- 1、「御記」という言葉 ―日本列島史の中の「御記」―
- 2、補論 中世日本社会と御記 ―古代的体制の中世的再編とイエ・日記—
- 3、ゆゆゆにおける「勇者御記」
- 4、勇者御記という「検閲」 ―「閉ざされた言語空間」の「配給」―
- 5、なぜ大赦は勇者御記を必要としたのか? ―犠牲のシステム=「世界」システムという不可能性—
- 6、補論 「宗主」乃木園子というアポリア ―大赦=神樹体制から乃木園子体制への転換を考える―
- 7、末筆の反省その他
- 8、書いたみた感想
- 9、追記(2023年8月26日追記)
- 10、研究資料および参考文献
- 11、画像引用元
1、「御記」という言葉 ―日本列島史の中の「御記」―
・「御記」とは何か?
「御記」(ぎょき)。それは次のように定義される言葉である。
「貴人の書いた記録・日記類。ごき。」(デジタル大辞泉)
上記の定義を総合すれば、日本列島史上における天皇や上皇のような天皇家(王家)の人々や関白のような一部の公家の人々、つまり当時の「貴人」たちの書いた日記・記録の類のことを、「御記」と呼ぶとわかる。もちろん、御記という言葉は現在では一般的なものではない。
たとえば、Twitter(X)で御記と検索を掛けてみると、ツイート(ポスト)として出てくるのは『結城友奈は勇者である』以下、一連の「勇者である」シリーズ(以下、「ゆゆゆ」と呼称)に関係した用法(「勇者御記」および「御記」)27件(アカウント計19件)、個人によるWeb公開型日記の名称の一部33件(アカウント計1件)、日本列島史上の「御記」(実例)20件(アカウント計13件)、個人のアカウント名の一部4件(アカウント計1件)、個人によるWeb小説作品の名称の一部3件(アカウント計2件)、文脈不明のため分類不可のもの1件(アカウント計1件)となった。
(※集計範囲2023年7月1日~8月10日、集計日時2023年8月11日0時30分)
約1ヶ月程度の集計であり、しかも客観的手法を取っているわけでもないため、臆断は避けられない。しかし、ある程度の期間集計したにもかかわらず、総数は88件のみとなったうえ、そのほとんどは固有名詞に起因するものだった。当該期間内の膨大なツイート(ポスト)数全体を想定するならば、少なくともTwitter(X)において御記という言葉がごく限定されているという仮説を立てることができるだろう。
したがって安易な一般化は避ける必要があるとしても、Twitter(X)の例のように「御記」を一般的・日常的に使用しないことについては、大方の理解を得られると思われる。あるいは国立国会図書館オンライン(NDL ONLINE)を使用して同様に検索してみても、ほとんど日本列島史上の実例を指す用法であることに鑑みれば、それはある程度裏付けられるはずである。
・日本列島史の中の御記
そのように特殊的・非日常的な言葉である御記。しかし、日本列島史上の実例が頻出することから察せられる通り、昔―少なくとも古代・中世―の日本列島においては、実際に「御記」と銘打たれた日記類を数多く発見できる。以下、日本列島史上の御記について、その具体例や用法に注目しながら通史的に追ってみることにしたい。
まず御記のうち有名なものとしては、室町時代(中世)の伏見宮貞成(さだふさ)親王の日記『看聞御記(看聞日記)』や、平安時代(古代)の『宇多天皇宸記(寛平御記)』・『醍醐天皇宸記(延喜御記)』・『村上天皇宸記(天暦御記)』(あわせて「三代御記」と呼ばれる)などだろう。公家の日記としては、平安時代の公卿・藤原忠平の日記『貞信公記(貞信公御記)』、同じく平安時代の公卿だった藤原道長の日記(『御堂関白記(御堂殿御記)』)や藤原師輔の日記(『九暦(九条殿御記)』)のほか、鎌倉時代(中世)の公卿・近衛家実の日記『猪隈関白記(猪隈殿御記)』などを挙げられるが、いずれも一般的名称に比して人口に膾炙しているとは言い難い。
基本的に御記という言葉は、一部の公家を除けば天皇に関係する日記類の呼称として用いられているとみなすことができるだろう。天皇の日記を指す「宸記」(しんき)という言葉が「御記・御日記」の言い換えとして機能しており(「宸記」『国史大辞典』)*1、大正期に歴代天皇・皇后などの著作を所収した『列聖全集』には、「宸記集」というタイトルながら大半を「御記」が占めている(列聖全集刊行会編『列聖全集 上・下巻 宸記集』(列聖全集刊行会、1917年))ことは、そうした性格を端的に示しているはずだ*2*3*4*5。近世の天皇の宸記が存在しているにもかかわらず(「宸記」『国史大辞典』)、それが御記とは呼ばれないことは、おそらく中世から近世の間に御記という言葉に対する位置づけの変化が起こっていることを示唆している。
以上の補記をまとめると、古代・中世では主に天皇およびそれに関係する人々=「貴人」の日記・記録類を、近世では(柳原家という例外を除き)親王のそれを御記と呼んだと推測できる。
そして、近代(明治時代~昭和戦前期)・現代(昭和戦後期~平成・令和期)についてもみておく必要があるだろう。前者の近代日本社会では、近代国家の形成と並行しながら、人々が天皇を神聖な存在とみなして崇敬する「神聖天皇」の観念が広く共有されていった(島薗進『神聖天皇のゆくえ』(筑摩書房、2019年))*6。また後者の「戦後」日本社会でも、新たに生じた「象徴天皇」と旧来の「神聖天皇」との間の相克が続けられていた(いる)と言われる(島薗前掲書)。いずれにせよ近代・現代の日本列島においては、天皇という存在が極めて重要視されており、それは当然に歴代の天皇に対する重視にも繋がることになる。
国立国会図書館サーチ(https://iss.ndl.go.jp/)を調べた限りでは、前者の場合、(神武天皇と媛蹈鞴五十鈴媛皇后を祀る橿原神宮の関係者が出版し、奥野陣七という人物が編集した)『神武天皇御記』という文献のほか、既出の『列聖全集』のように史料集や研究書において、既に見た『看聞日記』などの古代・中世の天皇に関する御記たち*7が取り上げられている場合が多かった。後者の場合は主に研究論文などが使用しており、学術的性格は強いのだが、前者同様に天皇関係の史料(名)としての御記呼称が多用されていたように思われた。全体を通してみれば、御記に対する注目は多分に歴代の天皇に関係するなかで起こってきたものなのだろう。そして前者の近代日本社会については、特に神聖天皇観念との関わりが濃厚だったはずだ。
ただ、当時の天皇以下に使用されている例は少なく、国立公文書館アジア歴史資料センターのデータベース(https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/default)を検索してみると、明治天皇に関する史書(『明治天皇紀』)の尊称として(『明治天皇御記』ではなく)『明治天皇御紀』と呼称されたことは伺えるものの*8、大正天皇や昭和天皇の場合はそうではないようであり、どちらかといえば近世以前の日記類をそう読んだとみられる。
明治期以降の列島社会では、天皇の社会的存在感の急速な増大にもかかわらず、御記はもはや通用する言葉ではなく、昔の呼称として存在したことを辛うじて記憶されている程度になっていたのだろう。近世の親王御記や柳原家の例外を考えれば、既に近世の時点では相当に古さを帯びた言葉と化していたことも想定できる。いわば過去の回顧や過去の表象として御記呼称が存在したのであり、近世・近代における(社会的広がりをもたない)「復古」的現象だったともいえる。
したがって、(しっかりとした検証をしたわけではなく信憑性のある話ではないのだが)近代・現代の御記のあり方については、一見すると神聖天皇観念の影響を受けながら、過去の歴代天皇やそれに関係する人々の日記・記録類が一括してそう呼ばれていた印象を受ける。歴代天皇に関係していたがゆえに、御記という呼称は(主に史料名に即して、という形ではあるものの)継続されていき、ある種体制化・固定化の様相を呈していく。神聖天皇との関係をもとに権威化の作用を受けながら、過去の御記は御記として呼ばれ続け、しかし過去のものだからこそ御記という言葉自体が次第に忘却されていったのだろう。現代社会における御記の状況については、冒頭に見たTwitter(X)の例が端的に示唆している。いまや特殊的・非日常的な言葉となってしまった事態もうなずけることである。
