寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

御記論の批判と反省

0、「御記論の批判と反省」を始めるに当たって

 

terasue-sohcho.hatenablog.com

 

先日、本ブログにあげた「ゆゆゆ研究コラム」の記事「『御記』という問題 ―ゆゆゆにおける勇者御記の意味―」以下、御記論と呼称)は、「7、末筆の反省その他」や「9、追記(2023年8月26日追記)」において述べたように、さまざまな問題を抱えたものとなってしまっている。

 

だが残念なことに、それらの問題すべてを解決することはもはや筆者の手に負えることではない。ただ、筆者がその内容に責任を負うべきであることは明らかであり、本稿「御記論の批判と反省」を記して、その責任に対する一定の貢献を為したいと思う。

 

今後適宜追加することもあるだろうが、まず現状は、以下の2点(横井清氏の議論と「世界」システム概念の妥当性)に関する補足を付け加えておきたい。御記論の問題点は数多くあり、そのすべてに答えることができるわけではない。しかし、できる限りそれらに対する応答に努めたいと思っており、もしさらにご質問・ご感想・ご批判などがあれば、御記論同様に簡単な内容でも構わないので、お寄せいただけると幸いである。

 

1、横井清氏の「御記」批判について ―横井清「『看聞日記』と『看聞御記』の間」読書ノート―

 

・御記論における横井清氏の「御記」批判

 

筆者の御記論において、横井清氏の議論は御記呼称のもつ問題点の指摘に際して引用されたものだった(「1、「御記」という言葉 ―日本列島史の中の「御記」―」参照)。

 

そこで強調したように、日本列島史上にはさまざまな「御記」たちが存在していたが、それらは実のところ執筆当時時点では「御記」の呼称を採用していたわけではない。『看聞日記』が著者の伏見宮貞成(さだふさ)親王に配慮して「御記」という書名としたことに象徴的なように、それらの御記は後世の価値観によって御記と呼ばれ始めた可能性を排除できないのである。こうした問題点の指摘において、横井氏の議論は『看聞日記』に関する(後世の「改称」の)実際の事例を示すものとして引用し、指摘の具体的根拠となるものだった。

 

以降の御記論は、「看聞御記」呼称が「貞成=後崇光院の格段の立場に特別の配慮を加えた書名であるのは明白」だという横井氏の重要な指摘(横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年、初出1979年))をもとにしながら、御記と天皇制の関係性、「日本」的なるもの、御記言説の政治性等々、御記論そのものの「意義」が導き出されていった。そういう意味では、横井氏の議論が御記論全体に果たした役割は極めて大きいと言わなければならない(もちろんその議論に問題が多いことは百も承知である)。

 

そして、そこで踏まえた横井氏の議論とは、基本的に『室町時代の一皇族の生涯』のみによるものである。ページ数にして1ページにも満たないその記述は、その短さに比して非常に示唆に富む内容だったが、実際にはそのテーマについてより本格的に述べている論稿が横井氏には存在している。

 

それこそが本節の取り上げる「『看聞日記』と『看聞御記』の間」である。

 

・横井清「『看聞日記』と『看聞御記』の間」を読む

 

当該論稿は、「『日記』と『御記』の間」というタイトルで岩波書店の雑誌『文学』に1984年に掲載された後、1990年に阿吽社より刊行された『光あるうちに』に収録された際、一部改題されて上記のようになった。長い論稿ではなく僅か3ページとなっているが、これまた重要な内容である。以下、「読書ノート」としてその内容を紹介するとともに、横井氏の「御記」批判を改めて検討してみたいと思う。

 

まずこの論稿は、「この署名については、正直のところ歴史研究者として苦い想いが働きつづけている」という一節から書きはじめられている。「この署名」とは、当然「看聞御記」のことである。

 

これに続く箇所には、筆者も御記論で引用した網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店1984年)の一節を引用している。横井氏の要約に従って述べておくと、網野氏自身も含めた「われわれの内なる天皇制を凝視する必要性」と、「『看聞日記』をそれが歴史的名辞であるとして『看聞御記』としてしまう迂闊さ――あえていえば鈍感さ」(網野前掲書)の指摘が言及されている。そして、その指摘は1979年にそしえてより刊行された『看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』(『室町時代の一皇族の生涯』の底本・旧版)において「御記」呼称を採用した横井氏にとって、「己が事として受けとめなくてはならぬ言」=「寸鉄の言」だったとする。

