寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

方法としてのゆゆゆ ―ゆゆゆ研究という可能性―

0、まえがき

 

terasue-sohcho.hatenablog.com

 

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先日、筆者は「ゆゆゆ研究コラム」のひとつとして、「『御記』という問題 ―ゆゆゆにおける勇者御記の意味―」以下、御記論と呼称)という記事を投稿し、さらにその「批判と反省」を述べた「御記論の批判と反省」も投稿したところである。しかし、そもそも「ゆゆゆ研究コラム」とはいったい何なのか、「ゆゆゆ研究」とは具体的に何を指すのかについて、十分な説明をしてきたとは言えないだろう。したがって、本記事を以てその説明に替えるものとするとともに、「ゆゆゆ研究」の可能性を指摘して今更ながらの(「研究」における)「緒言」としておきたい。

 

1、そもそも「ゆゆゆ研究」とは何なのか?

 

Q.そもそも「ゆゆゆ研究」とは何なのか?

 

A.「ゆゆゆ」こと『結城友奈は勇者である』以下の一連の「勇者であるシリーズ」(以下、ゆゆゆと呼称)について「研究」することである。

 

Q.それでは「ゆゆゆ研究コラム」とは何なのか?

 

A.筆者の「ゆゆゆ研究」の成果を本ブログに「コラム」の形式で発表したものである。

 

基本的な説明事項としては、以上で終わりとなるだろう。だが、流石にこれだけでは味気ないので、それぞれについて補足説明をしておく必要がある。

 

まず「ゆゆゆ研究」に関しては、実のところ「ゆゆゆ研究」とは「研究」ではないということを強調しておきたい。もちろん「研究コラム」という言葉をいまだに使っているように、それがまったく「研究」的要素のないものだというわけではない。ある程度は「研究」の名に値すると考えて、そのように使っているのである。ただ、その内実としては「研究」という名の、いわば「批評」(のようなもの)の皮を被った駄文だと考えた方が賢明である。

 

たとえば、学術研究を想定すればわかりやすいだろうが、筆者のやっている「研究」なるものは、厳密な学問的検討をおこなっているわけではないし、論理性・合理性を欠く場面も多い。したがって、そうしたような研究と同列視できるものではまったくないのである。所詮は素人語りの「研究」に過ぎない。

 

こうした性格を抜きにして筆者の「研究」を語ることは困難であり、読者諸氏には強く留意していただきたい点である。

 

また「ゆゆゆ研究コラム」については、先日あげた御記論に象徴的なように、5万字近くの字数を数える内容を果たして「コラム」という言葉で語ってよいのかという問題がある。強いて数千字程度ならば理解できるだろうが、その10倍以上の分量をもつというのは、あまりにも理解に苦しむ。そうした疑念が出てきてもまったくおかしくはないだろう。

 

それは至極当然の疑念であり、これもまた「研究」同様に「文字通り」のものではないのである。基本的に筆者の「研究」は「素人語り」にほかならず、しっかりとした内容をもってはいない。だからこそ、そうした「研究」の成果は「研究」として掲げられるべきではなく、「コラム」として世に出されるべきだと筆者は考えたのである。読者諸氏に要らぬ混乱を招いたかもしれない点はお詫びせねばならないが、そうした事情によって「コラム」の名前をもつことについては、留意していただけるとありがたい。

 

さて、本節の役割は以上で完全に終わったかと思うが、本記事に課せられた課題は、ゆゆゆ研究の「可能性」を指摘するとともに、それをゆゆゆ研究(コラム)全体の「緒言」とすることである。以下からは、「方法としてのゆゆゆ」という視座の設定と有効性を述べつつ、研究の「可能性」を具体的に示していくこととしよう。

 

2、「方法としてのゆゆゆ」の提唱 ―アジア、江戸=徳川日本、「他者」―

 

本節では、既に述べたように「方法としてのゆゆゆ」という視座の提唱とその有効性の指摘を試みたい。

 

そもそも「方法としてのゆゆゆ」というのは、戦後日本を代表する中国文学者・評論家の竹内好氏が1961年に行った講演の表題(「方法としてのアジア」)に由来するものであり、一般にもある程度知られた言葉である。また、溝口雄三氏の「方法としての中国」や子安宣邦氏の「方法としての江戸」などのように、竹内氏の議論を受け継ぐ議論を実に多く見いだすことができる。本節の「提唱」しようとする「方法としてのゆゆゆ」もまた、そうした文脈上に位置づけられるものだと思われる。

 

以下、竹内氏の「方法としてのアジア」、子安氏の「方法としての江戸」、および桂島宣弘氏の「『他者』としての徳川日本」の議論をそれぞれ具体的に追いながら、最終的に「方法としてのゆゆゆ」について提起していく。

 

 

竹内好『日本とアジア』(ちくま学芸文庫、1993年)書影(筑摩書房

 

 

竹内好「方法としてのアジア」を読む

 

基本的に講演としての「方法としてのアジア」とは、豊富な事例を交えつつ「一つの仮説の形で、日本と中国を典型的な型として取り上げて比較」することを通して、中国のような非日本的近代化の型(タイプ)=道に可能性を見ようとしている。

 

