寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

ゆゆゆ「神世紀」起源考 ―なぜポスト西暦の暦法は「神世紀」になったのか?―

 

・「神世紀」という暦法

 

 「勇者である」シリーズ(以下、「ゆゆゆ」と呼称)の作品世界では、「神世紀」という特殊な暦法が採用されている。四国地方以外の地球上にあるありとあらゆる事物が消滅した世界において、辛うじて生き残った人類は、「神樹様」という神様の加護と「大赦」という宗教組織の統制を受け容れながら、300年以上の歳月を過ごした。そのときにかれらがその歳月を表現するために使用するのは、2024年3月10日時点のわたしたちが使用するような「西暦」ではない。「神世紀」なのである。

 

 

「神世紀三〇〇年」のテロップ(3期1話・©2021 Project 2H)



暦法変更の経緯

 

 では、なぜ「神世紀」なのか。それを知るためには、筆者が一連の「ゆゆゆ研究コラム」のなかで「神世紀移行期」と呼んでいる西暦最末期~神世紀最初期の時期に立ち返ることが求められる。

 

 (作品世界上の)2015年7月30日、「天の神」が派遣した「バーテックス」という存在が襲来し、人類の大多数が殺害される事態に陥る。この事態に対応するべく、反天の神・親人類の立場を明確にした神々とその祭祀などを一括管理・統制する大社(のちの大赦)のもとで、唯一生き残った四国を拠点とした抵抗が試みられる。その際の切り札が「勇者」(「西暦勇者」)だった。彼女たちは、大半が戦死するまでに至りながら、バーテックスの四国襲来を防ぎきったのである。

 

 しかし、2010年代末、乃木若葉ら勇者たちの奮闘もむなしく、人類は、ついに日本列島の一部すら奪還することがないままに講和という名の敗北に直面することとなった。人類を根絶することを目的とした天の神は、目的が「ほぼ成就している」状況に鑑み、「今後、この地から出ないことを条件に、侵攻を赦してもらいたい」と「天に話し、願」うかれらの言い分を聞き入れた。「この地(四国地方:引用者注)から出ずに、勇者の力を放棄すれば、もう攻められることはな」くなったのである。もちろん、それはこれまで積みあがってきた膨大な犠牲と、最後に実施された「奉火祭」という神事(6人の巫女を生贄として四国地方を囲繞する結界外部の炎の海の中へ身投げさせることで、天の神による人類の赦免を請願するもの)の結果だった[1]

 

 だが、それは紛れもなく終戦=敗戦であり、天の神との戦争は終結したことは間違いなかった。だからこそ、「天の神との戦いが終わった今、大社と社会をどのようにしていくか」が問われなければならなかった。大社は、「『天の神から赦された者』という意味を込め、『大社』は『大赦』と改名」し、「暦の表記は西暦から神世紀へと変更する」ことを会議で決定し、最終的には戦後四国社会全体が「神世紀」へと暦法を変更した。「神世紀」はこのように誕生したのである[2]

 

 なお、「私は乃木若葉。西暦二〇一九年、いや、神世紀元年において、勇者の御役目を担っている者。」という乃木若葉の言葉[3]や、「西暦二〇一九年以降……年号が『神世紀』と改められた後さ!」という芙蓉・リリエンソール・友奈の発言[4]があることから、西暦2019年に神世紀元年へと改元されたとみられる。

 

暦法変更の要因

 

 こうした暦法変更は、人類の敗北と天の神との講和という客観的条件を象徴的に表現するものである。全面的敗北に近い状態での講和である以上、天の神の圧倒的優勢は覆ることがない。講和条件は忠実かつ徹底的に履行される必要がある。天の神の胸三寸で全人類の生死が決定されるのだから、赦免されたという事実は致命的に重要である。人類が天の神に歯向かうことなく最大限配慮し、赦してもらったことへの感謝の気持ちを表現しようとするのはあまりにも当然だろう。それゆえに、四国社会のトップの位置にあり(反天の神の立場にある)神樹を管掌するはずの組織が「天の神から赦された者」という意味で「大赦」に改名したという事実は、何ら驚くべきことではない。むしろ生存人類の最高権力体の名称が天の神に従順であることを示すものに変わらなければ、かれらの姿勢が本物だということを表したことにはならないのだから、そうしなければおかしいのである。この時点の人類にとってもっとも重要なものは、圧倒的優勢にある天の神から生存を保障されること以外に存在しない。