 

 

『看聞日記』嘉吉元年(1441年)六月二十五日条(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

そのうえで、「看聞御記」をめぐる「体験」は実は「三度」あったと述べる。

 

一度目は、「二十数年」前(1960年代初頭:引用者注)の体験であり、「師」の著書に『看聞日記』とあるのを見た横井氏が「師」に「これは『看聞御記』ではありませんか」と尋ねたものの、逆に(「しばらく黙っ」た後に)「やおら、どちらが正しいと思うかと反問」されたものである。「共同研究室の書架に背文字を見なれていた程度」だったことから「閉口」してしまったが、結局、その反問の重みを事実に即して確かめるのを怠ったため、「よくなかった」と振り返っている。

 

二度目は、その「十数年後」(1970年代前半:引用者注)の体験である。そしえてより『看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』を刊行するに当たり、出版社から書名の当否について意向の確認を受けた際のものであり、ここでもまた最終的には、「本当の署名(『看聞日記』)はすでに知りながらも『御記』の称を採った」のである。

 

三度目とは、網野氏の指摘であり、「大詰めのつけ」と横井氏は表現している。さらにいえば、その後に続く「二つの書名のはざまで佇立したまま、さきの“寸鉄の言”を噛んでいる」という言葉は、2度の体験を重ねたうえに鋭い指摘を重く受けとめることになった横井氏の心情をわかりやすく表現している。

 

こうした三度の「体験」を踏まえたうえで、日記原本の原題が「看聞日記」として伝来してきており、所蔵機関たる宮内庁書陵部でも正式な登録名称として原題を採用していることが語られる。「原題をまったく無視して“戦前”から“戦後”にわたって版を重ねている刊本に優先」したこと、さらには「あきらかに一定のイデオロギーゆえに、“変改”された、全く別の書名を広めること」になったことへの苦渋と後悔が一文字ごとに強く現われていく。

 

以下の引用箇所は、横井氏の歴史研究者としての責任と覚悟が伝わってくる言葉である。

 

 

「事実を第一に扱うべき立場の者としては『迂闊』『鈍感』の語域をはるかに超えて重い責任がある」


(横井清「『看聞日記』と『看聞御記』の間」(『光あるうちに』阿吽社、1990年、初出1984年))

 

 

ただし、一連の「つけ」の支払いという段になって、横井氏は、「分割払い方式でしか果たせないと思うが、根気よく分割払いを重ねていく気力というのは、机辺にある小著の背文字(『看聞御記 「王者」と「衆庶」のはざまにて』:引用者注)と続群書類従完成会刊『看聞御記』のそれとが培養し続けてくれるにちがいない」と言っている。この箇所の大意については、(それこそ「寸鉄の言」として)筆者もよく受けとめなければならないのだが、とはいえ『続群書類従』シリーズの影響の指摘には、既に御記論で指摘したような妥当性の不足を認めざるを得ない(「1、「御記」という言葉 ―日本列島史の中の「御記」―」参照)。

 

推測するに、おそらく横井氏の議論の意図するところは、戦前以来の歴史研究に基礎的材料=史料の刊本を提供した『続群書類従』シリーズの性格を反映したものではないだろうか。歴史研究の基礎となる(一見して価値中立的な)史料の名称(史料名)が「看聞御記」となっていたことは、戦後の歴史研究においても御記呼称を容易に継続させていき、結果的にそれを「一般的に流布」させるに至らしめたように思われる。

 

だが、歴史学界(日本史学界)についてはともかく、それが一般社会に敷衍できる主張なのかというと、やはり微妙だろう。この議論には留保を要する。もちろん、この問題性によって横井氏の議論の価値が変化することはないが、御記なるものの社会的受容をよくよく考えていくべきであることは疑いない。

 