竹内氏によれば、一見「成功」したように見えながら、「構造的なものを残して、その上にまばらに西洋文明が砂糖みたいに外をくるんでいる」—「西欧そのままの型が外から持ち込まれた」—日本の近代化は、「民族的なものを中心にして打ち出して来た」中国の近代化とは大きく異なっている。しかも近代化や近代性のあり方は、中国においてより「純粋」に・より「本質的」に発揮されており、逆に「受入れ方が皮膚の表面で止まっている」日本は「自発的」な要素をもたないという。

 

 

「私は戦後に一つの仮説を出した。後進国における近代化の過程に二つ以上の型があるのではないか。日本の明治維新後の近代化というものは、非常に目覚しいものがありまして、東洋諸国の遅れた、植民地化された国の解放運動を励ましたわけです。それが巧くいっていれば唯一の模範になりえたのであるが、結果として最後に、どんでん返しの失敗をやった、その失敗の点から振り返ってみますと、日本の近代化は一つの型ではあるけれども、これだけが東洋諸国の、あるいは後進国の近代化の唯一絶対の道じゃなくて、ほかに多様な可能性があり、道があるのではないか、と考えたのです。」

 

竹内好「方法としてのアジア」(『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年、初出1961年))

 

 

上記に示されている通り、竹内氏は、アジア・太平洋戦争に近代日本の破滅的終局点(「どんでん返しの失敗」)を求めており(おそらく竹内氏の戦争体験が大きく関わっているだろう)、その結果として日本の近代化のあり方を相対化しながら、日本の近代化「ではない」近代化の「道」=「可能性」を求めたのだ。その具体例こそ、中国の近代化だったわけである。

 

そして、中国の近代化にあり日本の近代化にはなかったものとは、近代の本質的・自発的性格である。つまりは、西洋そのままではなく東洋独自の要素をもった近代のあり方に「多様な可能性」が看取されている。重要なのは、近代そのものを否定するのではなく―「超克」するのではなく―、近代の価値それ自体は肯定していることだろう。近代は認める、しかしその可能性は日本のような西洋そのままの近代には存在していない。このような近代の「可能性」の展望をもとにして、表題となった「方法としてのアジア」が導き出されてくる。

 

 

「現代のアジア人が考えていることはそうでなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点になっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。

その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としてはありうるのではないかと思ったので、『方法としてのアジア』という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。」

 

竹内好「方法としてのアジア」(『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年、初出1961年))

 

 

「西洋」と「西洋の生み出した普遍的な価値」を切り離したうえで、「普遍的な価値」を軸として西洋と東洋の一方的関係性を転倒させ、むしろ東洋によって西洋を巻返そう。そのためには東洋の中に東洋独自のものが必要だが、それは「実体」ではなく「方法」=「主体形成の過程」として存在している。明確には言えないけれども、東洋独自の「アジア」を「方法」的に参照することによって西洋を捉え返す、それこそが「方法としてのアジア」なのだ。

 

筆者なりに要約すればおそらくこのようになるだろう。あるいは子安氏の端的な要約を借りれば、「西欧近代を包みかえすいわば方法的視座としてのアジアの提示」といえる(子安宣邦「序 方法としての江戸」(『江戸思想史講義』岩波現代文庫、2010年、初出1998年))。

 

こうした「方法としてのアジア」をめぐっては多様な議論があるだろうが、以下の子安氏の議論に示されているように、その意義は極めて大きいと言わなければならない。現在においてさえも、その価値を決して失ってはいないはずである。

 

 

「『実体としてのアジア』が、近代ヨーロッパ帝国の世界支配に対抗するもう一つの帝国=日本が、かつてその盟主の名のもとに仮想したアジアであったとすれば、『方法としてのアジア』とは西欧近代とその世界史的展開への、西欧の外部における批判的な視座の確保の主張である。『方法としてのアジア』とは変革への可能性を見た中国に己れの視座を据えながら竹内が、現代史に終始かかわり続けることを通じてわれわれに残した貴重な遺産というべき視座、すなわち〈歴史への批判的な視座〉である。」

 

子安宣邦「序 方法としての江戸」(『江戸思想史講義』岩波現代文庫、2010年、初出1998年))

 

 

竹内好氏における「問題性」について

 

なお、これまで見てきた竹内氏の議論には問題がないわけではない。

 

たとえば、中国や中国共産党を「美化」する傾向は否定できないし、用語を厳密に定義して論文を書くようなタイプではなかったことから、「融通無碍」に「近代」という言葉を使うきらいがあった(小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社、2002年))。こうした側面も抜きにして竹内氏の議論を把握するのは困難だろう。

 

ただし、その問題性がひとつには竹内氏における「戦争体験の傷の深さ」に起因するものだということは強調しておきたい。実のところ、戦争体験とは竹内氏の思想=「戦後思想」の基調をなすものであり、そのような「戦争体験の思想化」としての「戦後思想」の性格は、極めて普遍的なものにほかならない(小熊前掲書)。

 

「戦後思想」というときに真っ先に思いつく「戦後民主主義」という言葉に象徴的なように、それは「しばしば実情とかけ離れた単純化されたものになりやすい」のであり(小熊前掲書)、「虚妄」や「幻想」だとして片づける向きがあるのもわからないではない。しかし、「『理想』がどれくらい定着し、現実化したのか(あるいは現実化しなかったのか)という検証を抜きにして、『幻想』だと決めつけるのはあまりに乱暴だろう」(山本昭宏『戦後民主主義』(中公新書、2021年))。