 

 だから、暦法変更もまたそうした客観的状況を反映するものである。

 

 そもそも「西暦」とは、「現在、世界の公用紀元として用いられている」としても、「イエス・キリストが誕生したとされる年を一年目として年を数え」るキリスト教的・西洋的暦法である[5]。明白に日本神話的な容貌を見せる天の神は、キリスト教的・西洋的存在では到底ないのだから、「異教」では流石に都合が悪い。天の神への従順性を示すためには不都合にも程があるだろう。だからこそ、「西暦」は「神」の「世紀」となったのだろう。

 

 とはいえ、それだけが理由ではないだろう。暦法や年号のように、あまりにも当然のように存在し社会生活上必要不可欠の位置を占有していながら、実際には政策的に決定可能な存在への命名・改名行為は、高度に政治的で象徴的な営為となる。それらは支配的宗教や近代的科学などに客観的根拠を求めざるを得ないにせよ、最終的には国家権力・政治権力という最高度の権力体によって規定され、その意志・意図を反映するものである。それほどの権力体が「大赦」と名称変更するとき、権力の意思・意図は天の神への従順性を明示すべきであるという態度に貫かれていることになる。こういう状況がまっさきに暦法変更の基本条件を規定するものなのであり、キリスト教的・西洋的西暦という事情は実際には二次的だろう。暦法が西暦ではなかったとしても、暦法は変更されただろうし、わたしたちにとって馴染み深い「元号」などはその代表例である。

 

 こうした説明は作中でも表現されている。たとえば、先に述べた変更に際した大社の会議において、「それでは、我々は『大赦』と名を改め、暦を表すのに『神世紀』を使うよう正式に提案します」という提案者の発言がある。ここで組織の名称変更と暦法変更がセットのものだと考えられていることは明白である。そして、前者が「『天の神から赦された者』という意味」を込めたものなのだから、後者にもそういった意味が含まれているだろうことは容易に想像がつく。とすれば、「神世紀」の「神」とは、十中八九神樹を指すものではなく、天の神のことを表しているはずである。神世紀という名称は、天の神に敗北した人類が従順な姿勢を示すためのものだったわけである。

 

 まとめれば、両者の名称変更とは、人類が抵抗の末に敗北して多大な犠牲と引き換えに屈辱的講和を余儀なくされた事実の率直な反映であり、天の神への従順な姿勢を象徴的に明示するためのものだったことが指摘できるだろう。ゆゆゆの暦法が「神世紀」なのは、このような事情によるのである。

 

 

「神世紀298年」のテロップ(3期2話・©2021 Project 2H)

 

 

・「世紀」の起源

 

 とはいえ、気になるところはある。「神世紀」の「世紀」の箇所である。

 

 『野馬台詩』などの中世日本列島における予言書(「未来記」)の系譜を明らかにした小峯和明氏は、明治期以降の近代の「未来記」を説明する際に、「明治期の未来記に特徴的なのは、二十世紀を意識したユートピア幻想の一環としてひろまったらしいことである」とした後で、「百年を単位とする発想はすでに近世の『旧事本紀大成経』にもみられたが、明治の西洋文化導入にともない、世紀割りの新しい時代区分が定着する。未来記もそこにかかわる」と述べている[6]。すなわち、「世紀」とは基本的に近代的時代区分概念なのである。

 

 また、そもそも「世紀」とは、単純に「年代。時代。」を指す場合もあるが、基本的には「およそキリスト誕生の年から一〇〇年を一期として、以後一〇〇年ずつ区切って数える時代区画の称」である[7]。端的に言えば、「西暦で、100年を単位とする年代の数え方」である[8]。つまりは、西暦と切っても切れない関係にある言葉なのである。

 

 なぜ、近代的要素やキリスト教的・西洋的要素が強い「世紀」概念をわざわざ新規に採用する暦法の名称に選択したのだろうか。もちろん、天の神への従順な姿勢を象徴的に明示するための「神世紀」なのだから、二次的事情に過ぎないキリスト教的・西洋的要素などは問題ではないかもしれない。また、世紀概念が人口に膾炙した現代社会だからこそ、比較的抵抗なく受け容れられる名称として採用したものであり、その辺りは顧慮していなかったのかもしれない。