・横井清氏の「寸鉄の言」

 

横井氏の一連の議論のなかで最も重要だといえるのは、論稿の末尾にある以下の言葉だろう。

 

それは三度の体験を踏まえたうえでのまさしく「寸鉄の言」であり、「『御記』という問題」のたえざる問題系を剔抉してみせたものである。さらにいえば、筆者が御記論の意義として挙げたことが端的に示されており、その難しさを具体的な御記の実例を以て眼前に現わしてくれている。

 

 

「内なる天皇制を凝視するという営みは、なんと胸苦しいことであろうか。ほんとうは、『看聞日記』と『看聞御記』との間の距離は千里万里であるはずだが、その二つは私の中で容易に分かちがたい力で一つになり、黒髪であざなわれた一筋の縄と化して迫りくる」


(横井清「『看聞日記』と『看聞御記』の間」(『光あるうちに』阿吽社、1990年、初出1984年))

 

 

この御記批判は、3ページという短さにもかかわらずその何倍もの重さをもっている。優れた先学としての横井氏には脱帽であり、改めて検討する余地もないものだったと言わなければならない。その御記批判なくして、御記について論じようとすることはもはやありえないことである。

 

参考文献

網野善彦『日本中世の非農業民と天皇』(岩波書店1984年)
横井清「『看聞日記』と『看聞御記』の間」(『光あるうちに』阿吽社、1990年、初出1984年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年、初出1979年)

 

 

2、「世界」システムの絶対性=不可能性はどこまで実現可能なのか? ―牧野雅彦『ハンナ・アレント』読書ノート―

 

 

・御記論における「世界」システム

 

筆者の御記論は、「勇者であるシリーズ」(以下、ゆゆゆと呼称)の舞台となった「神世紀」の四国地方を、「世界」システムの絶対性=不可能性に満ちた空間として把握していた(「5、なぜ大赦は勇者御記を必要としたのか? ―犠牲のシステム=「世界」システムという不可能性—」参照)。

 

 

「『世界』の平穏と維持の至上目的のために駆動される『世界』システムは、大赦の制御下を離れて自律し始めていき、『世界』=神世紀四国を全面的に虚構化するのみならず、勇者システムという犠牲のシステムを要請する。勇者も巫女も大赦も神樹もその例外ではない。システムの『外部』は存在しない。それは絶対性=不可能性を以て、神世紀四国に君臨しているのである。」

 

寺末桑町「なぜ大赦は勇者御記を必要としたのか?」(「『御記』という問題 ―ゆゆゆにおける勇者御記の意味―」)

 

 

上記の箇所に要約しているように、神世紀四国=世界の平穏と維持を至上目的として(大赦によって)駆動した「世界」システムは、大赦の制御を飛び越え神世紀四国そのものを全面的に虚構化するとともに、勇者システム=犠牲のシステムを要請する。このようにして、「世界」システムはその「内部」へと神世紀四国のあらゆる存在を取り込み、絶対性=不可能性を獲得することになる。

 

勇者たちに関しては、こうした「世界」システムの根幹に関わる活動に携わっていた以上、それらを相対化する契機に恵まれていたはずだが、結局のところ、最終決戦の後で「勇者」乃木園子は(混乱した大赦の)「宗主」となり、讃州中学勇者部の面々はそれを承認した。「宗主」という立場の選択とは、つまりは「犠牲」の論理の復活にほかならず、犠牲のシステム=「世界」システムはいまだに健在であった(「6、補論 「宗主」乃木園子というアポリア ―大赦=神樹体制から乃木園子体制への転換を考える―」参照)。

 

神世紀四国の前提となっていたのは、人類を滅亡の瀬戸際に追い込んだ天の神・バーテックスの存在と、それに対抗するための神樹の存在である。そのどちらもが消えたはずの神世紀300年代にあって、「世界」システムの残響は絶えず四国地方に響き渡っているのだ。

 

そのように、あまりにも絶対的かつ対抗不可能なる「世界」システム。この存在の指摘は、筆者の御記論にとってそれを構成する極めて重要な要素であり、一定の妥当性はあり得たと考えている。

 