・御記呼称の問題点
だが、ここまでの議論には大きな欠陥が存在する。それは、そもそも御記という呼称は当時の呼称なのか、ということである。
既に出た『看聞日記(看聞御記)』を例にして以下に考えてみよう。
いまふたたび書陵部所蔵資料目録・画像公開システム(https://shoryobu.kunaicho.go.jp/)に登場してもらい、「看聞日記 御筆」と検索すると、宮内庁書陵部所蔵の「貞成親王御筆」の「原本」は、確かに「署名」を(「看聞御記」ではなく)「看聞日記」としていることがわかる。横井清氏によれば、「看聞御記」の呼称は「続群書類従完成会発行の刊本(上下二巻)の普及により一般的に流布」してきたものであり、「貞成=後崇光院の格段の立場に特別の配慮を加えた書名であるのは明白」だという(横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年、初出1979年))。
「続群書類従完成会発行の刊本(上下二巻)」とあるのは、国立国会図書館サーチ(https://iss.ndl.go.jp/)を用いて「群書類従 看聞御記」と検索すると出てくる、続群書類従完成会編『続群書類従 第33輯 補遺 第3 看聞御記 上』(続群書類従完成会、1930年)および続群書類従完成会編『続群書類従 第33輯 補遺 第4 看聞御記 下』(続群書類従完成会、1930年)だと推測される。いくつかの異同があり確定はできないが、1920年代後半に続群書類従完成会から『続群書類従』シリーズの一部として上下巻の構成で発行されたという事実は認めてもよいだろう。
その「普及により一般的に流布」したかどうかは確定できないが、国立国会図書館サーチ(https://iss.ndl.go.jp/)曰く、「看聞日記」の検索結果は505件・「看聞御記」の検索結果は333件となり、国立国会図書館デジタルコレクション(https://ndlonline.ndl.go.jp/)曰く、「看聞日記」の検索結果は155件・「看聞御記」の検索結果は65件となった(※2023年8月12日22時20分時点)。現状、そもそも看聞日記と看聞御記の使用頻度について、確定的なことは何も言えないというのが現状だろう。
またNDL Ngram Viewer(https://lab.ndl.go.jp/ngramviewer/)を用いて「看聞日記」の使用頻度を検索してみると、以下の通りの結果が出た(※2023年8月12日22時20分時点)。
横井氏の指摘を看聞御記ではなく看聞日記のものにすり替えたとすれば、1932年(1731件)・1933年(1887件)というのも納得いくかもしれないが、とはいえあまりにも異常な多さである。国立国会図書館サーチ(https://iss.ndl.go.jp/)を使い、「看聞日記」で検索をかけて両年を出版年とする文献を探してみたところ、1932年に和装本の『看聞日記 乾坤』(宮内庁図書寮、1932年)シリーズが大量に出されていることがわかったので、もしかするとその影響かもしれない。
残念ながら横井氏の議論のうち、その前半部分については必ずしも正しいとは言い切れないようである。
閑話休題。
横井氏の指摘のうち、もっとも重要なのは「貞成=後崇光院の格段の立場に特別の配慮を加えた書名であるのは明白」だとした方である。
これは十分に納得できることであり、原本に付されていない名称を書名とするのは慎重な検討を要するうえ、後世の価値づけをそのままに鵜呑みするような行為は安易に過ぎるだろう(もちろん、当時の価値観の反映も注意すべきである)。「いざ、いずれの名称を採用するかは日本史研究者として大切な事柄」だと述べる横井氏の姿勢(横井前掲書)は、心にとめておきたい。
そしてこれまで筆者の追ってきた御記たちも、一度立ち止まって考えれば本当に執筆当時の価値観を反映したものかどうか、疑念を抱かざるを得ないのは当然である。御記だ御記だとあまりにも拙速に認定してきたが、その通史的検討は果たして有効だったのだろうか。いや、無効だろう。
・御記と天皇制の関係性と御記論の意義
しかし本コラムは「御記」に関する議論である以上、(今回の大失敗自体、それはそれとして反省せねばならないとしても)話を先に進めなければどうしようもない(あるいは私情だとしても、私の書いた5000字が無意味に終わるのは避けたいということもある)。
それでは、重大な欠陥を抱えてもなお御記を論ずるとすれば、何が有効な箇所として残っているだろうか。
おそらく、それは御記の執筆主体に関する検討だろう。前近代の史料残存状況が史料保有者の社会的立場に大きく左右されるとはいえ、(御記という名称に象徴される通り)御記の「御」の字が「明らかに「記」(日記・記録)および「記」主体に対する尊敬の念を表現して」いることは間違いない。さらにいえば、「貴人」にせよ親王にせよ、御記と名指される日記・記録類の大多数は日本列島社会の上層階級—もっといえば、天皇制とそれを支える構造—によって担われているわけである。
「御」とは、天皇制より発する権威と権力を指すと臆断してもよいだろう。
天皇制を肯定するにせよ否定するにせよ(あるいは無関心を貫くにせよ)、天皇という日本列島特有のこのシステムは日本列島史にとってマジックワードと化しているが、そのマジックワードをマジックワードだと認識ししっかりと直視することこそ、日本列島史および日本列島社会を正しくとらえる営為だとは言えないだろうか。つまるところ、御記を問うこととは、(少なくとも一面では)天皇制を問うことであり、日本列島史および日本列島社会を問うことなのではないだろうか。
ここにおいて、本稿の御記論はようやく論ずべき意義を手にした。御記論は天皇制や日本列島のパースペクティブのなかで把握されなければならないのである。
これまで一切言及して来なかったが、現代社会における御記使用において「ゆゆゆ」の占める割合が非常に大きいと思われることは、冒頭に確認したTwitter(X)の使用状況を見る限り、一定の妥当性をもつだろう。本コラムは現代社会の言説分析をおこなうものではないが、作品内部の言説分析を現代社会のそれへと活かす余地はないわけではない。だが、それは御記論の本旨ではない。
ゆゆゆの御記使用を考えるうえでもっとも重要であり、なおかつ御記論を展開する意義となる点は、作品世界の設定である*9。そこでは、「天の神」によって人類が滅亡の危機に追い込まれた「神世紀」の世界が描かれており、「神樹様」の結界に護られた四国地方にのみ生存を許された人類が暮らしている。注目に値するのは、四国地方以外はすべて天の神の「天沼矛」によって灼熱の世界に塗り替えられ、生き残った人類は存在していないにもかかわらず、四国の自己認識は「日本」であり続けている点である。ナショナリティやエスニシティなどはすでに無効化されてもおかしくない状況に追い詰められながら、「日本」は神世紀のもと300年を経過してなお残存する。このような「日本」的なるものにあくまでも拘る作品世界のあり様は極めて興味深いと言わなければならない。ゆゆゆ研究が意義あるものとなるのは、まさしくそこにおいてである。
ゆゆゆにおける御記を追求することは、「日本」的なるものを問うことに繋がる。天皇制や日本列島についても、また然りである。
・御記言説の政治性
なお、これ以外にも御記については重要な視座が存在する。
網野善彦氏の以下の言葉はその視座を端的に示す、極めて重要な指摘である。長くなるが引用しよう。