 

 しかし、それらの性格を無意味なものとして退けても、問題はまだ残る。それは世紀概念が百年単位だということである。正直に言えば、神世紀1世紀・神世紀2世紀・神世紀3世紀と数えるのは滑稽である。当初は天の神への反撃の機会が1世紀と経たずに訪れると思ったのかもしれないが、それは有り得ない。

 

 乃木若葉は「未来の勇者に託す言葉を、ひとまず録音する」際に、「何十年、もしかしたら何百年も先の貴方に、未来の希望を託した者だ」・「この声を聞いている貴方の時代に至るまで、バーテックスとどれほどの戦いが起こるのか、何人の勇者が生まれるのか、私にはわからない」と述べている[9]。また、彼女は、少女たちを勇者へと変身させ、神樹の力を借りて高い戦闘能力を発揮させる勇者システムの開発を「急いでも仕方がない」とし、「どんなに遅い歩みでも、戦う力と牙を必ず未来に残す——それが若葉とひなた(乃木若葉の幼馴染・巫女、若葉とともに大赦の最高権力者である:引用者注)の誓いだ」と言っているのである[10]

 

 

「これから私(上里ひなた:引用者注)たちは、多くのものを奪われた世界で、自由を制限された檻の中で、生きていく道を模索しなければならない。

ただし、天の神への反撃と、この国の奪還を諦めたわけではない。天の神の目から隠れ、密かに牙を研ぎ、反撃の時を待とう。」

 

朱白あおい著『結城友奈は勇者である 勇者史外典』上(タカヒロ企画原案・監修、BUNBUNイラスト、Project2H原作、KADOKAWA、2021年)、152頁

 

 

 とすれば、上記に引用した上里ひなたの発言にある、「天の神の目から隠れ、密かに牙を研ぎ、反撃の時を待」つための期間とは、「何十年、もしかしたら何百年」となることが当初から想定されているわけである。つまり、神世紀元年時点で、既に長期戦となることは織り込み済みだったということになる。それが当然1世紀以上に及ぶことも考慮されていただろう。

 

 無論、その直前の暦法変更それ自体は、必ずしも彼女たちの意志が介在しているわけではない。大社の神官たちが中心となって進められたのであり、彼女たちが積極的に関与してはいない[11]。だが、彼女たちがもはや四国社会の最高権力者となったとき、その時点ならば実際の変更直前~直後のタイミングになるはずなのだから、暦法の再変更も可能だろう。惰性的に継続させられるほどの長い伝統を神世紀は持っていない。変えようと思えば変えられたはずである。

 

 しかし、それはなされなかった。ポスト西暦の暦法は神世紀として継続したのである。既に「神世紀1世紀」が過ぎたとしても、そうだった。300年以上にわたりその暦法は続いていったわけである。「神世紀○世紀」という呼称が可能になってしまう神世紀は、どうして採用され、なぜそのまま維持されたのだろうか。よくわからないままである。

 

 「神」=天の神の「世紀」としての「神世紀」という呼称を採用するならば、「神代」・「神暦」・「神世」などとしてもよかったと思われるが、端から候補に挙がってはいない。提案者の神官が「正式に提案します」と言ったことからみて、検討の段階があったようだが、一定の見識を備えているはずのかれらの議論なかから、神世紀以外のものが導出されることはなかった。結局「世紀」の起源は不明である。

 

 ただ、いま適当に考えてみれば、「新世紀(しんせいき)」と「神世紀(しんせいき)」を掛けた洒落なのかもしれない。「世紀末」と「新世紀」のコントラストがなければ、あまり浮かび上がる候補ではないだろうが、「世紀末」的状況の現実化と見れば、そうは言えるようにも思う(あるいはもっと単純に『新世紀エヴァンゲリオン』にちなんだものなのかもしれないが)。

 

・補論 「西暦」の誕生 —近代日本におけるキリスト紀年の脱宗教化とその普及—(20240403追加)