しかし、それは果たして正しいのだろうか。本当に「世界」システムは絶対性=不可能性を発揮できたのだろうか。こうした疑問が出てくることも、妥当なことである。作中の描写だけでは、必ずしもそれを指摘することはできないのだから、留保をつけるべきことは当然に行われてしかるべきである。

 

以下からは、そうした「世界」システムの絶対性=不可能性の「実現」度合に関して、牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書、2022年)の議論を参照しながら、「全体主義」という観点をもとに検討していきたい(※以下の内容は、特に断りの無い限り、同著の内容に基づく)。

 

 

牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書、2022年)の書影(講談社BOOK倶楽部)

 

 

・ハンナ・アレント氏の「全体主義

 

そもそもハンナ・アレントアーレント)氏は、ドイツのユダヤ系の家庭に生まれ、ナチス政権の成立とともにフランス・アメリカに亡命した後、全体主義に関する多数の著作を残した著名な哲学者・思想家である。『全体主義の起源』・『人間の条件』・『エルサレムアイヒマン』などの著作で知られ、アメリカを主な舞台として活躍した。

 

それでは、アレント氏のいう「全体主義」概念とはどのようなものなのだろうか。

 

それは、ヒトラーナチス・ドイツスターリン時代のソビエト・ロシアのような、「独裁的な人物を指導者と仰ぐ政党が排他的なイデオロギーに基づいて支配する政治体制」のことではない。アレント氏の全体主義の特徴は、「運動」に求められる。

 

幅広い国民大衆を巻き込んだ「運動」は、強大化して政治権力を獲得することで、排他的なイデオロギーに基づいて敵対勢力とみなされた集団を「破壊」しながら、社会の隅々に及ぶ支配を徹底していく。そして、経済的な破局や自滅的な戦争によって自己の体制さえも破壊した先に待ち構えているのが、ユダヤ人の強制収容所での大量虐殺である。

 

だが、全体主義のために破壊されるのは、敵対集団や被支配者層だけではない。全体主義体制は単一政党・諸機関同士の日常的な競合・対立を惹起するため、効率的な行政や権力の相互抑制はなくなり、さらには指導者を取りまくリーダーの権力争いが混乱に拍車をかけていく。「全体主義の運動は国家そのものを破壊するのである」。

 

すなわち全体主義は、もはや「それまでの人間の生活基盤となっていたもの、既存の道徳規範や伝統をはじめとする一切のもの」を破壊し、従来のあらゆる政治思想・イデオロギーを失効させてしまう。アレント氏における全体主義とは、このようなものを指している。

 

そして、こうした全体主義に抗うためには、「行為」による自由な「運動の空間」が必要となる。

 

アレント氏によれば、人間の「活動」は、「労働」(生命維持のために必要な食糧その他の物資を生産して消費する活動)・「仕事」(自然の素材に手を加えて具体的なものを制作する活動)・「行為」(人間同士の間で行われる活動)に分類されるという。人間が生きていくためにはどの活動も不可欠であり、相互に支え合っていかなければならない。

 

だが、人間を人間として成り立たせているものとすれば、それは人間がほかの人間とともに行う行為である。人間が自らの意志に基づいて行う営みだからこそ、他者との相互関係によってその結果は左右される。行為とは、「予測不能」なものである。そうした予測不能な行為によってこそ、他人との間に網の目のような関係がつくりだされる。

 

人間関係の無数の網の目は、行為の場としての「共通の世界」(「共通世界」)を構成していくのであり、人々の行為なくして「共通世界」は存在し得ない。したがって、「人間は論理的な推論に完全に取り込まれてしまう存在ではない」。複数の人間の相互作用のなかで行われる行為は予測不能であり、全体主義イデオロギーによる「論理の専制」を打破することが可能である。全体主義の支配に抵抗するために、「『行為』による自由な『運動の空間』」が求められることになるのは、そういう理由によるのである。

 