「そして、現代にいたるまでの天皇の存続というこの事実を、歯がみをする無念さをもって認めることなしには、「日本民族」 といわれてきたわれわれ日本人の集団が、実態はいかに薄っぺらな結びつきしかもってこなかったかを自覚することは不可能であるし、戦死者に対する鎮魂を、いまなお靖国神社に対する「参拝」の形で行事化するような動き、天皇の死を「没」 あるいは「なくなる」といわせるような教科書検定の横行を本当に意味で克服することはできないであろう。それとともに、『看聞日記』をそれが歴史的名辞であるとして『看聞御記』としてしまう迂闊さ――あえていえば鈍感さを払拭することもできないと思う。かくいう私自身、佐藤進一の厳しい指摘によってこのことにはじめて思いいたったのであり、『花園天皇日記』を『花園天皇宸記』と記したことのあるのを、深く恥じている。この鈍感きを持ちつづけるならば、それが歴史的用語であることを理由に、天皇の「没」をさらに「崩御」にかえさせる動きに、真に抵抗することはできないと私は考える。
もとより、侵略を「進出」にかえさせる検定をともかくも許してしまったことにも、さきの「日本民族」の底の浅さからくる恥知らずな一面が端的に現われているので、もしも、さきの事実の持つ苦渋を本当に呑みこむ決意を固めることがおくれるならば、われわれは何度でも世界の諸民族の人々から「恥知らず」といわれることは疑いない、と私は思う。」
網野氏の政治的立場や御記を御記と呼ぶこと自体の当否などは脇においても*10、「歴史的名辞である」云々を理由に「御記」と呼んでしまう「迂闊さ」・「鈍感さ」に関する指摘は重く受け止める必要があるはずだ。
たとえば天皇制にせよ何にせよイデオロギー(的なもの)の価値づけを離れて言説は存在し得ない。そうした一種の政治性の認識なくして、適切な議論は不可能なのではないだろうか。言い換えれば、言説の政治性を忘却した議論は決して有効なものとはならないように思われるのである。すなわち、その言葉を使うべきか否かという党派的問題は、この議論に限定すれば一切関知するところではなく、あくまでも政治性を忘れた「迂闊さ」・「鈍感さ」が問題なのだ。
したがって踏み込んだ言い方をすれば、御記を問うことはそうした迂闊・鈍感の隘路に陥らずに政治性を剔抉する営為の一端を担ってもいる、といえるだろう。
天皇制や日本列島のパースペクティブのみならず、言説の政治性の観点からも御記は把握する必要があるはずだ。なぜなら「日本」的なるものに拘るゆゆゆの性格は、その(広義の)政治性ゆえに研究の意義に転化できるものだからである。以下、前者のパースペクティブを重視しながら論じていくが、御記言説の政治性も射程に入れていきたい。
御記とは政治的なものである。その政治性はゆゆゆという作品世界全体におよぶ政治性なのであり、だからこそ、それを論じることには意味がある。具体的に言えば、勇者御記を手掛かりにしながら、その再検討を通して御記を大赦の検閲や引いては神世紀の四国という作品世界そのものとの関わりのなかで論じたい。
また、本コラムは天皇制や日本列島のパースペクティブを重視するとは言ったが、神世紀の四国は「日本」的なるものを色濃く残した空間だとしても、それらそのものではない。虚構のなかのそれなのである。ゆえに、本コラムは「天皇制や日本列島のパースペクティブを重視する」ということを、(虚構のなかの「日本」的なるものとしての)神世紀の四国のパースペクティブを重視すると捉え返して論じていきたい。言い訳がましい言い草だが、本コラムを最後まで読めば、元来のパースペクティブそのものに比肩する試みが御記を中心にして展開されていくことを理解できるだろう。最終的にそれは「日本」的なるものへと回帰していくことになるはずである。
2、補論 中世日本社会と御記 ―古代的体制の中世的再編とイエ・日記—
(※本「補論」は、本コラム全体の議論には影響するものではありませんので、読み飛ばして頂いても構いません。)
・中世日本社会における御記
御記という名称が後世の価値づけを反映したものだということは既に述べたが、御記と呼ばれる日記・記録類の出現頻度を見ていくと、「三代御記」や『看聞日記』はともかく、古代末期から中世前期にかけての時期がもっとも多いのである。このことは中世日本社会のあり方と深くかかわっており、御記を論じるうえでも不可欠の社会背景とみなせるのだが、本コラムはもはや現実の日本列島を離れて虚構の日本列島(の一部)へと検討の対象を移していくため、詳しく追及することができない。しかし一定の責任として論じておくべき内容であることから、ここに述べておくこととした。
まず御記とは基本的に日記の一種として見てよいだろう。三代御記も看聞日記もそうだが、前節でみてきた御記はすべて日記に分類できるものだった。だが、日記それ自体は普遍的なものであり、人々は古代から現在にいたるまでさまざまに日記をつけてきた。時代を経るごとに史料は量的に拡大していくのが常であるから、日記もまた同様に増えていくことになる。しかし御記と呼ばれることはないにせよ、書いた日記を重視することはあまりない。現代社会も日記を習慣的につける人々は多いが、書いた日記はあくまで私的なものに過ぎないし、社会的価値のある内容が書いてでもない限り、他人の日記に価値を認めることはない。
しかし、古代末期から中世前期にかけての時期の場合はそうではない。日記をつけるのみならず、つけた日記を持っていることがそのまま社会的な力となりえる事態が存在していた(松薗斉「日記」(『日本中世史研究事典』東京堂出版、1995年))。もちろん、当時の社会全体の話ではなく、貴族社会という限定された空間の出来事ではある。だが、「貴人」の日記類を御記と呼んだ中世の御記の特徴を思い返せば、貴族社会における日記とは、まさしく御記にほかならないことを知るべきである。だからこそ、その異様な事態の仔細を調べることが御記の御記たるゆえんの解明につながると言える。
話が逸れたが、当時の貴族社会では日記の執筆と保持が社会的な力となったことは既に述べた。そこでは「先例」が極端に重視されており、一般の貴族たちは日記をつけておき、それらをいざという時に先例として提供することが当時の天皇や権門への奉公一手段と見なされていたのである。一人前の貴族として扱われるためには、「日記を何十年にもわたってつけるだけでなく、何代にもわたって集積し、その保管に常に神経を使い、時には他人の日記を手に入れるために、人と摩擦を生じることも辞さな」いことが求められた(松薗前掲書)。
それほどまでに日記が大事にされた理由としては、日記それ自体が当時成立しつつあった貴族たちの中世的なイエと密接な関係を持っていたからだといわれ、日記がイエを構成する要素のひとつだと考えられていた可能性も指摘されている(松薗前掲書)
ここで「イエ」と何度か耳慣れぬ言葉を使ったが、これは「中世的な家」とも呼ばれるものであり、単純に「親子によって構成される日常生活の単位」を指すわけではない。中世日本社会の場合、そこからさらに「家独自の財産を所有・管理し、政治的な地位や職掌も家ごとに決まってくるようになり」、それらが「父から子へと継承されていく」ようになっていた。こうした特徴をもった家は単なる家族とは区別されるべきものだから、「イエ」あるいは「中世的な家」と呼称されるのである(高橋典幸「中世史総論」(高橋典幸・五味文彦編『中世史講義』ちくま新書、2019年))。
天皇の地位を継承する「天皇家」や摂政・関白の地位を継承する「摂関家」のみならず、貴族社会一般においてもイエの形成が進んでいき、政治的地位・職掌と深く関わりながら「家格」・「家職」が成立していった。そして、被差別民のような重要な例外はあったが、武士も農民もそうしたイエを次第に形成していった(高橋前掲書)。
貴族社会のイエにとってその政治的地位・職掌が極めて重要である以上、日記(およびその執筆と保持)もまた、円滑な職務遂行を考えれば最大限重視されただろう。当然、イエとも結びついて考えられたはずである。日記の価値は何よりも役職・職務の観点から認められるものだったと言えよう。
これと関わって重要なのは「職(しき)」である。
中世日本社会では、世襲される役職を指し「果たすべき役割と、得分という収入が付い」た「職(所職)」が社会の構成要素として重要だったが(伊藤俊一『荘園』(中公新書、2021年))、こうした役職の家産化の傾向は、社会全体の基調をなすものだった。
