寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

虚構のなかの地域、現実のなかの地域 —ゆゆゆ研究のための覚書—

1、はじめに 虚構のなかの地域、現実のなかの地域

・ゆゆゆ研究と「地域」の問題

 

 筆者は、去年以来本ブログを通して「勇者である」シリーズ(以下、「ゆゆゆ」と呼称)を研究する「ゆゆゆ研究」を実践してきたものの、「地域」という問題について考えることがあまりなかった。とはいえ、ゆゆゆの舞台となる香川県四国地方などの「現実」の地域を「聖地」として意識することはあったし、研究とは関係なしにいわゆる「聖地巡礼[1]を経験したこともあり、頻繁に筆者の撮影した「聖地」の画像を引用している。「虚構」の地域に関しても、「勇者」たちの実際に生活する場所として非常に重視し、そこに立ち上がる神世紀/神世紀移行期四国社会の問題を、徹底的とは言わずともある程度意識して研究したつもりである。だが、よくよく振り返ると、それはかれらの生活する社会そのものを地域の名前を借りて論じているだけで、かけがえのない固有性を持った地域の文脈では述べてこなかった。

 

 そもそも筆者の研究上の立場は、ゆゆゆをひとつの独立した虚構世界(作品世界)として取り扱いながら、現実の日本列島史/日本列島社会の延長線上にあるものとしても把握するものである。そのうえで、現実における議論を参照した批判・考察を展開することで、ゆゆゆへの理解を相対的に深化させるとともにゆゆゆを鏡像として現実の「わたしたち」への反省的まなざしを獲得することを目的としている((拙稿「方法としてのゆゆゆ ―ゆゆゆ研究という可能性―」(https://terasue-sohcho.hatenablog.com/entry/2023/09/02/180000(2024年4月27日閲覧))参照))。

 

 

terasue-sohcho.hatenablog.com

 

 

 このような観点からすれば、聖地巡礼の事例を挙げるまでもなく、現実とクロスする虚構=ゆゆゆの地域という観点から研究することもひとつの方法たり得ることは明白だろう。しかし、聖地巡礼のタイミングが香川県のみならず四国地方への初上陸だったというほどに筆者と香川県四国地方はつながりが希薄であり、香川県四国地方の歴史や文化などへの造詣も深くない。

 

 また、ゆゆゆには、(筆者とはまったく実践の方向性を異にするとはいえ)「リジス」氏による同人サークル・聖地巡礼(舞台探訪)ブログ・「つればし」という非常に素晴らしい先達が存在する以上、聖地巡礼の経験不足と聖地地域への理解不足を併せ持つ筆者がそれを更新するなどという軽挙妄動に打って出ることは不可能である(ただし、香川県大橋市(※2024年4月27日現在の日本における香川県坂出市に相当する神世紀四国の自治体)のイネスに関するコラムは準備しているところである)。それゆえに、地域という視座からするゆゆゆ研究は、筆者にとって残念ながら放棄せざるを得ない状況にあると言わなければならないのである。

 

 しかし、それはそのまま放棄してしまうにはあまりにももったいない。地域という視座は、今後のゆゆゆ研究の展望を考えたときに極めて重要な意味を持つ。これまで焦点化されてこなかった地域には、虚構のなかの地域かつ現実のなかの地域という両義性がある。とすれば、虚構と現実双方への指向性を前提とする筆者のゆゆゆ研究にとって、相当の寄与が見込めることを示唆している。何らかの実践的事例を提示することが筆者には要請されているだろう。

 

現代社会と虚構/現実のなかの地域

 

 また、虚構/現実のなかの地域とは、ゆゆゆ研究以外の現代社会の観点からも有意義なものだと思われる。2000年代後半以降、『らき☆すた』の埼玉県北葛飾郡鷲宮町(現在の久喜市)を手始めに、『けいおん!』の滋賀県犬上郡豊郷町、『ガールズ&パンツァー』の茨城県東茨城郡大洗町、『ラブライブ!サンシャイン!!』の静岡県沼津市などのアニメにおける聖地巡礼(コンテンツツーリズム)が勃興し、地域社会の応答・反応などを媒介としてさまざまなアクターが相互的に関係しつつ(往々にして継続的に)聖地が大規模に成立することとなった[2]。その結果、巡礼過程で形成された地域との結び付きから「観光文化によって地域に生じた新たな共同性」が示唆されたり[3]、「自分の興味を突き詰めた結果、観光という現実空間に身体を移動させる行動に出た結果、他者性を持った他者との出会いの回路とな」ったりしている[4]現代日本社会の地域は、その一部においてもはや明白に虚構との関係性を刻印される事態に直面している。

 

 

鷲宮神社(埼玉県久喜市)門前(2024年2月筆者撮影)

 

 

 岡本健氏はアイドルアニメを対象とした議論のなかで「アイドルは、虚構空間上の存在では終わら」ず「様々な形で現実空間と関わりを持つとともに、様々なメディアを通してアクセスできる対象になっている」としたうえで、「我々は、現実空間、情報空間、虚構空間上に遍在する『アイドル』をまなざし、『いないかもしれないがいてほしいもの』を求めて身体的、精神的に移動を繰り返している」とする[5]。このような状況は決してアイドルアニメに限定されるものではあり得ず、聖地巡礼を随伴するアニメについても該当するものだろう。

 

 

豊郷小学校旧校舎群・音楽室(滋賀県犬上郡豊郷町)(2023年10月筆者撮影)

 

 

 また、宇野常寛氏は、貨幣と情報のネットワークによる世界の一体化のために〈外部〉=〈ここではない、どこか〉が世界から消失した(「この世界は終わらないし、外側も存在しない」)現代社会において、虚構は〈外部〉=もうひとつの現実として機能することなく、むしろ現実の〈内部〉を多重化し、拡張する存在として機能するようになったという。そして、このように「〈いま、ここ〉の拡張=拡張現実」によって特徴づけられる時代は「拡張現実の時代」だと指摘する[6]。作品分析を中心とする議論の関係上、その全体を肯定可能だとは言わないものの、現代社会そのものの性格として「拡張現実」的な要素が増大しつつあることは卑近な諸例を想定すれば容易に承認されることだろう。

 

 現代日本社会の一部における限定的な事態かもしれないが、少なくとも聖地巡礼という営為は、虚構と現実という二項対立的な構図が相対化され、両者の境界線が曖昧となり截然と分割しづらい(ともすると渾然一体とした)状況を明快に浮かび上がらせている(ただし、虚構のなかの地域が現実のなかの地域と接点を持つためには、基本的に地域の次元で前者が後者に接近する事態を想定しなければならない)。そのような事態≒「仮想現実の時代」の現場こそ、まさしく地域にほかならない。虚構/現実のなかの地域という視座は、こうした状況分析に際して有効となると思われる。

 

 