 

竹内氏も含めた「戦後思想」を挙げるまでもなく、過去のさまざまな事象について考える際には、そのような慎重な姿勢が求められる。既に述べた問題点などは、現在の視点からみれば容易に指摘できるだろう。だが、そのように切って捨ててしまう前に、現在のわたしたちにおいても個々の時代状況や社会状況が規定する性格を否定できるのかどうか、しっかりと問うてみるべきである。

 

エドワード・ハレット・カー氏などの指摘している通り、「歴史家は彼自身の時代の人間なのであって、人間存在というものの条件によってその時代に縛りつけられている」のである(エドワード・ハレット・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波新書、1962年、初出1961年))。そして、カール・マンハイム氏が強調したように、このことは歴史家だけに当てはまるものではない。むしろ人間存在一般のこととして捉えるべきだろう(カール・マンハイムイデオロギーユートピア』(鈴木二郎訳、未来社、1968年、初出1929年))。

 

したがって、竹内氏の議論に問題性があったとしても、それだけを理由にその議論のすべてを意味のないものとして扱ってしまうのは慎むべきである。子安氏が指摘していたことだが、少なくとも「方法としてのアジア」という視座の導入には、揺るぐことのない卓見があったとみてよい。

 

子安宣邦「方法としての江戸」を読む

 

閑話休題

 

その子安氏の「方法としての江戸」については、以下の箇所に要約されていると言ってよい。

 

 

「『方法としての江戸』とは、この竹内の『方法としてのアジア』を貴重な示唆として構成される歴史批判のための方法的な視座である。西洋近代を追走しながら、その対抗として自己形成した日本の近代史を読み直し、とらえかえすべき批判的な視座、それが『方法としての江戸』である。『江戸』といっても、それは決して対抗としての実体的な江戸・徳川日本の主張ではない。『実体としての江戸』の語りとは、西欧的近代の転移としてある近代日本に対抗するもう一つの近代、すなわち徳川日本の再構成的なナラティヴでしかないであろう。だが『方法としての江戸』とは、日本の近代史の外部に構成される〈歴史への批判的な視座〉の主張である。」

 

子安宣邦「序 方法としての江戸」(『江戸思想史講義』岩波現代文庫、2010年、初出1998年))

 

 

竹内氏は、「実体」ではなく「方法」として存在している、東洋による西洋「巻返し」のための独自の拠り所を「アジア」に求めたが、子安氏はそれを「江戸」に置き換えたのである。だが、それは「方法としてのアジア」の江戸版では決してない。

 

アジアという「方法」という軸を持ち込んだ竹内氏は、近代的価値観の普遍性と西洋と東洋の一方的関係性を踏まえながらそのように述べたわけだが、江戸という「方法」を提唱した子安氏はむしろ「日本の近代史」を念頭に置いている。すなわち、日本の近代化「ではない」ところに「可能性」を見いだすのではなく、相対化されるべき対象としての近代日本そのものへと肉薄しようとしたわけである。

 

日本の近代化「ではない」ところを探すのは難しいが、「現実に」日本以外の近代化の事例が存在している以上「可能性」を発見することは不可能ではない。しかし、近代日本についてはそう簡単にはいかないだろう。たとえば、近代の延長線上にいるわたしたちにとって、近代そのものを相対化する行為は(曲がりなりにも)近代によって規定されたわたしたち自身を問うことを意味している。近代を問う、つまりは近代を相対化しながら考えるというのは、そういう試みなのだ。いったいどれほどの労力を要するのか想像もつかない。つまるところ、近代日本を直接に問うた子安氏の試みとは、これほどまでに困難な営為だったわけである。

 

「竹内の『方法としてのアジア』を貴重な示唆として構成される歴史批判のための方法的な視座」たる「方法としての江戸」は、確かに竹内氏の議論を「重要な示唆」として構成されているだろう。だが、その簡潔かつ冷静な筆致に比して、子安氏は竹内氏以上の筆舌に尽くしがたい深刻かつ重大な問題に立ち向かっていると言える。近代日本の「外部」に出ることなく、その「内部」に踏みとどまりながら近代日本に対峙しているその姿勢には、はっきり言えば恐懼せざるを得ない。

 

しかも、近代日本という西洋近代の対抗として自己形成した歴史を、徳川日本(近世日本)という「実体」に頼ることなく、それを近代日本=西洋近代の転移の対抗(「もう一つの近代」)として退けたうえで、「日本の近代史」の「外部」に「歴史への批判的な視座」=「方法としての江戸」を設定していたのである。一切の「実体」に依存せずに近代日本と対決し、さらにその「外部」に視座を設定しようとした一連の作業は、並大抵の努力では到底できないことだろう。

 

・「山師」佐藤信淵と「方法としての江戸」の複合性

 

(子安氏が実際に挙げている)佐藤信淵を具体例に考えてみれば、そのことは容易に理解できる。

 