・古代的体制の中世的再編とイエ・日記
こうした変化が起こったのはまさしく古代末期から中世前期にかけての時期であり、変化に直面した社会は、それまでの古代的体制(律令国家システム)では対応しきれずに「中世的再編」を遂げていく。貴族社会が構成していた朝廷も、この動きとは無関係ではいられなかった。
佐藤進一氏はこの時期の朝廷の官職機構に注目して「官司請負制」という概念を提唱している。佐藤氏によれば、その特質は以下の3点があるという。
①律令官僚制に見られた太政官を頂点とした大小官司の統属関係が解体され、その結果分離独立した個々の官司は、あるいは官司それ自体で、あるいは他官司に結びついて、それぞれ完結的な業務を行うようになること。
②官司の職務の遂行=業務活動とその運営を支えるための収益とが直接かつ不可分に結び合わされること。また官職それ自体に一定の収益の内包される性格が中世の「職」の原型となったこと。
③特定氏族(家)による官司の請負。
(佐藤進一『日本の中世国家』(岩波現代文庫、2007年、初出1983年))
なかなか難解だが、ここでは役職の家産化の動向が朝廷の官司において(むしろ先駆的に)みられたことを確認するのみでよい。
そのように朝廷の官職が特定のイエと結びついていく傾向が進むとどうなるか。当然、朝廷そのものが「イエの複合体」としての性格を強めてくる。古代以来の律令制に基づく官僚制機構は整理・縮小が進む一方、貴族のイエに代替されるようになるのである(高橋前掲書)。
ただし佐藤氏の図式については現在では修正の必要のある見方であり、一連の朝廷における「中世的再編」の動向は、「①太政官を頂点とする支配の統属関係の解体と、個々の官司や役職における業務の完結化」・「②官司や役職の「職」化」・「③地下官人による文書関係実務の独占的請負」と再整理すべきとされている。いずれにせよ、ここにおいて中世的体制が成立を見たわけである(本郷恵子「院政論」(『岩波講座日本歴史 中世1』岩波書店、2013年))。
律令国家システムが破綻を来たしていくなかで、古代的体制は中世的再編を遂げた。官職が家産化する日本中世社会の形成とともに、貴族社会はイエの維持・経営を目的として役職・職務遂行上不可欠となる日記を求め始めていく。そうしたなかで、同じ職務の経験者だった父祖の記録が「もっとも有効な参考書」になるのは当然であり、父祖の職務記録は「家記」・「家の文書」として蓄積され、「かつてはこのようにした」という「先例」・「家の例」は一つの権威となり得たのである(遠藤珠紀「朝廷の政治と文化」(高橋典幸・五味文彦編『中世史講義』ちくま新書、2019年))。
つまり、古代末期から中世前期にかけての時期に集中した日記(あるいは御記と呼ばれる日記)は、そうした社会状況をよく反映していたのだろう。御記という呼称が生まれたのも、これと無縁ではないはずだ。イエの維持・経営に役立つ日記は「御」と称したくもなるし、結果としてその執筆主体を権威化・神聖化する方向に向かってもおかしくはない。
(中世日本社会をどのように捉えるべきかについてはさまざまな意見があろうが*11)黒田俊雄氏の権門体制論的な見方に従うと、天皇・朝廷を中心とした公家・寺家・武家以下の複数権門の競合対立と相互補完のうえに日本の中世国家は成立していたわけであり(黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『日本中世の国家と宗教』岩波書店、1975年、初出1963年))、飛躍すればそれは多分に天皇制の規定する要素を色濃く残したことを示唆するものである。御記呼称は、まず過去においてイエに有益な日記を残した個人を顕彰する試みだと把握できるが、それはまた天皇制の重力圏のうちにその個人を、またイエを取り込んでいくものでもあっただろう。
・『看聞日記』をめぐる御記とイエ
最後になるが、室町時代の『看聞日記』の事例を見ながら、御記呼称と中世的再編期の関係性について論じておきたい。
そもそも『看聞日記』を書いた伏見宮貞成親王は、中世的再編期に比すべきほどの動乱の時代—南北朝の動乱—をその背景に抱え込んだ人物である。
その南北朝の動乱とは、建武政権に叛旗を翻した(後に光厳上皇の院宣=正当性を得る)足利尊氏と後醍醐天皇の「内乱」に端を発するものであり、以降、軍事的勝利を得た尊氏方が擁立した「北朝」と、敗北して和睦を余儀なくされた後醍醐の吉野出奔によって成立した「南朝」との間に繰り広げられる戦乱を指すものである。
基本的に後醍醐死後の南朝方は完全に「頽勢」と言って差し支えなく、北朝方の優位は確定的だったが、南北朝の動乱も収束しかかった14世紀半ばには形勢が変化し始める。それは足利直義と高師直および足利尊氏・義詮らの間に争われた観応の擾乱が勃発したからであった。このため動乱はふたたび活発化し、南北朝=北朝・南朝の対立に新たに足利直義・直冬(尊氏庶子かつ直義養子)の勢力を加えた三者が離合集散を繰り返す事態に陥る。
こうした最中に起きたのが、北朝方だった尊氏・義詮父子の南朝方への降伏である。いわば「南朝を戦略上の選択肢として用いる」措置だったが、結果として北朝は南朝に吸収された(正平の一統)。もちろん、こうした状態は長続きせずに終わり、挙句の果てに、南朝方が京都を攻撃して光厳上皇・光明上皇・崇光上皇以下を連れ去るに至った。破断した以上北朝方に戻らざるを得ないが、肝心の天皇を擁立できない。そうした事態に追い込まれた義詮は、異例の手続きを踏んで崇光の弟・後光厳天皇を擁立せざるを得なかったのである(佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965年)・新田一郎『太平記の時代』(講談社学術文庫、2009年、初出2001年))。
だが、当時の天皇をめぐる「正統」観念に従えば*12、後光厳ならずとも後に「伏見宮家」(栄仁親王→貞成親王)と呼ばれることになる崇光系が存在しており、北朝の「嫡流」を主張できる立場にあった。本来ならば擁立されてもおかしくなかったのである(横井前掲書)。しかしその後光厳の後、後円融天皇→後小松天皇→称光天皇と天皇位は後光厳系が続いた。崇光系は皇位の放棄を余儀なくされたうえ、後光厳系に圧され「不遇」を託つ日々を送らざるを得なかった。
前置きがあまりにも長くなったが「伏見宮」貞成親王とは、そのような前半生を送った人物だったわけである。さらに言えば、『日記』を書きはじめた頃も「不遇」の状況は続いていたほどだった(横井前掲書)。つまるところ、南北朝の動乱にその運命を左右されたと言っても過言ではないだろう。
その後、偶然にも称光天皇に男子なく後光厳系が断絶したため、崇光のひ孫・後花園天皇が即位し後花園の父・貞成は太上天皇となる。そして、最終的には崇光系が「正統」として確定されるまでに至るのだから、つくづくわからない人生である(河内祥輔『中世の天皇観』(日本史リブレット、2003年)))。ともあれ、動乱とともに生きたということは間違いない。
こうした一連の経緯を見たとき、「不遇」の渦中に書きはじめられた貞成の『日記』が崇光系というイエを反映するものだと見なせなくもない。だが、日記がイエと深く関わっていたとしても、あくまでも貞成という「人間」が色濃く反映されたものだとみなした方が適切なように思われる(横井前掲書参照)。激動の時代を生きた貞成は、激動の時代とその最中にある自己を日記に記したが、もはや中世的再編の頃のような類の質的変貌があったわけではない。少なくともイエの存続のために貴族社会全体が必要に迫られて日記を書くような時代は、既に終わっていたように思われる。
おそらく『看聞日記』の御記呼称とは、「三代御記」などと同様に天皇・親王らに対する尊敬の念の表現として採用されたものだろう。やはり中世的再編の時期に特有の現象として、御記たちの族生を見るべきなのである*13。
3、ゆゆゆにおける「勇者御記」
・「勇者御記」とは何か?