「私たちは〈いま、ここ〉に留まったまま、世界を掘り下げ、どこまでも潜り、そして多重化し、拡大することができる。そうすることで、世界を変えていくことができる。ハッカーたちがシステムの内部に侵入して、それを書き換えていくように、私たちは今、どこまでも世界の中に『潜る』ことで想像力を発揮し、世界を変える術を手にしつつある。」

 

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎、2015年、初出2011年)、455頁

 

 

・地域(史)研究の留意点

 

 もちろん、「地域」なるものの内実は多元的・多義的であり、その追究方法も含めて一意に決定されるものではありえない(当然のことながら、地域に関する本質主義的な解釈はここでは意味を為さない)。

 

 板垣雄三氏の提唱した「n地域」論は、帝国主義による差別体制の再生産システムとそれに抵抗する民族運動、クサビとしての民族主義が相互に抗争を展開する場所として「n地域」を設定し、「一小村落あるいより小規模の地域(論理上、最小の地域は個人)から、大きくとれば人類的・地球大的規模の地域まで」を対象たり得るとするものである[7]。それゆえに、地域(史)[8]とは、「郷土史」・「地方史」・「地域史」レベルや「地域研究」レベルのみならず、相当に広範囲を包含するものだと言えるだろう。そして、「n地域」論の(帝国主義における支配・抑圧の重層的な把握のための)「操作概念」という性格に見られるように、「それ(n地域:引用者注)をどのように設定するかという点については研究者自身の問題関心が問われるきわめて構築性の高いものである」(だから、対象の伸縮自在性=アモルファスは多義性・多形性の文脈というよりも、諸アプローチによる実践可能性の意味で把握されるべきである)[9]

 

 したがって、地域(史)研究にとって、「地域」の次元・位相の設定や分析手法・視角の選定、研究対象の精査などにおける研究主体の主体性は相当に厳しく問われ続けなければならない。融通無碍に地域を設定し、無根拠・無定見に地域を論究することは、地域を研究するに際して非常に問題があり、とりわけ問題意識の重要性は無視されるべきではない。ゆゆゆ研究においても、現代(日本)社会の研究においても、虚構/現実のなかの地域という視座からするものは、絶えずその「地域」なるものの内実が追求されなければならない(もちろん、それはその他の人間社会を対象とするあらゆる研究に適用されるものだろう)。

 

・『ラブライブ』を対象とした具体的な実践事例へ

 

 以上のような問題もあるとはいえ、差し当たりゆゆゆ研究と現代社会にとって虚構/現実のなかの地域という視座の有用性・有効性が認められる得ることは言えるだろう。それでは、ゆゆゆ研究における実践が困難な立場に置かれた筆者において、具体的な実践事例はどのように提供されることになるだろうか。

 

 筆者はその事例として『ラブライブ!』シリーズ(以下、『ラブライブ』と呼称)のうち、『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』(以下、「虹ヶ咲」と呼称)と『ラブライブ!スーパースター!!』(以下、「スーパースター」と呼称)を具体的に取り上げ、その聖地である東京都港区・品川区・江東区の「お台場」地域、東京都渋谷区の青山・渋谷・表参道地域を対象として、簡単に虚構/現実のなか地域を論じてみたい。

 

 なお、『ラブライブ! School idol project』(以下、「ラブライブ」と呼称)や『ラブライブ!サンシャイン!!』(以下、「サンシャイン」と呼称)、『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』などの聖地となる地域に関しては、それぞれの自治体史[10]をはじめとして、河嶌太郎氏および松山恵氏・森川嘉一郎氏ら(東京都千代田区の「秋葉原」地域)[11]、毛利康秀氏および中村只吾氏・渡辺尚志氏・樋口雄彦氏ら(静岡県沼津市[12][13]、木越隆三氏・宮下和幸氏・本康宏史氏・人見佐知子氏ら(石川県金沢市[14]の議論・研究を参照されたい。

 

2、虚構/現実のなかの地域と『ラブライブ』 —『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』・『ラブライブ!スーパースター!!』を事例として—

・『ラブライブ』と地域

 

 そもそも『ラブライブ』は、いずれの作品においても地域という要素(地域性)が一定程度打ち出され、現実のなかの地域が半ば意識的に虚構のなかの地域に盛り込まれてマルチメディア展開されることで、両者の境界が融解する傾向にある。まさしく拡張現実の時代の象徴と言えるような事態である。

 

 

沼津駅南口駅舎(静岡県沼津市)(2024年2月筆者撮影)

 

 

 実際、松山周一氏は、「サンシャイン」について、「『聖地』となる場所を全面的に押し出し」た作品展開と関連するようにして、「写実的な背景」(「実際の景色に限りなく近づける形の描写」)・「強調された背景」(背景を強調する描写の頻繁な登場による視聴者の聖地特定・「魅力」感知の円滑化)・「パスを意識した演出」(聖地巡礼の円滑化を期した商品展開や多数の関係個人・団体による「協力」クレジット)という「場所の表象」がなされることで、聖地巡礼を「誘発」させていると指摘している。また、「制作者が『聖地巡礼』を意図的に、また戦略的に行っているということもうかがえる」ともする[15]。「サンシャイン」はもはや虚構のなかの地域を現実のなかの地域に従属させることによって両者をほとんど同一の次元に落とし込み、虚構の現実化(拡張現実化)に成功していると言えるだろう。

 

 たとえば、『ラブライブ!サンシャイン!! Find Our 沼津 ~Aqoursのいる風景~』(原作矢立肇・原案公野櫻子・キャラクターデザイン室田雄平・写真U5 K・イラスト火照ちげ、KADOKAWA、2023年)などは両者における固有性・日常性の文脈から地域=「沼津」のなかのキャラクターを絶妙に活写する内容であり、もはや両者を区別することは不可能なレベルに到達している。

 

 もちろん、こうした「サンシャイン」の事例は例外的かもしれないが、それぞれの作品において聖地巡礼が隆盛した/する/しつつある現状を考慮すれば、両者の重なり合いはある程度普遍的に認められ得るだろう。いずれにしても『ラブライブ』における地域は虚構と現実の双方の次元で参照されるものとなり、拡張現実的な事態が真っ先に生起する「ところ」として浮上する(おそらくその後に浮上するのはライブ=「声優—キャラ・ライブ」だろう[16])。

 

 

金冠山(静岡県沼津市)より沼津市域を望む(2024年3月筆者撮影)

 

 

 だが、神田明神秋葉原駅周辺一帯、「昔ながらの古い建物が残存」している主人公・高坂穂乃果の居住地域(東京都千代田区神田須田町一帯などが登場し、「東京の中のローカル(東東京)」を舞台とした「ラブライブ[17]や、「母校愛とともに地域愛が全面的に打ち出されている」「サンシャイン」[18]はともかく、「虹ヶ咲」や「スーパースター」は必ずしも明確に地域が登場するとは言えない。どちらも現実のなかの地域を参照して虚構のなかの地域に反映させ、その意味や文脈、特徴が相互に共通して機能する場合もあるが、その地域固有の文脈が環境・風景以上の意味を以て主体的に浮上することが比較的少ないように思われる[19] [20]