 本コラムを投稿した数日後、偶然にも筆者が「西暦」(キリスト紀年)に関する佐藤正幸氏の議論(佐藤正幸「「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(11)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ 脱宗教化による文化移入こそ明治日本の英知」(https://news.yahoo.co.jp/articles/c7ef923b5c9b32d859eb8d11f72d52344adcd58e(2024年4月3日閲覧))・同「人は歴史的時間をいかに構築してきたか」(小川幸司責任編集『岩波講座世界歴史1 世界史とは何か』岩波書店、2021年)、85頁-112頁)に接したことで、以上の議論には再検討の余地が発生することとなった。

 

 というのは、(佐藤氏によれば)キリスト教という宗教性を帯びたキリスト教紀年(「西暦」)が近代日本に導入される際に、まさにその「宗教性」(キリスト教的性格)が除去された=脱宗教化されたからである。つまり、「西暦」(および「世紀」)の「キリスト教的性格」を云々する以前に、その主張の前提となる「西暦」の宗教性が無効化されており、議論が成立しないのである。議論の本筋とは言えないものの、それらは一旦留保すべきだろう。

 

 以下、実際に近代日本における「西暦」の誕生・定着経緯を(佐藤氏の議論に依拠しながら)確認することとしたい。また、キリスト紀年の起源とその普及過程についても最初にある程度言及することとしたい。

 

 そもそも19世紀以前の地球では、各「文化圏」(「エクメネ(人類居住圏)」)ごとにまったく相違した「年月日を数える独自の紀年法暦法」を使用していた。しかもそれは複数の紀年法を併用・併記するものだったから、キリスト紀年=キリスト教紀年法も世界創造紀年・ローマ建国紀年・インディクティオ紀年・オリンピアード紀年などとともに存在した。

 

 イエス・キリストの生年を起算年(元年)とするこの紀年法は、キリスト教修道僧・ディオニシウス・エクシグウスが紀元6世紀に創案したものだったが、従来の「殉教者の紀年」(ローマ皇帝ディオクレティアヌスの即位年を元年とする紀年法)のオルタナティブとして提起されに過ぎず、位置づけとしては数ある紀年法のうちのそのまたひとつだった(しかも直近500年しか数えられない不便さゆえにキリスト教会内部で使用されただけだった)。むしろキリスト教紀年とは「あまり役に立たない紀年法」ともいえ、実際、教会内部における普及は10世紀以降、一般の人々への普及は14世紀を待たなければならない(世界創造紀年・ローマ建国紀年・インディクティオ紀年・オリンピアード紀年に関しては18世紀までヨーロッパ世界で使われ続けている)。

 

 なお「紀元前」(キリスト生誕以前への遡及的紀年表記)概念は、8世紀のベーダ・ヴェネラビリスを先駆として、16世紀半ばにヨハンナ・フンクが作成した『歴史年表』(1552年)あたりでようやく本格的に使用されるようになる。

 

 そして、17世紀の科学革命はキリスト教紀年に多くの変革を迫る。地質学の発展は世界の創造以前にも地球が存在したことを証明した。このことは(世界創造年とキリスト生誕年の間をキリスト生誕年から遡及して年数を数える)紀元前の考え方をさらに世界創造以前へと延長させて適用する動向を生むこととなった。こうした起算年以前に遡及する発想はキリスト教紀年以外に存在せず、「キリストは神の子・神の一部・神と同じ」というイエス・キリストの位置づけが偶然にも意表を突くような考え方を発生させ、それを突き破り過去に無限に延びる議論を招来したのだという(その後フランスのスカリゲルが提案したユリウス通日が登場し普及するが、18世紀後半以降にキリスト教紀年に一本化される=単独基軸紀年化する)。

 

 このようなヨーロッパ世界のそのまたひとつの紀年法に過ぎないキリスト教紀年が世界を席巻した理由は、①キリスト生年に関する疑義による宗教性の希薄化(および過去へ無限に延長される紀元前概念の自己否定的性格)、②年初の1月1日(移動祝祭日・宗教的行事とは関係ない日)への固定化、③アラビア数字(画期的・効率的数表記方法)の採用、④宗教性を除去した表記法の考案などがあるが、特に「キリスト紀年が過去と未来の双方向に向かって無限に延びる時間軸を設定できた世界で唯一の紀年法」だったことが大きい。20世紀(特に第二次世界大戦以降)になると、世界の各地域・各国家・各民族が独自の紀年法を持ち続けながらキリスト紀年を「世界共通紀年」・「世界基軸紀年」として採用した。それは「一つの時間軸に世界各地で生起してきた歴史上の出来事を共時化して再整理することで」「世界史」を初めて成立させることともなった(それ以前にあったのは地域限定的な「世界史」である)。