さて、本コラムはようやく本題に入ることができる。本節ではまず、ゆゆゆの御記—正確に言えば「勇者御記」—を具体的に見ていこう。
管見の限り、ゆゆゆにおいて勇者御記が登場するのは、テレビアニメ2期『結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章/勇者の章-』と3期『結城友奈は勇者である -大満開の章-』、および小説『鷲尾須美は勇者である』・『乃木若葉は勇者である』上・下においてである。『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』・『結城友奈は勇者である -大満開の章- ビジュアルファンブック』の内容も踏まえながらそれらの情報を総合すると、以下のようになる。
①勇者御記とは、勇者のつけた日記のことである。
②勇者御記は、3冊存在している。
1冊目の『勇者御記』は、西暦2010年代後半に勇者として天の神の遣わした敵と戦った少女たち(乃木若葉・高嶋友奈・郡千景・伊予島杏・土居球子)の5人(いわゆる「西暦の時代」・「旧世紀」の勇者。乃木若葉以外は全員戦死した。以下、「西暦勇者」と呼称)を書き手とし、それぞれの名前を冠して「○○○○記」と名付けられている。書き手の視点は常に執筆時点における「現在」に置かれており、勇者としての日々を記録している。各「記」を総合して1冊の御記を構成しているようだが、『乃木若葉は勇者である』では具体的描写が不足しているため、判断がつかない。ただし、『勇者御記』「原本」の内容を見る限りは後世の編纂によって総合されたものとみるのが妥当だろう*14。
2冊目の『勇者御記』は、神世紀298年に勇者として戦った神樹館(小学校)・乃木園子を書き手とする(いわゆる「先代勇者」。以下、そのように呼称)。西暦勇者のそれとは異なり、ともに戦った鷲尾須美(勇者としてのバーテックスとの戦闘任務=「お役目」の最中に記憶を供物に捧げて力を得たため鷲尾須美時代の記憶を喪失した。のち東郷美森としてふたたび登場して勇者となる)・三ノ輪銀(「お役目」の最中に戦死し「英霊」となる)の両名は日記を書いてはいない。書き手の視点は執筆時点に限定されず、むしろ「お役目」終了後の園子の視点を基本としている。執筆当時における「現在」に―つまり日記本来の書き方のように―書かれている箇所を探すのが難しい。日記というよりも日記形式をとった「お役目」回想記と見なした方がよい。
3冊目の『勇者御記』は、神世紀300年に勇者として戦った讃州中学勇者部のひとり・結城友奈を書き手とする。『結城友奈の章』における戦いが終わった後、天の神による呪い(「タタリ」)に苦しみ始めた彼女は、以下の大赦の指示に従って日記すなわち勇者御記をつけ始めた。
「年末に大赦の人達が私の変化に気づいて家にやってきた。事情は神託や研究を交えて知ったので、神聖な記録として残したいからこの本に日記をつけてほしいと...。」
(『勇者御記』・「はじめに」)
大半の内容はタタリに苦しむ彼女の日々が綴られており、作中(『勇者の章』)では東郷美森によって発見され、様子のおかしい彼女を不審に思った(彼女を除く)勇者部メンバー(犬吠埼風・犬吠埼樹・東郷美森・三好夏凛。『勇者の章』以降は乃木園子も加入しており、今回も居合わせている)が彼女の事情を知る重要な手がかりとなった。書き手の視点については、完全に執筆時点の「現在」にある。ただ、寿命が短いことを悟った彼女が神樹の寿命を延ばすための「神婚」(結婚)を決断するため、御記執筆の余裕もなく記述は途中で止まっていることには留意が必要である(少なくともこの時点で日記としての御記の性格は失われている)。
その後は『大満開の章』の最後まで書かれる機会がなく、最終決戦を終えた彼女が「勇者部六箇条」と「結城友奈は勇者である」との文言を記して御記自体を終えることが示唆されているに過ぎない。それは西暦最末期以来の神世紀300年間の勇者の戦いのエピローグ(最終決戦の勝利以後)の象徴として挿入されており、先に引用した箇所が日記冒頭の「はじめに」であることを考えれば、「おわりに」に当たるものである。そういう意味では、ほかの御記と比べると記述が「お役目」全体まで貫徹されていないこの御記も、決して未完成のものだとはいえない。
③勇者御記は大赦の検閲を受けている。
3冊の勇者御記はすべて「大赦書史部・巫女様」による検閲を受けたことを示す「検閲済」の朱印(赤いハンコ)が押されており、「大赦にとって都合の悪いところ」のある箇所には、黒塗り・白塗り・赤塗りの措置を施される。特に「郡千景記」については、大赦の郡千景に関する全記録抹消方針によってすべて黒塗り(白塗り)の措置を受け、読める箇所は存在していない。
④勇者御記は「戦いの記録を記し、未来の勇者へ託す」ものである。
勇者御記は勇者としての戦いを記録するものであるとともに、未来の勇者たちに託すことを想定して書かれたものである。それは「勇気のバトン」であり「未来へのバトン」である。御記は過去の勇者たちの様子を伝えることを通して、未来の勇者たちに彼女たちの思いを受け継ぐこと―「精神的継承」—を期待しているということができる。
以上が筆者の考察も交えた「勇者御記」の概要である。
・勇者御記にまつわる問題点
本節のひとまずの役割は一連の御記たちの概説のみであり、これ以上論じることもないのだが、以降の議論と関わって重要な点について述べておこう。それは御記が公的なものであるかそうでないかという点であり、御記はなぜ御記と呼ばれるのかという点である。
これらの問いについては、西暦勇者の御記を考えるのが一番わかりやすい。西暦勇者の御記はその最後の生き残りとなった乃木若葉の手によって保管され、「乃木家に伝わる300年前のもの」という3期5話の乃木園子の言葉に示されているように、若葉以降の乃木家に代々伝来していったことがうかがえる。その若葉に関しては、「隠して残そうとした」ものの大赦によって「結局は見つかって検閲され」たと言われており(『乃木若葉は勇者である』下・「託されたバトン」)、彼女自身は秘匿を企図したようである。
そのように聞くと、勇者御記とは勇者による日記なのだから本来は個人の私的な日記に過ぎないという見方もできるだろう。しかし、それはありえない。なぜならその「勇者御記」は私的性格とは無縁の「勇者御記」という呼称を有し、編纂物としての性格をもつからである。日本列島史における『看聞御記』の例に明らかなように、御記が最初から御記であることは稀である。しかし勇者御記の場合、「御記」という名称が既に与えられている。これはつまり、極めて強い政治性を帯びたものとして御記が用意されていることを示唆する。確かに、それは「私たちの戦いの記録を記し、未来の勇者へ託す」ものであり(3期5話の乃木若葉)、「記録を伝えようとしてこれを書いた」(3期5話の三好夏凛)のだとしても、それはその目的ゆえにではなく、御記という名称と何よりも編纂物だという事実によって、その政治性を暴露していると言わなければならない。
さらにいえば、それは大赦によって「与えられた」ものだということも意味している。勇者御記の「御」とは、勇者の日記・記録類に対してその記録者を最大限尊重・尊敬してつけられるものである。西暦勇者は自らをそのように自尊して「御」とつけたのだろうか。いや、そうではあるまい。少なくとも戦いの終わった後まで無力感・敗北感を持ち続けた乃木若葉に関して言えば、自尊に至る思考回路を想定できない(おそらくそれは他の西暦勇者たちにしても同様のように思われる)。だからこそ、御記が編纂物であることも相まって、はじめから勇者たちと関係する大赦の関与が疑われるのである。
もちろん、日記の書き手は勇者である。それは間違いない。だが、その日記を、「勇者御記」という日記を与えたのは、大赦だろう。結城友奈の御記は何あろう大赦が与えたものだったのだから、それは確定的だと言ってもよい。先代勇者を務めた頃(以下、「先代勇者時代」と呼称)の乃木園子もそうであるはずだ。勇者御記は御記という強い政治性を帯びた名前をもつ以上、大赦に与えられたものでなくてはならない。あるいはたび重なる「検閲」の事実を以て、そのように言うことも可能である*15。
ただし、その与えられ方についてはそれぞれまったく異なった経緯を想定できる。