 

 しかし、キャラクター=スクールアイドルたちは紛れもなく地域(虚構のなかの地域)との関わり合いのなかで生活し、その地域で定期的にライブを開催するため、生活の内部に地域の要素(地域性)が確実に貫入するはずである。そして、そこには現実のなかの地域もまた顔を覗かせることになるだろう。

 

 以下、筆者は相対的に影の薄いと想定される「虹ヶ咲」・「スーパースター」の地域(の主体性)をそれぞれ確認するとともに、両者における虚構と現実のリンクを指摘したい。

 

 

明神男坂(東京都千代田区)より坂下を望む(2024年4月筆者撮影)

 

 

・「虹ヶ咲」と虚構/現実のなかの地域

 

 まずは「虹ヶ咲」である。「虹ヶ咲」の舞台・お台場(東京都港区・品川区・江東区)は、「台場」の名前の由来となった近世末期の海上砲台(品川台場)があるとしても、(世界都市博覧会構想と絡みながら)「東京臨海副都心」としてようやく臨海部の開発=埋立・造成が進展した結果、20世紀末以降にようやく(物理的に)成立した地域である。だから、歴史や伝統を付随した地域のあり方ははっきりとしないし、(完全に不在というわけではまったくないのだが)探しても見つかりそうな「古層」はおおよそ海洋=内海ないしは埋立・造成に使用した土砂・セメントなどとなるだろう。無論、鈴木博之氏が「地霊(ゲニウス・ロキ)」という概念を援用しながら東京という都市の歴史を「土地の歴史」として描き出し[21]中沢新一氏が「アースダイバー」として縄文地図を使用しつつ近代の表層に隠蔽された「野生の東京」を見つけ出してみせたように[22]、そこには紛れもなく主体性のある地域(東京という地域)が存在する。だが、お台場には例外的にあまりないと言わざるを得ない[23]

 

 とはいえ、そのことは主体性のある地域(地域性)の不在を意味しはしない。若林幹夫氏が指摘するように、お台場とは、周囲の都市空間を何ら積極的な意味を持たない「余白」に還元し、隣接地域やその土地の空間や歴史とはまったく関係なしに(来訪者たちを消費に導引するような)恣意的なコンセプト・記号・イメージのみを内部に注入することによって成立した、周辺地域に背を向けた自己完結的な自称「街」・「都市」である(そして、またそれは東京の「典型的風景」であり「都市の現在の前線(フロンティア)」でもある)[24]。(「虹ヶ咲」にも登場する)ヴィーナスフォートや台場一丁目商店街などの施設群は、まさしく「周囲の空間の雑駁さを遮断して『商品の宇宙』に浸してくれる場所」である。そこにあるのは、「空間的にも歴史的にも何の必然的な脈絡をもたないコンセプト、イメージに基づくデザインや記号をくまなく散りばめ」た「擬似的な都市空間」に過ぎない(ただし、そうした観点は「特定の意図や目的をもつ、特定の社会的な位置から見た場合にそうだということでしかない」ことには留意されたい)[25]

 

 これらの事実を踏まえれば、お台場に歴史や伝統が不在であることを問題視するよりも、むしろそこからあまりにも乖離し過ぎていることを強調すべきだろう。したがって、お台場は逆説的に(徹底的に地域性と断絶した)無地域性という地域性が胚胎されることになる。つまり、非主体性という主体性が存在するのだから、お台場という地域の非主体性は問題とはならず、主体性の不在だからこそ、意味がある。

 

 翻って「虹ヶ咲」を確認してみると、まずアニメ版「虹ヶ咲」1期OP「虹色Passions!」や同2期OP「Colorful Dreams! Colorful Smiles!」がステージを水没する虹ヶ咲学園校舎屋上やレインボーブリッジ手前の特設水上会場に設定していることに気づくが、それはお台場の地域性を如実に表現するものだと言えるだろう。作品全体に拡延してみても、高層マンションや娯楽施設・商業施設が多数登場し、(人工都市的な要素が強烈だとしても)それぞれは明白に何らかの「生活」を感じられる一方で、非日常的な祝祭の雰囲気で彩られた賑やかな街並みと単なる居住空間として完全に均質化された高層建築群がはっきりと分離して存在する様子が描かれ、娯楽施設・商業施設に関しても、それ自体として自己完結して相互に関係することはない。こうしたあり方は非常に味気ないようにも思われるが、まさしくこうしたところに自己完結的な自称「街」・「都市」(「擬似的な都市空間」)として恣意的に成立したお台場の地域性が現れていると言えるだろう。

 

 

1期OP(「虹ヶ咲」1期2話・©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会



 しかも、「虹ヶ咲」の場合、両者のうち前者の要素が非常に強調されるため、後者のような消費者以外の人々(生活者)が目立たず、あたかも非現実的な非日常の祝祭空間としてのみ存在しているように感じてしまう。さらに、そこには歴史や伝統がほとんど前景化しないため、各種施設が何もかも完備されているにもかかわらず、はっきりとした特徴(共通性・独自性)が出てくるようには思われない。ただ娯楽や消費があるだけの空間にしか見えず、「異常」だとも評価し得るだろう。主人公たちの通う虹ヶ咲学園は大規模イベント会場(コンベンションセンター)である「東京国際展示場東京ビッグサイト)」をモデルとするが、そのことは「虹ヶ咲」におけるお台場の祝祭空間に(自己完結的に)純化された地域性から遊離した無地域性(非主体性)をよく表現するものだと見なせる。付け加えれば、虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会を中核として集大成的・総力的に実施され、作品上非常に重要な位置を占有することになる「スクールアイドルフェスティバル」は、その名の通り「フェスティバル」(祝祭)にほかならない。

 

 

 

虹ヶ咲学園(「虹ヶ咲」1期1話・©2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 

 

 以上を踏まえれば、お台場という地域の無地域性(非主体性)というものが虚構と現実双方において貫通して存在し、それぞれ相当高度に表現・実現されることで、その「内容」(作品世界/現実世界における生活・日常性)に多大な影響を与えていると言わなければならない。両者の関わり合い(リンク)はある程度認められるだろう。

 

・「スーパースター」と虚構/現実のなかの地域

 

 続いて「スーパースター」だが、その舞台は「表参道と原宿と青山という3つの街のはざま」にある「私立結ヶ丘女子高等学校」である[26]。ただし、実際には「3つの街」のうち表参道と原宿が渾然一体となって判然とせず、2期で渋谷方面もある程度登場することから、ここでは舞台を青山・渋谷・表参道と言い換えておくことにする。

 