信淵は、「富国をめざす先駆的な経済学者であり農学者である」人物、あるいは「国家経略の卓越した構想者」と見なされてきたが、その内実は「山師」に過ぎない。こうした信淵像=虚像を構築しているのが、まさしく「近代日本あるいは帝国日本の営み、その政治的な、学術的な営み」である。

 

 

「開物学者信淵、国家的経綸家信淵とは明治日本が徳川後期日本から呼び起こし、己れを刻むようにして塑型していった像にほかならないのだ。この信淵像には新たな農業経営あるいは農学・農政学形成への近代日本の知的戦略が、さらには対内的・対外的国家経営への帝国日本の経略が刻印されている。佐藤信淵とは近代日本の要請であったのである。」

 

子安宣邦「序 方法としての江戸」(『江戸思想史講義』岩波現代文庫、2010年、初出1998年))

 

 

このように信淵の名前を出すことはあまりにも「見え透いた代表例の提示」かもしれないが、「われわれに名の知られた江戸の誰れを代表例に据えようと、その見え透き加減はせいぜい程度の問題でしかない」。「近代日本の自己塑型ともいうべき知的作業の結果」によって「江戸という歴史像」=「江戸という思想像」が形成されているからである。

 

信淵の如き人物を挙げようが誰を挙げようが、そこには近代日本の自己塑型の跡を見いだすことが可能である。あるいは信淵に関わって述べれば、「山師」という実像だからこそ「近代の意味付けから溢れ出た人物たちの近世末期社会に逸脱的に跳梁する姿を見出」せもする。実のところ、こうした信淵像の再検討は「方法」の要請するところでもある。

 

つまり「方法としての江戸」とは、単に「近代の構築する信淵像を解体し、近代の自己塑型の痕跡をあらわに」する過程を指すのではない。「あらためて『山師』信淵の、その山師的言動の意味をその時代に問いなおす」過程も、先の過程同様に「方法としての江戸」の一環なのである。「外部」における視座の設定に必要なものは、ひとつのプロセスだけではない。

 

 

佐藤信淵像(模本・京都大学総合博物館所蔵)(京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

 

 

そのようにしてこの「方法」は、「既存の江戸像を構成している近代の読み直し」のみならず、「江戸の新たな読み直し」を指示する「複合」性を露わにする。一方では、近代の自己塑型としてある既存の江戸像を解体する作業=「近代知の脱構築ともいうべき思想史的作業」を要求され、もう一方では、その時代の言説空間のうちにある江戸の「浮上」作業を要求される。こうした要求に十全に応答しなければ、「方法」が立ち現れてくることは決してないのだ。

 

だが、「要求」はこれだけではない。

 

「方法」には、近代に向かう概念構成・言説構成や学問および思想史の方法を問いかける「江戸の読み直し」もあり、「江戸からのベクトル」という視座の構成に関わる「江戸の読み直し」もある。「意味成立の場である言説空間への視点と言説分析という思想史の方法を自覚的にとりながら『江戸思想』の読み直し」を試みた子安氏にとって、実に多様な「江戸の読み直し」の集約形こそが「方法としての江戸」と呼称される。

 

このような営為を総体として見たとき、筆者は改めて「恐懼」せざるを得ない。「並大抵の努力では到底できない」と言った真意も既に理解されるところだろう。子安氏の一連の作業—「方法としての江戸」—とは、簡単な言及を許さぬ「重さ」を持っている。

 

・桂島宣弘「『他者』としての徳川日本」を読む

 

アジア、江戸と来た後に「方法としての○○」という名称をとらない「『他者』としての徳川日本」が来るのは、いささか奇妙に映るかもしれない。だが、これら三者は明白な系譜関係を見出すことが可能である。竹内氏から子安氏へ、子安氏から桂島氏へ、そのようにして議論は展開されているのである。

 

桂島氏の「『他者』としての徳川日本」の副題をもつ『思想史の十九世紀』(ぺりかん社、1999年)の記述を以下に引用してみよう。

 

「『思想史の十九世紀』とは、(中略)十九世紀の画期性に視点を据えた題名であり、『十九世紀の思想史』が〈連続する一国思想史〉の一こまとして十九世紀にスポットをあてる立場とは、明確に対立する立場を表明したものである。結論を先取りするならば、本書は『十九世紀の思想史』が記述する〈連続する一国思想史〉という眼差しが成立したことにこそ、この十九世紀という時代の画期的意義があることを明らかにしようとしたものである。

本書の副題とした『「他者」としての徳川日本』という意味も、かくなる視点と密接に関係している。すなわち、徳川日本の思想が、決して十九世紀以降の〈連続する一国思想史〉に回収されるような、十九世紀以降の〈われわれ国民〉(=『自己』)の思想として存在しているものではなく、〈われわれ国民〉ならざるという意味での『他者』の思想として存在するものであることが、この副題の意味である。換言するならば、〈われわれ国民〉の『自己同一』的な眼差しを徳川日本に向けることで、〈われわれ国民〉の来歴を徳川日本の諸思想に辿り、かくて〈われわれ国民〉の『自己』像が生成される時代として十九世紀を捉えることが本書の眼目なのである。」

 

(桂島宣弘「まえがき」(『思想史の十九世紀』ぺりかん社、1999年))

 

 