まず西暦勇者の御記は、「○○○○記」という西暦勇者各個人に与えられた「原・御記」と称すべき日記があったはずである。それがもとから書いていた日記を転用したのか、あるいは大赦によって与えられたものなのかは不明だが、いずれにせよ大赦によって個人の日記だったはずのそれらは(少なくとも勇者御記編纂開始以前に)「御記」化されている。つまり、日記の脱個人化=公的性格付与の過程がどこかのタイミングで差し挟まっているのだ。そして、「原・御記」が御記を構成する「○○○○記」として扱われながら、ひとつの「勇者御記」が生成される。
以降は、若葉によっていったん秘匿の試みがなされるが、大赦の検閲を受けざるを得なくなり、御記は複数回にわたる検閲を受けることになる。御記という形式を与えたのは大赦なのだから、この検閲の事実だけを見て御記の私的性格を指摘することはできない。これは御記の御記たるゆえん、つまりその政治性が、検閲という行為を通して明らかになっただけである。
これ以降の御記がなぜか大赦ではなく乃木家という家に伝来するという重大な問題点はあるのだが、乃木家そのものが大赦を構成する有力な一族であることを踏まえれば、それは矛盾ではない。それが乃木家という家に伝来しようが大赦の直接管理下にあろうが、公的なものであることは変わらない。大赦施設内部などにあった方が安全だとしても、乃木若葉以来の乃木家はもう十分に大赦の「内部」である。大赦が公認したのか黙認したのかはわからないが、複数回の検閲の事実を見れば乃木家という家に預けることは認めるが、御記の政治性が不変である以上、その公的性格は否定しないのだ。だから検閲が必要だと大赦が考えれば、御記は没収され検閲の憂き目に遭う。それは、決して私的日記などではない。公的なそれである。
乃木園子の御記については、その所在すら明らかになっていないので何とも言えないが、「お役目」終了後かその前後の時点で大赦が書かせたものである可能性は高い。現物の描写がない以上、検閲の事実と御記という名称しか根拠がないことが悔やまれるが、初代と3代目の御記を考えれば、この御記も大赦が与えた公的性格をもつ日記だと言えるだろう。ただ、執筆内容が回顧する調子であり、与えたタイミングについてはほかの御記とは異なることが想定される。
結城友奈のそれについては、もはやいうまでもない。大赦はタタリに苦しみ始めた彼女に直接「勇者御記」を渡してそれを書かせたことは、2期10話(『勇者の章』4話)に明らかである。しかし、御記の与え方がはっきりとわかる事例は彼女の例をおいて他にはない。非常に重要な事例である。またほかの御記と比べると、「お役目」それ自体というよりも、タタリという不慮の事態に対応するものである点が際立っているのが特筆される。
すべてが必ずしも明らかになっているとは言い難いが、勇者御記と一口に言ってもその内実はそれぞれ異なっていることは理解できるだろう。とはいえ、大赦に与えられたことや御記という名前のもつ政治性、御記が公的性格をもった日記であることは変わらない。そのことは一連の考察を通して、確認してきた通りである。
4、勇者御記という「検閲」 ―「閉ざされた言語空間」の「配給」―
・検閲される勇者御記
勇者御記については既にみてきた通りだが、ここからは大赦の御記検閲を論じていきたい。
そもそも一連の勇者御記は例外なく「大赦書史部・巫女様」の検閲を受け、「大赦にとって都合が悪いところ」(3期5話の犬吠埼風)には黒塗り(白塗り)を余儀なくされていた。しかも西暦勇者たちの場合、検閲は複数回にわたるものであり、大赦の隠蔽体質の悪化傾向に伴ってほとんど読めなかったほどであった。乃木園子のそれもそのように重要な箇所が読めなくなっていたわけであり、「郡千景記」については存在ごと抹消されていた。
はっきり言えば、このような大赦の検閲システムは勇者御記という存在自体をもはや意味のないものに追いやっていると言わなければならない。御記の本質は、勇者システムの改善・改良につなげることで未来の反逆の可能性を残すとともに、後世の人々—具体的には後世の勇者たち―に精神的継承を期す—「勇気のバトン」・「未来へのバトン」を託す—ことにあるわけである。
「託されちゃってるんだね。次の代に託すのも、そして終わらせるのも、勇者次第。」(3期8話の乃木園子)という言葉は示唆的である。
だが、大赦の検閲を受けて黒く塗りつぶされてしまった御記に「バトン」を託す余地はあるのだろうか。3期8話の結城友奈は、「そのちゃん(乃木園子:引用者注)の御記はたくさん読めなくされていた」ように、「きっと私のもたくさん塗りつぶされちゃう」ことを察していた。「でも書かないと。少しでも未来の勇者に役立つことを。」(3期8話の結城友奈)と言ったところで、最終的には「大赦にとって都合が悪いところがあった」(3期5話の犬吠埼風)ならば、「塗りつぶされちゃう」のである。そこでは果たして「役立つ」ような内容が残されているのだろうか。
前者の機能についてはまだよい。いくらその内実は末期的症状を呈していたとしても、先代勇者・三ノ輪銀の「戦死」や讃州中学勇者部の「お役目」の後には、実際に勇者システムの「改良」が施されていたからだ。その「改良」が本当に良いものになっていたのかどうかはともかく、少なくともシステムの改良・改善を目指すという姿勢は、御記を書かせた大赦に看取される。つまり、未来の反逆の可能性を残そうとするあり方は、変則的にせよしっかりと認められるものである。
しかし、後者の機能はそうではない。前者は検閲を担当する機能と勇者システムを管轄する機能とが同じ大赦の管轄だからこそ可能だったが、後者は現実に御記を媒介とした勇者同士の「バトン」の継承が行わなければならない。ただ、お役目遂行に当たって最低限必要な情報すら与えない大赦に、勇者同士の真の「継承」を行わせることができるとは思えない(もちろん、実際に原本そのままの御記があったとしても、そこに書かれたものが本当に真意を表現しているのかという問題はあるのだが)。
「結城友奈の章」以降の大赦は多少「反省」したと言われるが、もしそうだとしても御記の検閲それ自体を止めない限り、直接的にその真意を知ることはできないだろう。
・神世紀という虚構のわな
しかしそれはやむを得ないことでもある。
大赦が一般社会に対して「壁の外の真実」を秘匿し続けなければいけないように、神世紀という時代にはその根幹に明らかな虚構が張り付いてしまっている。
「壁の外」の大地は灼熱の炎に覆われバーテックスや星屑たちが遊弋する空間なのではなく、致死性のウィルスの蔓延する危険な空間でなければならないし、人類は天の神と屈辱的な条件で講和して何とか四国地方に数百年暮らし続けられているのではなく、致死性のウィルスの影響によって四国地方に仕方なく生き残った人々が住んでいることにしなければならないのである。
だからこそ、どうしても検閲へと向かう力学は発生し続けてしまうだろうし、組織の隠蔽体質・閉鎖性の問題は絶えずつきまとう。「大赦書史部・巫女様」の検閲は都合の悪い箇所を黒塗り(白塗り)にするのみにとどめるあたり、幾分かは「温情的」なのかもしれないが、遡れば西暦勇者の御記のうち存在を抹消された郡千景の場合は、その「郡千景記」のすべてが読めなくなっているわけである。
西暦最末期の郡千景の悲劇的最期は明白に勇者システムという一種の「犠牲のシステム」*16を体現していたのだが、大赦という組織の都合によってその記述を検閲するどころか存在自体を抹消せざるを得ないとすれば、それはもはや「歪」とかそういう話ではない。あまりにも醜悪に過ぎる。
つまるところ大赦が「反省」していようがいまいが、神世紀は虚構を抱えた擬制(フィクション)である。そのような時代を端的に体現する勇者御記という存在は、勇者たちの「バトン」の継承を阻害している。御記の機能のうちの半分は、既に破綻に陥っているわけである。あるいは3期5話における勇者部の面々はよく御記を読めたものだと驚嘆せざるを得ないが、その「継承」ももはや検閲のうえに存在するものなのではないだろうか。御記とは、そのすべてにおいて検閲を前提としているのだから、御記そのものは検閲そのものと化していると言わなければならない。
したがって大赦が醜悪な御記を勇者たちに与えることは、検閲を「与える」ことだと言い換えられる。検閲のなかに「バトン」が継承されていくのなら、それは重大な虚構を、致命的な欠陥をその中心に抱え込んでいることになる。それは単純な継承では決してあり得ない。
・「閉ざされた言語空間」の「配給」