 そのうえで、主体性のある地域(地域性)とは、「3つの街」においてどのようなものになるだろうか。作中に登場するものから考察してみよう。

 

 まず登場人物のひとり・平安名すみれが表参道を「100年前からある」と述べているように(アニメ版「スーパースター」1期8話)、それは1920年に完成したものである。また、それ以外に聖地として登場する神宮外苑明治神宮や代々木公園とその前身(代々木練兵場・ワシントンハイツ)、国立競技場(新国立競技場)・明治神宮野球場などを列挙してみても、やはり近現代を通して成立したものばかりとなる。そのほかにも、「ここ東京南西地区は渋谷を含む流行の最先端地区」という表現が出てくるが(アニメ版「スーパースター」1期10話)、そうなったのは1970年代以降「東京の盛り場」が新宿から渋谷へと移行することによって生起した状況である[27]。それらは間違いなく地域性を示唆するものとは言えるだろうが、あまりにも有名であるために「東京」=中央の先進的・通俗的な都会イメージとの近接性が過剰となり、主体性を認定するにはやや微妙である。近現代に偏重するのも悪いとは言わないが、お台場のように明快に現代的存在とは言えない地域なので、やや物足りない印象がある。もう少し前近代まで遡及しつつ、よりはっきりとした地域性を探索する必要があるだろう。

 

 

「道と道が結ばれるこの場所」(「スーパースター」2期8話・©2022 プロジェクトラブライブ!スーパースター!!)

 

 

 武田尚子氏によれば、青山・渋谷・表参道地域には、「寛文五年(一六六五)に千駄ヶ谷焔硝蔵が設けられて以来、三五〇年余、『尚武』から『勝負』へと、連綿と『武』に親和的な土地の特徴が存続してきた」という。たとえば、近世の千駄ヶ谷焔硝蔵(火薬庫)、明治の陸軍火薬庫(明治維新期)・青山練兵場(明治20年代)、大正・昭和戦前期の明治神宮外苑と陸上競技場・野球場・相撲場、現代の国立競技場(国立霞ヶ丘競技場)(昭和戦後・平成期)・国立競技場(新国立競技場)(令和期)、というようにである。「近世の江戸幕府における軍事的布置」がそのまま近現代へと継承され、「近代軍隊の『尚武』の鍛錬場所」が、現代において「スポーツによる『勝負』の場所」として相似形で復活することとなった。それは、「近世、近代、現代を貫いて存続する土地の固有性」と呼べるものである[28]。このような意味における「土地の固有性」は、本コラムで言う地域性=地域の主体性と言い換えられよう。こうした意味・文脈ならば、明白に「3つの街」における地域性を承認することができる。

 

 そして、当然のことながら、連綿たる「武」への親和性とは「スーパースター」においても存在するし、作品そのものと言っても過言ではない。なぜならば、青山・渋谷・表参道は(そもそも学校や自宅の所在地だという事情もあるものの)代々木スクールアイドルフェス(スクールアイドルの地域大会)やラブライブ(スクールアイドルの全国大会)などのスクールアイドルの大会(「勝負」)会場として何度となく登場するからである。しかも、その物語はラブライブを極めて重要な存在として取り扱い、主人公たちのスクールアイドル活動を規定する究極目標としている。そうしたラブライブ=勝負至上主義的ともとれる態度は、おおよそ全体に通底するものである。とすれば、「武」によって一貫する地域の主体性は虚構においても反映されていると指摘できる[29]

 

 

ラブライブに優勝したLiella!(「スーパースター」2期12話・©2022 プロジェクトラブライブ!スーパースター!!)

 

 

 もちろん、正確にはもう少し生活や日常性の文脈に即応した分析が必要とはなろうが、青山・渋谷・表参道の地域性(主体性)というものが虚構と現実それぞれに共通し、その地域をある程度条件づけていることは間違いない。それゆえに、地域を媒介とした両者のリンクも存在するものと位置づけられるだろう。

 

3、おわりに 「虚構/現実のなかの地域」研究の成果と課題

・まとめ

 

 以上、相当に雑駁な議論とはなったが、『ラブライブ』のうち「虹ヶ咲」・「スーパースター」を対象として地域の主体性(地域性)をそれぞれ確認するとともに、両者における虚構と現実の関わり合い(リンク)を一定程度指摘することができたと思われる。

 

・今後の課題と展望

 

 とはいえ、「虹ヶ咲」や「スーパースター」の作品そのものに肉薄した分析とは到底言えないし、地域性という割にはもう少し深みを持った分析にした方が良かっただろう。地域の多元性・多義性は厳然として存在し、地域(史)研究には厳密な検討を必要とするものの(たとえば、「サンシャイン」における沼津と内浦の事例が典型的だろう)、ある地域に内在/外在する地域の重層性には目を向けられなかった。板垣雄三氏の「n地域」論を踏まえた割には、追究における問題意識などが散漫に堕落したことも事実である。一連の聖地巡礼(コンテンツツーリズム)や宇野常寛氏の「仮想現実の時代」という指摘も十分活かし切れてはいなかったし、虚構の現実への従属性を所与のものとして取り扱ったために表層的な次元に堕したことも認めざるを得ない。つまるところ、本当に「簡単に」論じただけに終わってしまったと言わなければならない。

 

 今後こうした成果(とも呼べるかかなり怪しい成果)をどのようにゆゆゆ研究に活用するのかは、まさしく筆者次第である。今後余裕のあるタイミングを見計らいつつ、虚構/現実のなかの地域という文脈からいろいろと考察・研究していきたい。ちなみに、今回ももととなる議論に関して、筆者の友人からいろいろとアドバイスをいただいた。この場を借りてお礼申し上げる(もちろん、本コラムの内容に問題があるとすれば、それは筆者の瑕疵にほかならない)。

 

 

瀬戸大橋記念館より瀬戸内海を望む(2023年8月筆者撮影)

 

 

・『黒澤家研究』の紹介

 

 なお、最後にはなるが、「サンシャイン」に登場するキャラクター(スクールアイドル)である黒澤ダイヤ黒澤ルビィ姉妹の「黒澤家」を中心として、「作品とその舞台である沼津・内浦を探究し、思索し、得られた知見を広めていくことを目指す同人誌」である[30]、「てぎ」氏(および「素人ランナー」氏)の『黒澤家研究』のことを紹介させていただきたい。

 

 一言では言い尽くせないほど大変素晴らしいこの同人誌(シリーズ)は、「サンシャイン」という虚構について現実を拠点として地域の文脈から探究・思索し、虚構/現実のなかの地域をその固有性の次元でしっかりと丹念に分析することで、非常にハイクオリティな内容となっている。虚構と現実のバランスの行き届いた叙述や慎重かつ冷静に探究・思索する姿勢には、畏敬の念を抱かざるを得ない。

 