「思想史の十九世紀」を具体的に辿りながら、19世紀という時代の「画期的意義」(=「十九世紀の思想史」という〈連続する一国思想史〉の眼差しの成立)を指摘しようとする桂島氏の議論の詳細には、残念ながら立ち入ることができない。だが、この一連の記述を見ただけでも容易に看取されるのは、桂島氏の問題意識が子安氏の「方法としての江戸」に共通しているということだろう。とりわけ、それは「『他者』としての徳川日本」という言葉によく表現されている。

 

徳川日本を現在の〈われわれ国民〉につながる来歴として把握するような〈連続する一国思想史〉=「自己同一」的な眼差しを相対化しながら、「他者」としての徳川日本から「自己」としての徳川日本へと転化していく時代であるところの19世紀を把握しようとする姿勢。これは明白に「既存の江戸像を構成している近代の読み直し」や「江戸の新たな読み直し」を含む一連の「江戸の読み直し」=「方法としての江戸」という問題意識を踏まえていると言わなければならない。

 

 

五雲亭貞秀「東都両国ばし夏景色」(部分)(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

 

ただし、竹内氏を踏まえた子安氏が竹内氏そのままの議論をしたわけではないように、桂島氏は決して子安氏の議論そのままの議論をおこなってはいない。

 

確かに「自己」ならざる「他者」としての徳川日本=江戸を剔抉する姿勢は、子安氏同様に、近代的眼差し=〈連続する一国思想史〉の眼差しを解体するとともに、江戸の新たな読み直しを志向するものである。だが、「自己」から「他者」への転換の時代としての19世紀=「思想史の十九世紀」においては、いささか事情が異なっているだろう。なぜなら、「方法としての江戸」とはあくまで「江戸」に視座を設定するものであり、「19世紀」に視座を置くものではないからである。完全なる江戸の「内部」に居る人物に注目するのではなく、19世紀における転換の直接的渦中にあった(ある意味では江戸の「外部」の)人物に焦点を当てることで、桂島氏は、徳川日本の「内部」と「外部」の狭間に揺れる人物を対象とした「思想史の十九世紀」を鮮やかに描き出そうとしている。

 

それは「江戸の読み直し」の新たなる展開であるとともに、「方法としての江戸」が指示した作業をさらに推し進めつつ、新たなる視座を生成しようとする並々ならぬ努力の結晶だったはずだ。したがって桂島氏の議論とは、いわば視座「思想史の十九世紀」を通した19世紀の読み直しであり、子安氏以上の複合的な思想史的作業を求められたことだろう。「恐懼」の極みである。

 

しかし「思想史の十九世紀」は非常に重要だが、筆者が桂島氏の議論から「方法としてのゆゆゆ」のために引き出したいのは、「『他者』としての徳川日本」の方である。もちろん、徳川日本=江戸が「自己」ではなく「他者」であることについては、既に子安氏が指摘していた通りだろう。とはいえ、徳川日本はあくまで「〈われわれ国民〉ならざるという意味での『他者』」に過ぎないのだということを端的に表現する言葉として、「『他者』としての徳川日本」は有効である。この言葉は、「思想史の十九世紀」という視座を通して19世紀の読み直し作業を遂行してみせた桂島氏の営為をよく表現するものとして機能してもいる。「思想史の十九世紀」ではなく「『他者』としての徳川日本」を「引き出す」妥当性はある程度認めてもよいはずだ。

 

ともかくも徳川日本とは、何あろう「他者」にほかならない。桂島氏の議論を踏まえた後では、このことをしっかりと肝に銘じなければならないだろう。

 

・「方法としてのゆゆゆ」の提唱

 

それでは、これまで見てきた「方法としてのアジア」・「方法としての江戸」・「『他者』としての徳川日本」の三者を踏まえたうえで、いよいよ「方法としてのゆゆゆ」という「視座」を提唱していくこととしたい。

 

いま一度三者を確認しておくと、「方法としてのアジア」とは、「西欧近代を包みかえすいわば方法的視座としてのアジアの提示」(子安前掲書)を、「方法としての江戸」とは、「江戸の読み直し」という複合的作業の集約形かつ「日本の近代史」の「外部」に設定された「歴史への批判的な視座」(子安前掲書)を、「『他者』としての徳川日本」とは、徳川日本という〈われわれ国民〉=「自己」ならざる「他者」を、それぞれ指すものだった。

 

これらをゆゆゆに置き換えてその「方法的視座」を考えてみると、「ゆゆゆ」というわたしたち(「自己」)とは異なるまったき「他者」の視座を通して、神世紀四国という空間を舞台に展開されたその「歴史」を読みなおし、現在の視座に基づいたゆゆゆ像を解体するとともに、そのような一連の「虚像」を可能にしたわたしたち自身を問いなおすような試みだと言い換えられるだろう。「方法としてのゆゆゆ」とは、こうした試みにおける「視座」のことであるとともに、そうした試みの総体のことである。

 

・「方法としてのゆゆゆ」の有効性

 

とはいえ、その「方法的視座」には(残念ながら)問題もあるため、以下にその有効性を検討していきたい。

 