ただ、この運動の空間を取り戻すためには、行為によって生み出された「事実」が必要である。これまで見てきた通り、行為とは予測不能であり意外なものだ。単純な説明は通用しないし、原因についていろいろと考えてみても結局は納得のいく答えを得られない。だから、人々は「都合の悪い事実」をなかったことにしてわかりやすい説明やイメージに頼ろうとする。しかし、「どんなに虚偽の説明を重ねても、『起こってしまった事実』を『なかったことにする』ことはできない」。

 

 

「あれこれの抗弁を一切受けつけない『事実』の存在こそが、全体主義の『虚構の世界』に絡め取られないための確かな足場を与えてくれる、全体主義に対する抵抗の拠り所になる――アレントはそう主張するのである」

 

(牧野雅彦「第5章 抵抗の拠り所としての『事実』」(『ハンナ・アレント講談社現代新書、2022年))

 

 

アレント氏が「事実」を重視するのは、「共通世界」とそのリアリティを崩壊させ人々を「虚構の世界」に取り込もうとする全体主義にとって、行為による予測不能な事実が、決してその存在を否定できないものだからである。全体主義に対抗する「確固たる拠り所」こそ、何あろう「事実」なのだ。

 

・「世界」システムの再検討

 

これでようやく、筆者の「『世界』システム」概念を議論する緒につくことができた。

 

御記論において、神世紀四国という「世界」システムの絶対性=不可能性の空間は、「閉ざされた言語空間」≒「虚構の世界」へと人々を疎外し神世紀100年以降に全面的虚構化を達成したと指摘したが、人類史上最悪の全体主義という「悪夢」でも、人々の行為に基づく事実を決して否定できなかったのである。いくら特殊条件下に神世紀四国があるとしても、「世界」システムは本当に「事実」を隠蔽できたのだろうか。

 

つまるところ、「起こってしまった(ている)事実」を隠蔽しようとし実際に隠蔽に成功したように見えた「世界」システムは、行為による予測不能な事実を絶対に否定できないはずだ。「壁の外の真実」や天の神などに関する事実は、関与可能な人間の過少のために「起こってしまった(ている)事実」を「隠蔽」できなくもない。しかし、いくら過少とはいえ事実を知った(ている)人間の行為の予測不能性・意外性は規制できないだろう。

 

現実世界で起こった事実を完璧に隠蔽することは不可能であり、情報の統制と事実の隠蔽はいくら全体主義体制といえど行い得ない。それは「世界」システムも同じことである。「閉ざされた言語空間」は完璧に閉ざされてはいないし、絶対性=不可能性はどこかで既に動揺しているのだ。

 

アレント氏によれば、「起こってしまった事実」を隠蔽するという不可能なことを求める努力の行き着く先は、「本当のことなど何もない」という真理を認めないシニニズム(冷笑主義)である。そして、人々は一切の方向感覚を失い、「本物か偽物か」という基準を拒否した先に、やがて自分自身の存在さえも怪しくなってしまうという。

 

だが、神世紀四国はそうではない。神授の恩恵によって社会生活は曲がりなりにも維持されており、一見してシニニズム的態度を看取することは困難である。

 

もちろん、ゆゆゆにおける一般の人々の描写は少ないため、実際には必ずしもそうではないのかもしれない。

 

しかし神世紀の300年間を通しても、動揺や混乱の描写があるのは僅かに神世紀301年以降に過ぎない。最終決戦の結果として、四国地方を覆う「壁」=結界の消失や瀬戸大橋周辺一帯の物理的損壊、剣山の炎上などが発生し、食糧配給の欠乏や大赦批判の街宣活動などが描かれていたのは、その証左だろう。

 

あるいは最終決戦直前の現実世界にもその脅威を直接可視化した天の神襲来時や、瀬戸大橋を変形させるほどの象徴的被害をもたらした先代勇者の戦闘を挙げることもできるだろうが、前者は最終決戦後の動揺・混乱の前史として、後者は一帯の禁足地化による不可視化を理由として、どちらも退けることが可能である。

 

少なくとも神世紀301年以前の神世紀四国に関していえば、そこに明白なシニニズム的態度を見いだすことはできない。

 

 

四国地方を取り囲む「壁」(四国防御結界)の消えた瀬戸内海(3期12話・©2021 Project 2H)