 月並みな感想になり大変恐縮だが、いずれの論稿もとても面白く、その筆致には何度も唸らされ時として感動し、そして深く考えさせられた。ご興味のある方々は是非とも購入のうえ一読をお勧めしたい。

 

 

てぎ『黒澤家研究 第4号』(もやしブックス、2023年)の書影(booth)

 

4、末筆の反省その他

 

 私事で恐縮だが、筆者は『ラブライブ』に僅か3ヶ月のうちにのめり込むこととなり[31]、ゆゆゆとともに『ラブライブ』も個人的に並々ならぬ関心の対象となった。その際に偶然「てぎ」氏のブログ[32]を発見し、一連の記事を興味深く拝読するなかで『黒澤家研究』の存在を知ることとなった。早速購入して流し読みする過程で、まず「素人ランナー」氏の「戦国時代の『黒澤家』」(てぎ編『黒澤家研究 第2号』もやしブックス、2018年)には、その内容の正確性と綿密性に大変驚愕し並々ならぬ内容に衝撃を受けたが、それ以外の論稿もそれぞれがそれぞれにとても素晴らしく、筆者のアプローチとは必ずしも一致しないが、筆者にとってまさしく理想的な探究・思索≒研究のあり方だと感じるようになった。それほどのレベルに到達することは困難だと思うが、参考にさせていただきたいと思っている。

 

 また、「てぎ」氏の「黒澤家の『宝』をめぐる探索」(『黒澤家研究 第3号』もやしブックス、2021年)は何度も読み返しているが、そこで提起される問題系(ジェンダーセクシュアリティ[33]はゆゆゆ研究にとっても筆者自身にとっても非常に重要だと痛感している。

 

 結局のところ、筆者は社会システム上非常に特権的な地位・立場にあるヘテロシス男性(トランスジェンダーではない男性異性愛者)である以上、意識する/意識しないにかかわらず、その特権性に依拠した(広義の)言説・行為(ふるまい)などに差別性や暴力性が胚胎され、現実的に紛れもない暴力として表出される危険性・可能性は絶えず存在する(無論、「男らしさ」/「女らしさ」のパフォーマティヴィティ(行為遂行的な性格)に典型的に見られるように、その「男性」の内部にも「男性」自身を抑圧する機構はあるし、「LGBT」にとどまらない非常に多様なセクシュアルマイノリティの存在も無視してはならないため、真に問題化されるべき存在がそのような差別的・抑圧的な状況を現出させる近代/現代社会の社会システムそのものにあることに留意すべきだろう(※ただし、一連の言明は「男性」の特権性を相対化して矮小化することで「女性」やセクシュアルマイノリティ、子ども、経済的困窮状況にある人々などの社会的弱者を抑圧・排除・従属させる/ようとする差別的・非対称的な社会システムを再生産しようとするものでは決してない))。それは極めてアクチュアルな問題系なのであり、だからこそ、筆者はそうした問題系に当事者として絶えず自覚的および反省的に向き合わなければならないと考えているし、ゆゆゆを「消費」する(「男性」)ファン[34]のひとりとしても、そう思う(なお、筆者は筆者個人の次元で言及しているのであり、そうした言説はすべての人々を対象にそうするべきだと主張したいわけでは決してない)。

 

 ゆゆゆ研究においても、通俗的ともとれる教条主義的理解に基づくマルクス主義的な態度(疎外への反発)や「昭和維新」と通底するような「一種不幸な悲哀感」[35]を付随した問題意識、(「男性性」および「男性」に関する性規範とも親和性のある)「悲憤慷慨」型志士仁人的エートス、「反知性主義的知性主義」(「知識階級への憎悪(反知性主義)を抱きつつ、知や教養、さらには知識人への憧憬(知性主義)が並存する状況」)[36]、あるいは「革新」的政治性[37]、アイロニカルに没入するような「日本」ナショナリズム[38]などの問題もあるとは思うが、それとともにそうした問題系を除外してきたことは認めざるを得ない(「女性」や「少女」に関する言説には、「子供」概念の構築性[39](「中世の社会では、子供期という概念は存在していなかった」[40])とともに(往々にして「純潔」性・「純粋」性などとともに理解される)「無垢」性を想定したり「女性」を固定的に観念したりするジェンダー・バイアスがあったことも振り返れば否定しえない)。ゆゆゆの作中において、相当に典型的なステレオタイプに満ちた表現があったにもかかわらず、近代家族や家父長制などの問題をあまり意識してこなかったことに問題はあっただろう(もちろん、研究主体の問題関心はそれぞれの自由意志において発揮されるものであり、ゆゆゆ研究が必然的にそうあらなければならないとするのは指示対象が如何なるものであっても自由意志の侵害であり有り得てはならない)。実際、菊地夏野氏の議論[41]を参照した犬吠埼風の「女子力」論もそのうちやりたいとは思っていたものの、延々と遅延する有様である(余裕がないのは虚偽ではなく事実だが、不勉強を理由に優先順位を後ろ倒しし続けたことは認めなければならない)。今後機会を見計らいながら勉強を継続し、具体的にそのような観点から論じられればと思う[42]

 

 どちらにしても、一連の問題系は継続的に意識(自覚)し反省的に実践するべきものだろう。今後とも定期的に同論稿や関連文献などを読み返したり(新規に読んだり)しつつ現在および今後の課題として思考し実践していきたい。

 

5、書いてみた感想

 

 (内容的にはまったく関係ありませんけれども)弥勒夕海子さんの誕生日(4月27日)を心よりお祝い申し上げます。

 

6、研究資料および参考文献

研究資料

※テレビアニメ版※

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』1期・2期(2020年・2022年)

ラブライブ!スーパースター!!』1期・2期(2021年・2022年)

 

参考文献

「ストーリー」『ラブライブ!スーパースター!!』(https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/story/(2024年4月27日閲覧))

フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』(杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年、初出1960年)

有山輝雄『甲子園野球と日本人』(吉川弘文館、1997年)

五十嵐太郎『現代建築に関する16章』(講談社講談社現代新書〉、2006年)

板垣雄三「歴史における民族と民主主義」(『歴史の現在と地域学』岩波書店、1992年、初出1973年)

宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎幻冬舎文庫〉、2015年、初出2011年)

岡野八代『ケアの倫理』(岩波書店岩波新書〉、2024 年)

岡本健「あいどるたちのいるところ」(『ユリイカ』48-12、2016年)

岡本健『アニメ聖地巡礼の観光社会学』(法律文化社、2018年)

岡本亮輔『聖地巡礼』(中央公論新社中公新書〉、2015年)

岡本亮輔『江戸東京の聖地を歩く』(筑摩書房ちくま新書〉、2017年)

河嶌太郎「『ラブライブ!』—ゲストもホストもコンテンツを消費し続ける一大パワースポット」(岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕』福村出版、2019年、初出2015年)

川村覚文「声優-キャラライブという例外状態」(『ユリイカ』48-12、2016年)