まず問題となるのは、対象となったゆゆゆの虚構性である。竹内氏や子安氏の想定したような(アジアや江戸などの)「実体」、つまりは「実体としてのゆゆゆ」に関しては、作品世界の虚構性によって「実体」の「虚構性」が明らかである。しかし、アジアや江戸は過去に確かに「実体」として存在したが、ゆゆゆは本来的に「実体」ではない。「虚構」なのである。こうした点を疑問視する向きも十分想定されるところである。

 

だが、その疑問は当たらない。なぜなら、ゆゆゆはその時代状況・社会状況を離れては存在できないのであり、その意味において「実体」性を簡単に否定できないからである。

 

たとえば、ゆゆゆが「3・11」(東日本大震災)の影響を多分に受けていたり、『魔法少女まどか☆マギカ』との関係性(「ポストまどマギ」)の文脈において理解されたりしたのは、その証左である。

 

虚構は虚構に過ぎないが、その「虚構」を生み出した時代や社会は厳然と存在している。そうした「虚構」を「消費」するわたしたち(当然、筆者も含まれる)の存在を挙げるまでもなく、「虚構」が「虚構」として展開されている舞台=社会のことを考えれば、ゆゆゆを時代的存在・社会的存在と把握するのは難しくない。むしろ、そうした時代・社会を抜いて虚構なるものは絶対に存在しないのだから*1、「実体としてのゆゆゆ」とは、わたしたちの目にする「ゆゆゆ」のことだと言い換えることも可能である。

 

ここにおいて、ゆゆゆは時代的存在・社会的存在としての性格を証明されるとともに、アジアや江戸などと同格の地位に立つことができた。「方法としてのゆゆゆ」はその視座の置き場を「虚構」に置いたとしても、何ら問題ではないのである。

 

しかし、いまだ問題は残っている。

 

アジアは空間的に、江戸は時間的に、現在のわたしたちと区別できているが、ゆゆゆは現在も続くコンテンツである。その現在性は、容易に「自己」としてのゆゆゆと「他者」としてのゆゆゆの区別を曖昧にするのではないだろうか。

 

「他者」としてゆゆゆを問おうとするとき、ゆゆゆが決して「過去」の存在ではない点で(=「実体としてのゆゆゆ」)、「方法的視座」を機能させる足場それ自体を動揺させてしまう。現在のわたしたちと同じく「時代的存在・社会的存在」であるゆゆゆは、当然に(ゆゆゆ同様)「時代的存在・社会的存在」である現在のわたしたちと何らの違いはない(表面的に「虚構」だろうが「実体」だろうが「時代的存在・社会的存在」としての性格に変更がないことは既に見た通りである)。

 

したがって、もはやゆゆゆは「他者」ではなく(文字通りに)「自己」と同じことになってしまう。そうなると、わざわざゆゆゆを媒介する必要はなく、現在のわたしたち自身を直接に問えば良いということになる。ここにおいて、「自己」としてのゆゆゆを問うことに意味はない。あるとすればせいぜい筆者の趣味嗜好の問題であり、「方法としてのゆゆゆ」は、非合理の「拘り」に過ぎなくなる。

 

だが、いくら「時代的存在・社会的存在」という性格は「同じ」だとしても、やはり表面的相違性—「虚構」と「実体」の差異—は無視できないだろう。ゆゆゆは現代のわたしたちと同じではない。荒唐無稽な喩えだが、もし「同じ」であるとすれば神世紀に突入した「西暦」2023年の世界は四国地方以外、文字通りの「火の海」になっているはずだ。どちらも「時代的存在・社会的存在」ではある。しかし、ゆゆゆは現在のわたしたちの生きる現代社会とはまったく違う(虚構の)世界である。このことは重要な差異だと言わなければならない。

 

ゆゆゆをめぐる事象やゆゆゆの存立基盤は、(現在のわたしたち同様に)現代という時代や社会にあるが、ゆゆゆそのものは現代と等号では結べない。一定の一貫性をもとに構成されたゆゆゆにとって、その作品世界は作品世界としての自己完結性を備えており、あくまで虚構だとしてもひとつの「歴史的空間」をそこに想定できる。それは現代という時代や社会の間接的影響を受けつつも、それとは異なる特定の時代や社会の拘束を受けた「歴史的空間」なのである。

 

したがって、ゆゆゆとは「自己」では決してありえない。改めて言えば、それは「他者」である。「自己としてのゆゆゆ」ではなく「他者としてのゆゆゆ」であることは、ここに確認された。

 

だとすれば「方法としてのゆゆゆ」の有効性も、容易に再発見できる。

 

「自己としてのゆゆゆ」が存在しておらずそれが「他者」であるならば、現在のわたしたちの視座から見たゆゆゆ(像)とは、端的に「虚像」にほかならない。

 

子安氏が近代日本の自己塑型の結果としての「江戸」像を剔抉してみせたように、現代という時代や社会に置かれたゆゆゆのあり方は、ゆゆゆそのままではなく「ゆゆゆ像」なのであり、現在のわたしたちを投影した「虚像」でもある。その「解体」は確かに深刻な問題になるのであり、それゆえにこそ「わたしたち自身を問いなおす」契機を生じさせてくる。あるいは、ゆゆゆが「日本」的なるものに拘っていることに鑑みれば、そうした「問いなおし」は「『日本』とは何か」という問いと密接に関連しながら、なお一層意味あるものになっているだろう。

