき
・参差(シンシ)=齟齬矛盾
憲法の裁断=公正な判決
・職(モト)としてこれに由る=もっぱらこれに原因する
・偏頗=えこひいき
・構え申す=強く主張する
・濫吹=みだりなこと
・炳誡(ヘイカイ)=明らかな誡め
・追却=追放
・不日=速やかに
・拘惜=身の引き渡しを渋る
・密懐=密通
・懐抱=抱き通じること
・参決=ともに謀って決すること(「参決」『字通』)
・雑物(ゾウモツ)=農具その他の動産
・員数に任せて=元来の数量を計算して
・事を左右に寄せ=種々の理屈をつけて
・限りある=有限=厳重の・尊重すべきなど
・綱位=僧綱、僧正・僧都・律師
・資(タスケ)を傾け=よりどころを失わせ
・臈次=法臈の多少の順、出家後の年数による僧の座の順序(「臈次」『日本国語大辞典』)
・諷誡=婉曲にいさめること
・私曲=不正行為
・所出物=年貢などの収益
・申し沈む=故意に罪科に陥れる
・理運の訴訟=正統な権利の保有者の訴訟
・淵底を究め=十分な審理を遂げたうえで
・自然=万一・時として
・事切れの条々=落着した結論
・別して=中でも
・兼日=かねての日・あらかじめ(「兼日」『日本国語大辞典』)

 

・三谷博「『開国』の三論点」(『歴史地理教育』938、2022年)


 三谷氏の議論は以前に『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)・『維新史再考』(NHK出版、2017年)などで読んだので、特段目新しいものはないように思われた。内容は、①松平定信の長期的視野に基づく対策(「危機の長期的意識と対応」)の評価、②天保改革後の徳川公儀による「強い制約下での選択と政策転換」の評価、③国内世論の反発から政体変革への過程(「外交に対する国内世論と政治体制の関係」)の言及からなる。徳川公儀(および大名家)の対応への肯定的評価と国内世論への否定的評価が対照的だったが、「未熟」状態に長らく差し止められた人びとによる外交を口実とした活発な発言が外交を混乱に陥れたというあたりはやや気になった。近世日本社会の村落レベルに至る知や政治経験の蓄積と享受は身分・地域・ジェンダーなどによる差異はあれど一定以上のものだったのだから、政治的能力は「未熟」だとしても全面的に否定されるべきものなのかは疑問に思った。

 

・横山伊徳「日米和親条約再考」(『歴史地理教育』938、2022年)


 日米和親条約の各言語版の比較から「和親」表現を親善(日本)・和平と親善(アメリカ)と相互に相違して解釈された点を指摘し、その後羽賀祥二氏の三重構造論を批判する。最終的には、和親条約という契約化による(将軍の意志に基づいた)近世外交の大転換を強調する。最後の箇所は、従来の議論で近世的対外関係の維持という従来の見方を転覆し、19世紀東アジアの客観的状況に他律的に規定されたものだったとする。個人的には、横山氏の批判する近世外交維持説の支持者だったので、意想外だった。言われてみれば、確かにそうなのかもしれない。

後藤敦史「アメリカ海軍にとってのオープニング・オブ・ジャパン」(『歴史地理教育』938、2022年)


 『忘れられた黒船』(講談社、2017年)の著者による議論。アメリカの史料をもとにアメリカ海軍に注目して「開国」の意味を検討するもの。アメリカの東アジア戦略(東アジア市場・イギリスへの対抗・「鎖の最後の環」=欧米諸国による世界一周交通・交易ネットワークの完成など)の文脈で日本の「開国(オープニング・オブ・ジャパン)」が持った意味を明らかにしようとする。世界史的文脈のなかで「開国」を位置づける際に参考になるだろう。

 

・上白石実「日米修好通商条約は押し付けられた不平等条約か」(『歴史地理教育』938、2022年)

 

 日米修好通商条約を「押し付けられた不平等条約」とする見方を批判するもの。条約の遊歩区域の設定をめぐる日米交渉を再検討し、条約を担当した幕府外交官の高い能力を評価する。遊歩区域の設定は遊歩区域外への立ち入り(内地旅行)と居住(内地雑居)を禁止し、その後(混在による国内の混乱状況を未然に防止する本来の意図とは別に)日本産業を保護する=輸出産業と日本人商人の成長を促進する役割を果たした。こうした交渉にあたった幕府外交官の優秀性は、『通航一覧』など対外関係史料を整理・編纂する(外交関係情報の蓄積)とともに学問吟味を採用し有能な人材を輩出した(外交関係人材=外交官の養成)昌平坂学問所が担保し、明治政府の外務省にもその情報と人材が引き継がれるという。


 正直、藤田覚『幕末から維新へ』(岩波書店、2015年)・井上勝生『開国と幕末変革』(講談社、2002年)・同『幕末・維新』(岩波書店、2006年)などを既に読んでいたので、近世末期の徳川公儀の外交交渉の積極的評価にまったく同意した。ただし、荒野泰典『「鎖国」を見直す』(岩波書店、2019年)や上白石氏の議論を以前(一部)参照した経験からすると、「おわりに」でさらっと触れられている「近代化の出発点」としての「開国」言説の定着が日清戦争後であり、「条約改正に成功し日清戦争に勝利した明治政府が、維新以来自らがおこなってきた改革が正しかったと認識し、その出発点を時代の転換点として開国と表現し」た際に「押し付けられた不平等条約という言説が生まれた」というところはもっと強調してもよいと思った。

 

・大橋幸泰「文明開化とキリスト教」(『歴史地理教育』940、2022年)

 