佐藤卓己『『キング』の時代』(岩波書店岩波現代文庫〉、2020 年、初出 2002 年)

静岡英和学院大学人間社会学部毛利ゼミナール「アニメの舞台となった地域への波及効果と課題」(ふじのくに地域・大学コンソーシアム2017年度ゼミ学生等地域貢献推進事業報告書、2017年)(https://www.fujinokuni-consortium.or.jp/wp-content/uploads/2016/09/6abc620376624c87c24cff59ca02744c.pdf(2024年4月27日閲覧))

鈴木博之『東京の地霊』(筑摩書房ちくま学芸文庫〉、2009年、初出1990年)

武田尚子『近代東京の地政学』(吉川弘文館、2019年)

てぎ「豆州内浦津元関係資料目録β版」(てぎ『黒澤家研究 創刊第1号』もやしブックス、2018年)

てぎ「黒澤家の『宝』をめぐる探索」(『黒澤家研究 第3号』もやしブックス、2021年)

中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005年)

西山暁義「世界史のなかで変動する地域と生活世界」(『岩波講座世界歴史01 世界史とは何か』岩波書店、2021年)

橋川文三昭和維新試論』(朝日新聞社〈朝日選書〉、1993年、初出1984年)

人見佐知子「妓楼遺構の保存と活用をめぐる一考察」(『心の危機と臨床の知』38、2023年)

福間良明『「働く青年」と教養の戦後史』(筑摩書房〈筑摩選書〉、2017年)

福間良明『「勤労青年」と教養文化史』(岩波書店岩波新書〉、2020年)

町口哲生『教養としての10年代アニメ 反逆編』(ポプラ社〈ポプラ新書〉、2018年)

松山周一「「聖地巡礼」を誘発する場所の表象とその特性」(『日本地理学会発表要旨集 2018年度日本地理学会秋季学術大会』、2018年)

松山恵『都市空間の明治維新』(筑摩書房ちくま新書〉、2019年)

丸山眞男「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』筑摩書房ちくま学芸文庫〉、1998年、初出1972年)

村井章介「中世史における『アジア』」(第50回中世史サマーセミナー実行委員会編『日本中世史研究の歩み』岩田書院、2013年)

毛利康秀「コンテンツツーリズムの行為者としての「ファンのあり方」および地域が果たしうる役割に関する心理的・社会的考察」(『コンテンツツーリズム学会論文集』5、2018年)

毛利康秀「『ラブライブ!サンシャイン!!』—コンテンツツーリズムとファンツーリズムの交錯」(岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕』福村出版、2019年、初出2015年)

森山至貴『LGBTを読みとく』(筑摩書房ちくま新書〉、2017年)

山村高淑『観光革命と21世紀』(北海道大学観光学高等研究センター、2009年)

横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波書店岩波新書〉、2018年)

横山百合子「遊女の終焉へ」(高埜利彦編『近世史講義』筑摩書房ちくま新書〉、2020年)

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社河出文庫〉、2008年、初出1987年)

若林幹夫「余白化する都市空間」(吉見俊哉・若林幹夫編『東京スタディーズ』紀伊国屋書店、2005年)

 

7、画像引用元

ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』1期1話・2話(2020 プロジェクトラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会、2020年)

ラブライブ!スーパースター!!』2期8話・12話(2022 プロジェクトラブライブ!スーパースター!!、2022年)

「黒澤家研究 第4号」(booth、2023年)((https://moyasibooks.booth.pm/items/5290252(2024年4月27日閲覧))

 

[1]

 「聖地巡礼」とは、「熱心なファンが、アニメ作品のロケ地またはその作品・作者に関連する土地を見つけ出し、それを聖地として位置付け、実際に訪れる(巡礼する)という行為」を意味する(山村高淑『観光革命と21世紀』(北海道大学観光学高等研究センター、2009年)、9頁)。

[2] 個別具体的な聖地巡礼の事例に関しては、岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕』(福村出版、2019年、初出2015年)を参照されたい。

[3] 岡本亮輔『聖地巡礼』(中央公論新社中公新書〉、2015年)、196頁

[4] 岡本健『アニメ聖地巡礼の観光社会学』(法律文化社、2018年)、223頁

[5] 岡本健「あいどるたちのいるところ」(『ユリイカ』48-12、2016年)、249頁-250頁

[6] 宇野常寛『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎幻冬舎文庫〉、2015年、初出2011年)、392頁-455頁

[7] 板垣雄三「歴史における民族と民主主義」(『歴史の現在と地域学』岩波書店、1992年、初出1973年)、27頁

[8] 地域史研究全般に関しては、児玉幸多・林英夫・芳賀登編『地方史マニュアル1 地方史の思想と視点』(柏書房、1977年)・『岩波講座日本通史 別巻2 地域史研究の成果と課題』(岩波書店、1994年)・濱下武志・辛島昇編『地域の世界史1 地域史とは何か』(山川出版社、1997年)・羽賀祥二『史蹟論』(名古屋大学出版会、1998年)・地方史研究協議会編『地方史・地域史研究の展望』(名著出版、2001年)・吉田伸之「地域把握の方法」(歴史学研究会編『現代歴史学の成果と課題1980-2000年 2 国家像・社会像の変貌』青木書店、2003年)・白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』(思文閣出版、2004年)・松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』(講談社、2013年)・『岩波講座日本歴史20 地域論(テーマ巻1)』(岩波書店、2014年)・小二田章・高井康典行・吉野正史編『書物のなかの近世国家』(勉誠出版、2021年)・小二田編『地方史誌から世界史へ』(勉誠出版、2023年)などを参照されたい。

[9] 西山暁義「世界史のなかで変動する地域と生活世界」(『岩波講座世界歴史01 世界史とは何か』岩波書店、2021年)、116頁

[10] 千代田区千代田区史』上・中・下(千代田区、1960年)・東京都千代田区『新編千代田区史 通史編』(東京都千代田区、1998年)、沼津市史編さん委員会『沼津市史 通史編』原始・古代・中世/近世/近代/現代(沼津市、2005年-2009年)、東京都江東区江東区史』(江東区、1957年)・東京都江東区編『江東の昭和史』(東京都江東区、1991年)・江東区政策経営部広報広聴課編『江東区のあゆみ』(江東区政策経営部広報広聴課、2016年)・東京都品川区『品川区史 通史編』上・下(東京都品川区、1973年-1974年)・港区総務部総務課編『図説 港区の歴史』(港区、2020年)・港区総務部総務課編『港区史』原始・古代・中世/近世(上・下)/近代(上・下)/現代(上・中・下)(港区、2021年-2023年)、『新修渋谷区史』上・中・下(東京都渋谷区、1966年)・『図説渋谷区史』(渋谷区、2003年)、金沢市史編さん委員会編『金沢市史 通史編』原始・古代・中世/近世/近代(金沢市、2004年-2006年)などを参照されたい。また、「虹ヶ咲」・「スーパースター」に関しては、池享・櫻井良樹陣内秀信・西木浩一・吉田伸之編『みる・よむ・あるく 東京の歴史』通史編1-3・地帯編2・4も有益となるだろう。