 

だからこそ、「方法としてのゆゆゆ」は現在のわたしたちの「外部」に設定された「批判的な視座」としてのゆゆゆを媒介することで、ゆゆゆの「実像」を明らかにすることを可能にするだけではなく、そうした「虚像」を作り出した現在のわたしたち自身をも問うことを可能にするのだ*2

 

「方法としてのゆゆゆ」とは、そのように有効性のある「方法的視座」であり、現在のわたしたちや現代社会に対する「問いなおし」という「意義」をもった試みである。筆者の能力不足ゆえにどれほど実現できるかはわからないが、「問いなおし」の具体的内実は多様であり得る。そのような可能性に満ちた「方法としてのゆゆゆ」においては、ある程度竹内氏以来の「方法としての○○」の系譜上に連なるものを認めてもよいはずだ。筆者はその連綿たる個々の営為に敬意を表しながら、「ゆゆゆ研究」(なるもの)に少しずつ取り組んでいきたいと思っている。

 

 

神世紀四国を囲む「壁」(結界)の外側の様子(1期8話・©2014 Project2H)

 

 

3、ゆゆゆ研究という可能性

 

筆者がゆゆゆ研究なるものを始めようとしたのには、個人的な事情が当然存在するのだが、それにやるべき価値を見出した動機となっているものは、ゆゆゆ研究という営為のもつ非個人的な意義=可能性に求められる。既に御記論においても指摘した通り、ゆゆゆは「日本」的なるものに拘った作品であり、ある種異様な歴史的展開をみせる作品世界が設定されている。そうした内容について考えてみることは、現在のわたしたちの生きている(少なくとも関わってくる)「日本」という空間・社会・国家を考えることにもつながるから、ゆゆゆ研究の可能性として掲げてみることもできる。

 

 

「ゆゆゆの御記使用を考えるうえでもっとも重要であり、なおかつ御記論を展開する意義となる点は、作品世界の設定である。そこでは、「天の神」によって人類が滅亡の危機に追い込まれた「神世紀」の世界が描かれており、「神樹様」の結界に護られた四国地方にのみ生存を許された人類が暮らしている。注目に値するのは、四国地方以外はすべて天の神の「天沼矛」によって灼熱の世界に塗り替えられ、生き残った人類は存在していないにもかかわらず、四国の自己認識は「日本」であり続けている点である。ナショナリティエスニシティなどはすでに無効化されてもおかしくない状況に追い詰められながら、「日本」は神世紀のもと300年を経過してなお残存する。このような「日本」的なるものにあくまでも拘る作品世界のあり様は極めて興味深いと言わなければならない。ゆゆゆ研究が意義あるものとなるのは、まさしくそこにおいてである。」

 

(寺末桑町「御記と天皇制の関係性と御記論の意義」『「御記」という問題 ―ゆゆゆにおける勇者御記の意味―』)

 

 

そして、何よりもそうした可能性を表現するのに適している概念が存在することを、読者諸氏は知っているだろう。前節で指摘した「方法としてのゆゆゆ」である。

 

「ゆゆゆというわたしたち(『自己』)とは異なるまったき『他者』の視座を通して、神世紀四国という空間を舞台に展開されたその歴史を読みなおし、現在の視座に基づいたゆゆゆ像を解体するとともに、そのような一連の『虚像』を可能にしたわたしたち自身を問いなおすような試み」であるそれは、さまざまな可能性に満ちている。

 

ゆゆゆという方法的視座に基づいた研究の営為はわたしたちを巻き込んで進められていくのであり、それはつねに現代的意義をもちながらゆゆゆを問いなおし続けていくだろう。ゆゆゆを読みなおしていく作業は、さまざまな読みなおし作業を連続的に要求していき、(現在の)わたしたち自身も問いなおされる。それはわたしたちを規定する時代状況や社会状況を含めて批判的に検討することであり、その(「現在」を問題にしているという意味での)現在性からみれば、絶えず「現代的意義」をもつことを想定できるはずだ。ゆゆゆ研究はゆゆゆを現在的=現代的に眼差すわたしたちの視座およびそれによって構成されたゆゆゆ像を絶えず「解体」=問いなおしていくものである。

 

こうした先にあるのは、まさしく竹内氏が「方法としてのアジア」を構想した際に見ていたような(「近代」などの)「可能性」だろう。具体的にいえば、現代社会およびその先の(未来)社会における「可能性」のことである。

 

もちろん、東洋による西洋の「方法」的「巻返し」に値するほどの試みを「方法としてのゆゆゆ」に求めるのは難しいだろうが、竹内氏という偉大な先達が「現代史に終始かかわり続けることを通じてわれわれに残した貴重な遺産というべき視座」=〈歴史への批判的な視座〉(子安前掲書)にならい、筆者なりに「可能性」を追求してみるのも(不遜ながら)悪くはないはずだ。

 

こうした視座を「虚構」の歴史の内に設定することの問題もあるだろうし、それも含めた理論的欠陥や実践の不十分もあるだろう(この点は前節で既に述べた)。ただ、わたしたちを巻き込んだ筆者の読みなおし=問いなおしの営為は、どうしても時代・社会・国家(現在=現代社会そのもの)を横断しつつそれらを批判的に眼差す試みにならざるを得ない。だからこそ、この試み(ゆゆゆ研究)は現在=現代およびその先(未来)における「可能性」を提示することができる。それは極めて迂遠な試みなのかもしれないが、そうした「可能性」それ自体を否定するものではない。