かつて江藤淳氏は、戦後日本の言語空間が占領軍=GHQ(SCAP)の検閲政策のために「閉ざされた言語空間」の内に拘束され続けており、しかもその検閲自体が不可視化されていることを告発した(江藤淳『閉ざされた言語空間』(文春文庫、1994年))。もちろん、江藤氏の議論には問題も多い。特に、賀茂道子氏の批判する通り、「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」論に関する問題点が存在していることは留意すべきである*17。それについては賀茂氏の一連の著書・論文を参照していただくとして、ここでは占領軍の検閲体制について取り上げたい。
江藤氏の批判したように、占領軍の検閲体制は占領軍を消去する方向に存在した。実際に、その政策は「日本が占領されている事実をメディアの表面から消去してい」ったし、その検閲は「検閲する主体そのものの姿を検閲によって見えなくさせる」「狡猾」なものだったと言えよう(吉見俊哉『親米と反米』(岩波新書、2007年))。検閲の存在自体を「検閲する」政策は、戦前の場合、「削除させられた部分に×や○の印を残すことが許されていた」のであり、「読んでいる物からなにかが削除されていればそうとわかった」(ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 下』(三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、2001年、初出1999年))。
だが江藤氏の議論で問題なのは、松浦総三氏の指摘したように「アメリカ(占領軍)式検閲」はむしろ戦前日本における内務省警保局のそれに起源を求められる点にある(松浦総三『占領下の言論弾圧 増補決定版』(現代ジャーナリズム出版会、1974年、初出1969年))。つまり、そうした検閲は(戦前日本の)総力戦体制の内に既に胚胎されていたわけである(吉見前掲書)。
閑話休題。
江藤氏の議論にはいろいろと問題のあることは理解できただろう。
ただ、江藤氏の論旨はともかく、一連の検閲体制の生んだ「閉ざされた言語空間」の問題点については、大方の同意の得られるところだろう。そして話が大幅に逸れたが、この種の「閉ざされた言語空間」のあり方は大赦の検閲体制においても適用できると筆者は考えている。
大赦の与えた―より露悪的に言えば「配給」した―御記という検閲は、御記それ自体の機能を前提から失効させていることは既に述べた。そうした御記を媒介とする勇者たちの継承は、必然的に真意を「検閲」された状態での継承となるのだから、こうした状態はいわば「閉ざされた言語空間」の内に御記を位置づけるものとなる。
もちろん、大半の御記は黒塗り(白塗り)を施されるだけかもしれないが、郡千景の例に示されるようなあり方—御記すべての不可視化—こそ、より本質的な大赦の検閲体制の姿なのである。神世紀という擬制を前にした勇者たちは、究極的には何も継承できない。それは神世紀の勇者たちを取り巻く環境が、引いては大多数の擬制を擬制と知らない人々の暮らす神世紀の四国地方が、端的に「配給」され(てしまっ)た「閉ざされた言語空間」にあることを示しているのではないだろうか。
5、なぜ大赦は勇者御記を必要としたのか? ―犠牲のシステム=「世界」システムという不可能性—
・大赦の検閲体制の起源
勇者御記の問題性は、前項において指摘したように御記そのものが「検閲」化してしまい、未来の勇者たちへの精神的継承―「未来へのバトン」・「勇気のバトン」―を阻害していることにある。そして、このような事態を生んだ大赦の検閲体制は、実のところ神世紀という擬制が生んだ必然的虚構性に起因するものであり、そうした検閲へと向かう力学は勇者御記や勇者たちのみならず神世紀の四国そのものを(大赦の「配給」した)「閉ざされた言語空間」の内に取り込むものだったと言える。
それでは、なぜ大赦は御記を勇者たちに書かせたのだろうか。大赦の検閲体制や神世紀という擬制の存在を考えれば、都合の悪い記述も当然出てくる御記を書かせる必要は必ずしも存在しないはずだ。御記と言う形式でなくてもバトンの伝え方はあるはずだし、300年という猶予を考えれば、そもそも未来の勇者たちに継承する必要さえないという考え方もあるだろう。
しかし、大赦はそういうやり方・考え方をしなかった。それはつまり、大赦自身が精神的継承—「バトン」—を想定して勇者たちに御記を書かせていたということになる。少なくとも今後の対バーテックス戦やその担い手となる未来の勇者たちを想定してそれらを書かせ、(検閲はしたが)残してきたのは確かである。
「郡千景記」の全面的抹消に関しても、神世紀移行期*18の上里ひなたが、「大赦内での立ち回りに支障が出」ることを懸念し苦渋の決断として行ったものである(『乃木若葉は勇者である』下・「託されたバトン」)。彼女は本来、「大赦という組織の健全さを守っていかなければ」ならないという問題意識を持っていたし、天の神との屈辱的和睦のために「勇者の力を放棄」することを余儀なくされたが、(西暦勇者唯一の生存者かつ「英雄」である)乃木若葉とともに、秘密裏に勇者システムを「基礎戦闘力の向上に重きをお」きつつ「細く長く研究していく」ことを決めていた(同前)。
大赦という組織を中心となって作り上げ、神世紀四国の指導者的地位にあったひなたと若葉は、「人々の日常」を「必ず取り戻」すために「命を失った者たちの遺志を継ぎ、未来の道を拓いていくこと」を目指していたのである(『乃木若葉は勇者である』下・「第19話 根絶(後編)」)。勇者システムの細々とした研究の努力は、実際に数百年後の先代勇者および勇者部の戦いに活かされていくのだから、「勇気」(あるいは「希望」・「願い」)のバトンは確かに受け継がれていった側面はあるだろう(同前)。
しかし、バーテックスの侵攻の止んだ「平和の時代」の続く最中、神世紀72年には「バーテックスの襲来を実体験した最後の生き残りが老衰で死亡」し、神世紀100年*19には「人々の精神的安寧を守るためにも、バーテックスの脅威をあらゆる記録から削除」したうえ、「危険度の高いウィルスによって四国外は壊滅したという説を流布し、定着させてい」った(同前)。
それは「滅びた世界の凄惨な光景やバーテックスの圧倒的な力を見れば、多くの人は正気を保っていられない」ことを危惧したひなたたち大赦が「四国の安寧を守るために、隠さなければならない」としたあり方(『勇者史外典』下・「第二章 芙蓉友奈は勇者でない 第五話」)の延長線上にあるものだろう。
しかし大赦は、ひなたと若葉の危惧通りに「変わっていく」過程で「堕落」してしまった(『乃木若葉は勇者である』下・「託されたバトン」参照)。乃木若葉以来の乃木家に伝来した西暦勇者の御記も、隠して残すことに失敗したうえ、「黒い部分での検閲と、赤い部分での検閲があった」ように、二度の検閲を経なければならなかった(同前)。東郷美森・乃木園子の指摘する通り、「大赦の隠蔽体質は年々、強化されていった」のである(同前)。
「大きな秘密を守らなくちゃいけないって掟が、百年、二百年って長い長~い時間が経って……ちょっと歪になっちゃったんだろうね……。その極めつけが、散華のだんまりだよ。」
(『乃木若葉は勇者である』下・「託されたバトン」)
園子の上記の言葉は、筆者が前項で指摘したような大赦の「隠蔽体質」の根本的原因を明確に指摘している。そもそも神世紀という時代が擬制だからこそ、それを検閲するために勇者御記検閲の力学が存在せざるを得ない。しかし、御記は未来の勇者たちのために、引いては西暦時代のような「人々の日常」のために必要なのである。とはいえ、神世紀が完全な擬制と化した神世紀100年以降では、勇者システムそのものも完全に隠蔽せざるを得ない。だからこそ、こちらも「人々の日常」のために検閲が強化されていったとも考えられる。
だが、基本的に一般社会に御記の存在が公表された形跡がない辺り、御記の存在を知るのは大赦およびその関係者以外にはいない。それでもなお検閲しなければならないとすれば、「世界の真実」を知る者の数を必要最小限にするために、大赦内部でも一般社会と同レベルの内容に隠蔽を行ったということだろうか。
そう考えると、一連の御記検閲の方針はわかりやすいかもしれない。
たとえば、特定の本が処分されることなどあってはいけないし、虚偽の情報を流されることなどあってはいけないし、神樹とは別の神様など存在してはならない。あるいは、勇者には慢心など存在しないし、人類は増長などしていないし、勇者の体に瘴気などあるわけがない。体は供物にならないし、勇者は落命しないし、バーテックスは天の神の造ったものではない。西暦の時代は隠されなければならないし、勇者は不死の体にはならないし、人身御供でもありえない。云々。ということになるわけだ(『乃木若葉は勇者である』上・下・『鷲尾須美は勇者である』参照)。