 なお、「お台場」そのものに関しては、品川区立品川歴史館編『黒船来航と品川台場』(品川区立品川歴史館、1987年)・佐藤正夫品川台場史考』(理工学社、1997年)・東京都港区教育委員会編『台場』(東京都港区教育委員会、2000年)・淺川道夫『お台場』(錦正社、2009年)などを参照されたい。

[11] 河嶌太郎「『ラブライブ!』—ゲストもホストもコンテンツを消費し続ける一大パワースポット」(岡本編、2019年)・町口哲生『教養としての10年代アニメ 反逆編』(ポプラ社〈ポプラ新書〉、2018年)、154頁・岡本亮輔『江戸東京の聖地を歩く』(筑摩書房ちくま新書〉、2017年)、26頁-28頁・松山恵「近代東京における広場の行方」(吉田伸之・長島弘明・伊藤毅編『江戸の広場』東京大学出版会、2005年)・松山『都市空間の明治維新』(筑摩書房ちくま新書〉、2019年)、251頁-265頁・森川嘉一郎『増補版 趣都の誕生』(幻冬舎幻冬舎文庫〉、2008年、初出2003年)など。

[12] 静岡英和学院大学人間社会学部毛利ゼミナール「アニメの舞台となった地域への波及効果と課題」(ふじのくに地域・大学コンソーシアム2017年度ゼミ学生等地域貢献推進事業報告書、2017年)(https://www.fujinokuni-consortium.or.jp/wp-content/uploads/2016/09/6abc620376624c87c24cff59ca02744c.pdf(2024年4月27日閲覧))・毛利康秀「『ラブライブ!サンシャイン!!』—コンテンツツーリズムとファンツーリズムの交錯」(岡本健編、2019年)、170頁-173頁および中村只吾「一八世紀の漁村における内部秩序」(『人民の歴史学』173、2007年)・中村「一七世紀における漁村の内部秩序」(『歴史評論』703、2008年)・中村「一七世紀の漁業地域における秩序と領主の関係性」(『地方史研究』58-3、2008年)・中村「近世後期の漁村における秩序認識」(『東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要』10、2011年)・中村「日本近世漁村における「生業知」の問題について」(『歴史の理論と教育』135-136、2011年)・中村「明治初頭~一〇年代における漁村の秩序と変容」1-2(『東北芸術工科大学東北文化研究センター研究紀要』11-12、2012年-2013年)・渡辺尚志編『移行期の東海地域史』(勉誠出版、2016年)・中村・渡辺編『生きるための地域史』(勉誠出版、2020年)・渡辺『海に生きた百姓たち』(草思社草思社文庫〉、2022年、初出2019年)・樋口雄彦『旧幕臣明治維新』(吉川弘文館、2005年)・樋口『沼津藩』(現代書館、2016年)など。

[13]

 なお、詳細にはてぎ「豆州内浦津元関係資料目録β版」(てぎ『黒澤家研究 創刊第1号』もやしブックス、2018年)を参照されたい(筆者も注12の文献調査の参考とさせていただいた)。

[14] 本康宏史『軍都の慰霊空間』(吉川弘文館、2002年)・橋本哲哉編『近代日本の地方都市』(日本経済評論社、2006年)・東四柳史明・橋本哲哉・河村好光・高澤裕一・本康宏史編『石川県の歴史 第2版』(山川出版社、2013年)・佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会2 近世から近代へ』(吉川弘文館、2014年)・河西英通編『地域のなかの軍隊3 中部』(吉川弘文館、2014年)・人見佐知子『近代公娼制度の社会史的研究』(日本経済評論社、2015年)・長山直治氏追悼集刊行委員会編『加賀藩研究を切り拓く』(桂書房、2016年)・木越隆三編『加賀藩研究を切り拓くⅡ』(桂書房、2022年)、宮下和幸『前田家』(吉川弘文館、2023年)など。

[15] 松山周一「「聖地巡礼」を誘発する場所の表象とその特性」(『日本地理学会発表要旨集 2018年度日本地理学会秋季学術大会』、2018年)

[16] 川村覚文「声優-キャラライブという例外状態」(『ユリイカ』48-12、2016年)、126頁-131頁を参照されたい。

[17] 町口、2018年 154頁

[18] 毛利、2019年 173頁

[19]

 ここで言う地域(性)の「主体」性(主体性)には、「東京」=中央の先進的・通俗的な都会イメージや非大都市圏=「地方」の後進的・古典的な田舎イメージのみによって成立する地域像を「客体」として退け、「現実」とも通底する地域の歴史的・伝統的な背景(古層)との連続性・断絶性に注目する意味を付加している。

[20]

 なお、『ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』に関しては寡聞にして知らないが、おそらくは「軍事とジェンダーセクシュアリティ」などが地域(性)を考察する際の論点となりうるように思われる。

 そうした議論の参考になるだろうものとしては、注14で紹介した本康宏史氏や人見佐知子氏らの議論のほか、横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波書店岩波新書〉、2018年)・横山「遊女の終焉へ」(高埜利彦編『近世史講義』筑摩書房ちくま新書〉、2020年)をはじめとする横山百合子氏の議論や、同じく人見氏の議論(人見「娼妓の住み替えをめぐる一考察」(『民俗文化』33、2021年)・人見「妓楼遺構の保存と活用をめぐる一考察」(『心の危機と臨床の知』38、2023年))のほか、曽根ひろみ『娼婦と近世社会』(吉川弘文館、2003年)、佐賀朝・吉田伸之編『シリーズ遊廓社会1 三都と地方都市』(吉川弘文館、2013年)、明治維新史学会編『講座明治維新9 明治維新と女性』(有志舎、2015年)、髙木まどか『近世の遊廓と客』(吉川弘文館、2020年)などがある(とりわけ、JSPS科学研究費19H01311(基盤研究(B)「一次史料に基づく近世〜近代日本の「遊廓社会」に関する総合的研究」(研究代表者 佐賀朝)の研究成果(「近世~近代日本における遊女・娼妓と遊廓社会の総合的研究」(KAKEN、2015年~2018年)(https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-15H03241/(2024年4月27日閲覧)))は大変重要だろう)。

[21] 鈴木博之『東京の地霊』(筑摩書房ちくま学芸文庫〉、2009年、初出1990年)、9頁-12頁・五十嵐太郎『現代建築に関する16章』(講談社講談社現代新書〉、2006年)、192頁-193頁

[22] 中沢新一『アースダイバー』(講談社、2005年)

[23]