 

可能性という言葉をしばし濫用してしまったので改めてまとめておくと、一連の「可能性」というのは、基本的にゆゆゆ研究の「非個人的な意義」としての文字通りの可能性(「物事が実現できる、または、その状態になりうる見込みをもっていること」(「可能性」『日本国語大辞典』))を指す言葉である。本節冒頭に掲げた「日本」的なるものの問題に関する「可能性」は、そうした「可能性」の最たる例である。そして、前節で提唱した「方法としてのゆゆゆ」の「可能性」については、最後に挙げた「現代社会およびその先の(未来)社会における『可能性』」などの、実に多様な「可能性」たちによって構成されるものである。それらの総体=集合体として「方法としてのゆゆゆ」を把握すれば、「日本」的なるものにおけるそれなどとともに、いわば「大カテゴリー」としての「可能性」群を形成しているだろう(したがって、逆に「方法としてのゆゆゆ」を構成する「可能性」群などは、「小カテゴリー」としての「可能性」群と見なせる)。

 

ただ、とりわけ「現在=現代およびその先(未来)における『可能性』」においては、そうした分類は大した意味を為さない。なぜなら、それは「方法としてのゆゆゆ」における究極的目標を示すものであると同時に、「方法としてのゆゆゆ」それ自体も含めた一群の「大カテゴリー」としての「可能性」群全体の「可能性」をも指示しているからである。便宜的には「小カテゴリー」的位相にあるそれも、実際には「超カテゴリー」的位相のうえにあるわけだ。

 

非常に複雑な構成となってしまったが、ゆゆゆ研究はそのような一群の「可能性」をもつものなのである。そうした「可能性」たちの総体的表現を鑑みたとき、「ゆゆゆ研究という可能性」だと評することも不可能ではあるまい。

 

もちろん、実際に一連の「可能性」たちを提示することができるかどうかはわからない。だが、ゆゆゆ研究の提示する「可能性」たち―ゆゆゆ研究という可能性—とは、わたしたちに現在=現代および未来における確かなヒントを与えてくれるものなのではないだろうか。少なくとも筆者はそのように考えている。

 

 

バーテックスとの決戦に臨む讃州中学勇者部(1期5話・©2014 Project2H)

 

 

4、参考文献

「可能性」『日本国語大辞典

網野善彦『日本の歴史00 「日本」とは何か』(講談社学術文庫、2008年、初出2000年)

小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』(新曜社、2002年)

エドワード・ハレット・カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳、岩波新書、1962年、初出1961年)

桂島宣弘『思想史の十九世紀』(ぺりかん社、1999年)

桂島宣弘『思想史で読む史学概論』(文理閣、2019年)

子安宣邦『江戸思想史講義』(岩波現代文庫、2010年、初出1998年)

竹内好「方法としてのアジア」(『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年、初出1961年)

玉井建也「Chapter9 『歴史』をどこからみるか」(岡本健・田島悠来編『メディア・コンテンツ・スタディーズ』ナカニシヤ出版、2020年)

カール・マンハイムイデオロギーユートピア』(鈴木二郎訳、未来社、1968年、初出1929年)

山本昭宏『戦後民主主義』(中公新書、2021年)

吉田伸之『21世紀の「江戸」』(日本史リブレット、2004年)

 

5、画像引用元


筑摩書房「日本とアジア 竹内好著」(https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480081049/(2023年9月2日閲覧))

佐藤信淵像(模本)」(京都大学総合博物館所蔵)(https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00033908京都大学貴重資料デジタルアーカイブ、2023年9月2日閲覧))

五雲亭貞秀・貞秀「東都両国ばし夏景色(三都涼之図)」(藤慶、1859年)(部分)(https://dl.ndl.go.jp/pid/1307052/1/2国立国会図書館オンライン、2023年9月2日閲覧))

(※なお画像の引用に当たっては、一部改めた箇所がある)

結城友奈は勇者である -結城友奈の章-』5話・8話(2014 Project2H、2014年)

*1:

妄想や夢想などは(特定の時間・空間における)人間存在を離れて存在できない点において「時代的存在」・「社会的存在」であり、並行世界や異世界なども「世界」たる以上「時代的存在」・「社会的存在」である(そもそも「並行」や「異」という言葉の時点で、そこで想定されてしまう「本来的」な世界の時代的文脈・社会的文脈を無視できないという問題もある)。

*2:

なお、既に見たようなゆゆゆの虚構性に関する指摘を考えれば、「方法」の具体的内実において留保をつけておくべきことは述べておきたい。ゆゆゆは、当然アジアでも江戸=徳川日本でもない。さらに言えば、過去に実際に存在したものではなく、現代において虚構として存在しているに過ぎない。竹内氏・子安氏・桂島氏それぞれの分析対象はすべて本来的には「実体」であり、三者それぞれの「方法」をそのままゆゆゆに適用できないのは明白である。「方法」の実践に当たっては、いま一層の慎重な検討を要するだろう。