 

 

崩落したゴールドタワーの中継映像(3期12話・©2021 Project2H)

 

 

炎上した剣山上空の中継映像(3期12話・©2021 Project2H)

 

 

これはつまり、「閉ざされた言語空間」が完成したり「世界」システムが貫徹したりしていることを意味していない。シニニズム的態度の不在は、引いては「起こってしまった(ている)事実」の隠蔽自体に限定をつける。「世界」システムは、想定されるほどに絶対的でも対抗不可能でもない。繰り返せば、「どんなに虚偽の説明を重ねても、『起こってしまった事実』を『なかったことにする』ことはできない」。大赦の検閲体制は勇者御記を完全に検閲できないし、「壁の外の真実」を一般社会に対して完全に隠蔽できない。

 

ここにおいて、御記論における「世界」システム概念は、その妥当性に留保をつけられるべきことが明らかである。特に、(絶対性=不可能性を構成した)全面的虚構化の作用による神世紀四国の「閉ざされた言語空間」化現象については、虚構化の「不可能性」の点で矛盾している。勇者御記の検閲による精神的継承の阻害や「閉ざされた言語空間」それ自体を否定するつもりはないし、「世界」システム概念そのものを放棄するつもりもないが、神世紀四国の「世界」システムがすべての人々を覆いつくしたなどという認識は改めなければならない。

 

したがって、筆者は「『世界』システムの絶対性=不可能性はどこまで実現可能なのか」という問いについて、ついに答えを出すことのできる地点に立った。

 

すなわち「世界」システムの絶対性=不可能性とは、完璧なものでは決してありえないし、神世紀四国を完全に疎外したわけでもない。ゆゆゆの描写を見る限り、その具体的な実現度合を答えることはできないが、システムそれ自体は究極的には「相対的」なものに過ぎないのである。

 

 

「本来的に『予測不能』な人間の『行為』 が行われる政治の場で、不都合な事実を隠蔽するために情報を完璧に統制することは、どんなに強権的な体制でも不可能なのだ。

その意味においては、時々の政府やその背後にいる集団による情報統制といった試みを一口に『全体主義』であると批判することは、事態の本質を見誤ることになるだろう。一方的で一元的な情報統制の体制としての『全体主義』というのも虚偽のイメージの一種であり、そこには『陰謀論』の落とし穴が潜んでいる。」

 

(牧野雅彦「第5章 抵抗の拠り所としての『事実』」(『ハンナ・アレント講談社現代新書、2022年))

 

 

この指摘は過ぎたる「臆断」がもはや「陰謀論」にほかならないことを示している。「世界」システムは万能用語ではない。筆者はそのことを肝に銘じる必要があるだろう。

 

とはいえ、ハンナ・アレント氏の「全体主義」をキーワードに「世界」システムを再検討してきた筆者には、その相対性が御記論における重大な瑕疵であることは疑いないとしても、「未発の契機」の探求という点からみれば、望外の「発見」だということを強調しておきたい。

 

そもそもゆゆゆ研究とは、そのようにして「批判と反省」の際限のないサイクルの過程に進行していくものである。そして、今回「発見」された「希望」は瑕疵を瑕疵として受け入れたうえで、さらに研究を進めていくべきことを筆者に求めている。いまだその緒に就いてもいないゆゆゆ研究は、筆者の失敗を糧に今後より一層推進されていくことだろう。是非とも頑張りたいものである。

 

 

高松丸亀町壱番街前ドーム広場よりドームを望む(2023年8月筆者撮影)

 

 

参考文献

牧野雅彦『ハンナ・アレント』(講談社現代新書、2022年)

 

3、画像引用元

宮内庁図書寮『看聞日記 乾坤』35(宮内庁図書寮、1934年)(https://dl.ndl.go.jp/pid/2591304/1/35国立国会図書館オンライン、2023年8月27日閲覧))

講談社BOOK倶楽部「今を生きる思想 ハンナ・アレント 全体主義という悪夢」(https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000370025(2023年8月27日閲覧))

結城友奈は勇者である -大満開の章-』12話(2021 Project2H、2021年)