 無論、お台場には、戦前期の有明北地区開発や1950年代~1980年代に存在した東雲ゴルフ場・東雲飛行場、1960年代~1980年代に存在した第三台場貯木場、1978年に開館した船の科学館東京港埋立第13号地を舞台とした映画・ドラマのロケなどもあったし、埋立地ゆえに埋立・造成を担当した労働者たちや埋立地を疾走した「暴走族」たち、お台場臨海公園に群集したウィンドサーファーたちが存在した以上、完全に歴史や伝統の不在ということは有り得ない(若林幹夫「余白化する都市空間」(吉見俊哉・若林幹夫編『東京スタディーズ』紀伊国屋書店、2005年)、12頁-15頁参照)。

[24] 若林、2005年 6頁-25頁

[25] 若林、2005年 14頁-16頁・24頁

[26] 「ストーリー」『ラブライブ!スーパースター!!』(https://www.lovelive-anime.jp/yuigaoka/story/(2024年4月27日閲覧))

[27] 吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』(河出書房新社河出文庫〉、2008年、初出1987年)、295頁-300頁

[28] 武田尚子『近代東京の地政学』(吉川弘文館、2019年)、4頁-11頁・170頁-171頁

[29]

 なお、こうした態度には一面においてナショナリズムと関係するものがあると言えるだろう。

 

 というのは、ラブライブが日本国家を主語とする「全国大会」(ラブライブ)という衆人環視下のナショナルイベント―「スクールアイドルにとってラブライブは国民的行事」(「スーパースター」1期5話の唐可可)―にほかならないからである。ラブライブ出場・優勝を目指して「日本人」(≒国民国家「日本」に所属する「日本国民」)や非「日本人」を問わないファンと人気を獲得しようと努力する多数のスクールアイドルたちは、(日本国家の管轄下に編成・管理・把握された)全国各地の高校生(=「女性」の高校生)として全国大会のもとに選抜される運命にある。ラブライブに内在するのは、近代国民国家としての日本国家の論理である。

 

 このような状況で、スクールアイドルやラブライブのイマジネーションは実際上、どれほど国民国家レベルの領域を超越することが可能なのだろうか。甚だ疑問だと言わざるを得ない。結局のところ、かれらは知らず知らずのうちにネイションの物語に回収され、ライブとメディアの相乗効果による大衆動員に主体的に参加したまま無自覚的にナショナリズムを推進することになりかねない。

 

 近代日本の「甲子園野球」がそうだったように(具体的には、有山輝雄『甲子園野球と日本人』(吉川弘文館、1997年)を参照されたい)、メディアを媒介とすることで「広大な空間に散在する人々を同時にラブライブの大会に結びつける」ことが可能となり、「ナショナリズムの形成」に寄与するとしても、筆者は何ら不思議ではないと思う。

 

 

「結果的に、甲子園野球は、天皇即位式中継によって国民の一体感を醸成するために整備された全国中継網にのることによって、広大な空間に散在する人々を同時に甲子園の大会に結びつけることになった。(中略)全国各地の代表チームが出場する甲子園大会ほど全国中継網による実況中継に注目が集まった番組はなかったろう。それは、天皇即位式が作る一体感と共鳴しあうナショナリズムの形成といえる。」

 

有山輝雄『甲子園野球と日本人』(吉川弘文館、1997年)、134頁-135頁

 

 

[30] てぎ『黒澤家研究 創刊第1号』(もやしブックス、2018年)表紙裏

[31]

 もちろん、それは『ラブライブ』のメディアミックス戦略=「より多くのファンをより長く『はまった状態』にして利益を最大化しようとするビジネスモデル」の術中において存在することだろう。そうした「作品に『はまった状態』になる依存性の問題」は無視できないものである(毛利「コンテンツツーリズムの行為者としての「ファンのあり方」および地域が果たしうる役割に関する心理的・社会的考察」(『コンテンツツーリズム学会論文集』5、2018年)、44頁)。

[32] tegi「こづかい三万円の日々」(はてなブログ)(https://tegi.hatenablog.com/(2024年4月27日閲覧))

 

 

tegi.hatenablog.com

 

 

[33]

 具体的には、千田有紀・中西祐子・青山薫『ジェンダー論をつかむ』(有斐閣、2013 年)・森山至貴『LGBTを読みとく』(筑摩書房ちくま新書〉、2017年)などを参照されたい。

[34]

香月孝史・上岡磨奈・中村香住編『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』(青弓社、2022 年)などを参照されたい。

[35] 橋川文三昭和維新試論』(朝日新聞社〈朝日選書〉、1993年、初出1984年)、16頁

 また、筒井清忠氏・中島岳志氏・杉田俊介氏らの議論も参照されたい。

[36] 福間良明『「働く青年」と教養の戦後史』(筑摩書房〈筑摩選書〉、2017年)、63頁・福間『「勤労青年」と教養文化史』(岩波書店岩波新書〉、2020年)、214頁-215頁

[37] 伊藤隆『大正期「革新」派の成立』(塙書房、1978年)・小熊英二『民主と愛国』(新曜社、2002年)・竹内洋『革新幻想の戦後史』上・下(中央公論新社、2015年、初出2011年)などを参照されたい。

[38] 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHK出版、2005年)・大澤真幸『不可能性の時代』(岩波書店岩波新書〉、2008年)などを参照されたい。

[39] フィリップ・アリエス『〈子供〉の誕生』(杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年、初出1960年)などを参照されたい。

[40] アリエス、1980年 122頁

[41] 菊地夏野『日本のポストフェミニズム』(大月書店、2019年)

[42] 

 ただし、一連のゆゆゆ研究において正義面をして論究しているようにも思われる(トランスジェンダーではない男性異性愛者としての)筆者の論調には問題はあるだろう。

 というのは、そのような「正義」からする「男性の手による」議論が前提とする人間観・社会観・世界観なるものが、実際には「男性」のみを対象とし「男性」の価値観を投影した理想によって構築されたものだからである、たとえば、「各人の権利を尊重し、他者や環境に左右されない判断能力を備え、普遍的原理を自らの力で発見し、その原理に自ら従う自律的で独立した個人」という「理想の人間観」は「男性の道徳観に投影されている理想の人間観」に過ぎない(岡野八代『ケアの倫理』(岩波書店岩波新書〉、2024 年)、234 頁-237 頁)。

 

 もちろん、こうした議論と親和性が高いユルゲン・ハーバーマス氏の公共性(公共圏)論(『公共性の構造転換』)の前提とする「市民(ブルジョア)的公共性」が「その媒体である書籍・雑誌を購読できるだけの教養と財産を持った、選挙権のある成人男子」のみに制限され、「女性、労働者、未成年という『大衆(マス)』はあらかじめ排除されていた」ように(佐藤卓己『『キング』の時代』(岩波書店岩波現代文庫〉、2020 年、初出 2002 年)、425 頁-426 頁)、「教養と財産」という観点も見逃せないことには留意すべきである。