 

 近代日本においてキリスト紀年が受容されたのには、既に触れた「脱宗教化」が関与している。明治初期に津田真道・塚本明毅らはキリスト紀年やグレゴリオ暦の紹介の際に「切支丹」という表現を回避し「キリスト教的色彩」(宗教性)をその日本語表記から取り除いた。その後、キリスト紀年は「基督紀元」・「耶蘇前」・「西洋紀元」・「紀元」などの多様な表記が淘汰され、1877年以降「西洋紀元」・「紀元」などの表現に限定されるようになる。1883年頃には、適切な和訳対象としてはグレゴリオ暦=「太陽暦」(※これも宗教的色彩を除去して導入されている)があるにもかかわらず、(「西紀」とともに)「西暦」が使用され始め、第二次世界大戦後(1950年代以降)には「西暦」がキリスト紀年の意味で専ら使用されるようになった(「和暦」は1990年頃以降に西暦に対応して元号紀年を意味する用語として造語された)。そして、「西暦」は「月日の表記」=「本来の暦の意味」にも拡大使用可能だったことから非常に重宝され、現在のように完全に定着するに至ったのである。

 

 以上のような誕生・定着過程を見ると紆余曲折の感もあるが、「西暦」という宗教性=キリスト教的性格を除去した名称がなければ、容易に導入されづらかったのは間違いない。「西暦」の意味するキリスト紀年(およびグレゴリオ暦)は「キリスト教的性格」(宗教性)が強いものだが、しかしそれは脱宗教化されることによって受容されたものなのだから、それ自体としては中立的概念と見なせよう。とすれば、西暦から神世紀への移行とは宗教性をむしろ露骨に打ち出し、西暦と並存する「和暦」すら停止して「神」の論理のもとにあらゆる歴史的時間を無理矢理に一元化しようとするものだと言える。もはや「神世紀」概念の起源をさらに考えるためには、上述した経緯も踏まえなければならないだろう。

 

・研究資料および参考文献

研究資料

 

※小説版※

朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』上(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2016年)

朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』下(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2017年)

朱白あおい著『結城友奈は勇者である 勇者史外典』上・下(タカヒロ企画原案・監修、BUNBUNイラスト、Project2H原作、KADOKAWA、2021年)

 

参考文献

 

小峯和明『中世日本の予言書』(岩波書店、2007年)

佐藤正幸「「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(11)~キリスト紀年を表す造語『西暦』~ 脱宗教化による文化移入こそ明治日本の英知」(https://news.yahoo.co.jp/articles/c7ef923b5c9b32d859eb8d11f72d52344adcd58e(2024年4月3日閲覧))

佐藤正幸「人は歴史的時間をいかに構築してきたか」(小川幸司責任編集『岩波講座世界歴史1 世界史とは何か』岩波書店、2021年)

「世紀」『日本国語大辞典

「西洋暦」『日本国語大辞典

「世紀」『デジタル大辞泉

 

・画像引用元

結城友奈は勇者である -大満開の章-』1話・2話(2021 Project2H、2021年)

 

[1] 朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』下(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2017年)、198頁-200頁

[2] 朱白あおい著『結城友奈は勇者である 勇者史外典』上(タカヒロ企画原案・監修、BUNBUNイラスト、Project2H原作、KADOKAWA、2021年)、153頁

[3] 朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』下(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2017年)、220頁

[4] 朱白あおい著『結城友奈は勇者である 勇者史外典』上(タカヒロ企画原案・監修、BUNBUNイラスト、Project2H原作、KADOKAWA、2021年)、204頁

[5] 「西洋暦」『日本国語大辞典

[6] 小峯和明『中世日本の予言書』(岩波書店、2007年)、206頁

[7] 「世紀」『日本国語大辞典

[8] 「世紀」『デジタル大辞泉

[9] 朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』下(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2017年)、218頁-221頁

[10] 朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』下(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2017年)、221頁

[11] 朱白あおい著『結城友奈は勇者である 勇者史外典』上(タカヒロ企画原案・監修、BUNBUNイラスト、Project2H原作、KADOKAWA、2021年)、152頁-153頁参照