 日本近世のキリシタン研究の第一人者・大橋幸泰氏の論稿。Religionの訳語・「宗教」の(比較的遅延した)定着に当時の人々が西洋人のreligion=キリスト教に強く印象付けられたことを指摘したあと、西洋人という外部との接触以前に同時期に日本社会内部でキリスト教が意識される事件(長崎の浦上における潜伏キリシタンの出現)の存在を強調する。この論文は基本的にその事件を通して近世・近代移行期の秩序変容に迫るものである。


 キリシタン禁制を継承した明治政府は、徳川公儀倒壊直前に長崎奉行が捕縛した浦上のキリシタンを諸藩に配流して棄教=改心を促すこととした(ただし、その論理は神道国教化と神仏分離である)。衣食住の優遇や厚葬、外稼ぎの承認などの待遇改善のメリットや家族の離散状態・日常生活の回復という切実な願望により改心者はいたが、①新政府の思惑通りに信徒を誘導できなかったこと(配流キリシタンの抵抗)、②配流先の信徒の生活態度が諸藩役人や領民のキリシタンへの警戒感を軽減させたことによって、信徒の帰村が実現する(ただし、禁教高札の撤去は法令公布方法の変更、信徒の帰村は配流政策の矛盾に理由を求められるのであって、西洋諸国の抗議が原因ではない)。


 しかし、配流処置は不改心者・改心者の出現と両極分断を招来し、帰村後の村社会は村内・家族内の不和を惹起して深刻な分断状態に陥った。大浦天主堂の宣教師の指導下に入った新派、先祖伝来の信仰活動を保持しようとした旧派、神仏信仰に軸足を置いたグループという3グループによる分断のなかで、最終的に(浦上村山里の)村社会の多数派を占め主導権を握ったのは新派だった。だが、明治政府は神道の優位性を維持したまま「信教の自由」を打ち出すため神道非宗教論を打ち出し、国家神道へとつながることになる。それは村社会も例外なく覆う「誰もが従うべき国家神道を前提とした『信教の自由』」の枠組みが成立してくる過程でもあった。


 キリシタン禁制下の近世日本社会は異なる諸属性を共存状態に置くことができていたが、近代日本の天皇制国家はその共存状態を破壊し、明快に諸属性を分断し、それを覆うように国家神道の論理が貫通し、国民国家(近代国家)の強い統制のもとに包摂・呪縛されるようになったのだった。


 と、だいたいこういう内容である。堅実な筆致と民衆史的な問題関心による叙述がなかなか面白く、「おわりに」の「決して近代の人びとが近世の人びとより解放されたとはいえない」という箇所は突き刺さる。曲がりなりにも「袋」が重層的に折り重なりながら展開した近世日本の身分制社会は間違いなく身分制社会ではあったにせよ、ある程度の他者を共存させられるだけの余地を残した社会だった。このことは、わたしたちが近代社会を見るときによく見ておかねばならないことである。

 

・金田章裕「西打遺跡(高松市)」(『古代・中世遺跡と歴史地理学』吉川弘文館、2011年、初出2001年)、95頁-100頁

 

 歴史地理学研究の第一人者による研究書のうち、香川県高松市の西打遺跡について書いたもの。非常に短い論文だが、内容は極めて興味深い。荘園の実態解明には文書史料と発掘成果を相互参照しながらやると相乗効果があるから有効だという議論のあとで、香川県善通寺市高松市の事例を紹介しつつ相乗効果による有効性を実際に提示する。つまり、両者の類似性(中世段階での集村化現象の不在)から相互検証可能性を指摘し、讃岐平野の散村状況の主な理由を「中世における集村化現象の欠如」に求めるというように、である。

 

 これはゆゆゆ研究のために集積した文献だったが、結局使用せずじまいになった。というよりも前に、そもそも讃岐平野が散村地帯なことを知らなかったほどに筆者が無知だったことを反省したい(正直、富山県のイメージがかなり強かった)。「勇者」たちの「日常」の背後にある歴史性を指摘するのに援用できたかもしれない。それと個人的には荘園史研究や景観研究などの近年の進展からすると微妙なところもありそうに思えた。とはいえ、中世後期の集村化現象が必ずしも一般的傾向だと言えないことは把握できてよかった。

 

 

内容・概要


古代荘園(一定範囲内に散在する地片の集合、田は輸租・畑は不輸租)と中世荘園(領域型荘園、不輸不入権あり)のつながり=連続性・断絶性を考えるうえで、各種資料(文書史料や現地調査・発掘調査の成果など)が欠かせない。そうした荘園の全貌を知るためには、同時代の古地図(荘園図)や文書史料がまず必要である。特に、前者が残存する場合は全体構造の把握に有効だから貴重だが、そこに発掘調査の成果が加わると両者の相乗効果で情報は質量ともに増大する。以下、両者の相乗効果による実態解明の実例として香川県善通寺市高松市の事例を確認しながら考察する。


讃岐国善通寺領の荘園(現在の香川県善通寺市)では、文書史料・古地図資料から「一四世紀に至っても、家屋はその所在地を変遷しつつ、全体として散財した疎塊村状の集落形態を維持し」たこと(「集村化現象」の不在)が確認され、香川県高松市の西打遺跡でも、発掘資料から酷似した状況が見られる。このことから、「一二世紀以来、『在所』あるいは家屋群が散在し、それらが必ずしも同一地点を踏襲していないという状況」が相互に検証されることとなる。そして、それは讃岐平野の農村地帯における村落景観(近代まで継続する小村・疎塊村などのまばらな分布が卓越する景観)最大の要因が「中世における集村化現象の欠如」にあったことを示唆する。