「人々の日常」のためならば、「真実」に関係する事実はすべて検閲の対象とならなければならないのだ。
・神世紀四国の「世界」システム
だが、事実は事実である。それらはいくら検閲されたとしても、その事実が消えるわけではない。先代勇者の園子の御記の場合、大赦関係者ならばどう考えても三ノ輪銀が「お役目」の過程で「戦死」したことはわかる。あれほどまでに大規模な集まりのなかで葬送しようとしたのだから、なおさらそうならざるをえない。落命の事実をわざわざ隠したところで、何を検閲できるというのだろう。
既に列挙したような御記たちの検閲対象の文章や語句を改めて追っていくと、前項にて触れたような検閲の検閲すら行われている証拠が発見できるが、なかでも重要なのは、勇者や神樹、また大赦そのものを権威化・神聖化しようとする動きが見受けられることである。しかもそれは勇者・神樹・大赦の無謬的純粋性を確保しようとする方向に存在している。つまり、御記中の勇者・神樹・大赦の三者は、公定的理解を逸脱する解釈・見解であってはならず、誤りや欠点の一切存在しないものとして扱われなければならないのである。
ここまでくると、「人々の日常」という名目は一挙にその名実を失うだろう。大赦の検閲体制は必然的虚構性を前にして極めて急進化している。検閲が守るべきは人々の日常であり、役立つべきは将来の勇者たち、そして取り戻されるべき本来の人々の日常である。しかし、残念ながらその労力は組織自体の空虚な権威化・神聖化の努力に向けられている。検閲主体としての大赦は、もはや自己目的化の隘路に入ってしまった。その意味では、大赦もまた(自らが「配給」したはずの)「閉ざされた言語空間」の中に囚われているということができるだろう。
神世紀四国を「閉ざされた言語空間」だとするならば、それを生み出した大赦も例外ではないということになる。自らが生み出したはずの検閲体制は、自らがつかざるを得ない嘘(虚構)ゆえに最終的に自らを拘束し始めていき、本来の目的を逸脱して暴走した挙げ句、組織自体の空虚な権威化・神聖化に突き進んでいった「都合の悪い」ものをすべて検閲する姿勢は、既に検閲行為が自己目的化したことを端的に示している。
こうしたあり方のことを、筆者は「世界」システムと呼んでおきたい。
神世紀という時代は必然的虚構性を帯びた時代である。その虚構は「人々の日常」のために、「安寧を守るために」—つまりは「世界」の平穏と維持のために—継続され続ける必要がある。しかし「世界」の平穏と維持を目的とするならば、虚構が虚構であることを絶対に悟られてはならないのであり、一般社会も大赦も例外なく、虚構を真実として内面化しなければならない。こうした虚構化の力学は、究極的には神世紀四国という空間全体を徹底的に虚構化する方向に向かう。そうすると、その社会は誰一人として虚構が真実であることに疑問を抱かなくなる。これこそ、神世紀100年以降の大赦が生み出した全面的虚構化の最終形態である。
神世紀298年の神樹館や神世紀300年の讃州中学の教室の風景は何ら不思議な光景ではない。神世紀という虚構の核心は何よりも「神樹様」にあるのだから、神樹に対する「信仰心」に欠けた社会では虚構の仮面が容易にはがれ落ちてしまう。それを避けるためには、「神樹様」信仰を最大限に高めなければならない。そうなれば、「世界の真実」を知ろうとした神世紀29年の芙蓉・リリエンソール・友奈のような存在は、神世紀100年以降にはあり得なくなる。信仰が枷となって「真実」を探究する方向に思考が向かないからである。それは神世紀四国という「閉ざされた言語空間」の完成にほかならない。
大赦もまた然りである。大赦の検閲体制が自己目的化に陥るのは、全面的虚構化の先にある神樹信仰の存在に起因する。人々が神樹を信仰するためには神樹が無謬的純粋性を保持していなければならないし、神樹と深くかかわる大赦においてもそうあらねばならない。権威化・神聖化の努力とは、必然的営為である。
神世紀四国は上から下まで縦から横まですべて閉ざされた言語空間に規定されている。そしてこうした空間を現出させ、継続させ続けているのが「世界」システムである。それは、「世界」の平穏と維持を至上目的とするシステムのことであり、その実現のために「世界」の全面的虚構化を図ろうとするのだ。大赦の、「人々の日常」を守るために、「安寧を守るために」という志向に端を発したこのシステムは、のちに大赦を離れて自己規律化し始め、ついには大赦自体をその制御下に置くに至る。「神樹様」信仰や大赦の「隠蔽体質」は、その社会的形態のことである。
こうした「世界」システムの性格を見たとき、勇者システムという「犠牲のシステム」に関しては、その例外的形態なのではないかという疑問も生じてくるだろう。
「世界の真実」を知ることのできる勇者たち(あるいは防人たち)はシステムの全面的虚構化の圧力を跳ね除け、虚構を虚構だと認識できる。それはシステムを相対化することにもつながるだろう。しかし、それは誤解である。「世界」の平穏と維持を目的とするのが「世界」システムである以上、「世界」の全面的虚構化を図ろうとする作用は、あくまでもシステムの生成するものの一部に過ぎない。むしろ神世紀四国の防衛(=バーテックスなどとの戦闘)を勇者に担当させる勇者システムは、「世界」システムの本旨によく適っているのである。「世界」的「犠牲」を勇者たちに押しつける勇者システムという犠牲のシステムは、「世界」システムの(「世界」の全面的虚構化作用とともに)主要な構成要素なのである。
作中を見ればわかるように、「世界の真実」を知り神世紀四国という擬制を擬制だと認識したところで、犠牲のシステム=「世界」システムは何も変わらない。むしろ「世界」システムの本来的性格を暴露するだけである。勇者たちは、「世界」の平穏と維持のために犠牲としてあり続けなければならないのである。
・「忠誠と反逆」、あるいは「世界」システムの絶対性
もちろん、こうした「世界」システムとの対決を描いたように見える箇所は存在しているが、それは端的にそのように「見える」だけである。
以下、「世界」システムに対する「忠誠と反逆」という観点から具体的に見ていこう。
まずは「世界」システムに対する「反逆」である。確かに、テレビアニメ1期後半の犬吠埼風や東郷美森の「反逆」にせよ、2期後半の讃州中学勇者部の「反逆」にせよ、3期の楠芽吹の「反逆」にせよ、いずれにおいてもそうした反逆の「感情」や「行動」は存在した。しかし彼女たちの内面においては、「世界」システムに対する「忠誠」—「世界」の平穏と維持に対する「忠誠」—が厳然と存在していたと言うべきである。
一連の反逆の試みは、すべて勇者システムという神世紀四国を覆う「世界」システムそのものに関わる問題を契機に発生していた。それらは「世界」システムそのものを問題化する契機を持っていたはずである。だが、それらの試みは結局のところ、勇者部や防人部隊という組織内部の問題に急速に転化させられ、反逆の「運動」は「同調と随順」に結実する。
たとえば1期後半の「反逆」では、大赦や神樹に対する批判はあったが、最終的には何も変わらなかった。2期後半では「勇者部五箇条」が「勇者部六箇条」になったが、それは勇者部という一組織の内部が「革命」―というのもおこがましいが―されたに過ぎない。3期の楠芽吹も大赦や神樹に対する批判意識を持ちながら、結局は防人隊長としての職務を全うしている。勇者部と大赦とが「社会的に」対立したところで、双方の自我の次元においては「驚くほどの共通性」を帯びている。どちらにせよ、もはや「世界」システムに対する「忠誠」は変わらないのだ。
丸山眞男氏が指摘したように、大正期以降の近代日本社会における「忠誠と反逆」の関係において、「天皇制的な忠誠」は「反逆」の内面的構造を制約していた。体制と反体制運動、支配と革命、権力と運動という対立的二者は「驚くほど」似ており、ついには「自我のイメージのなかで急速に一つの像を結ぶ」に至るのである(丸山眞男「忠誠と反逆」(『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫、1998年、初出1960年))。
神世紀四国における「忠誠と反逆」の問題は、これとよく似ている。「世界」システムという神世紀四国を全的に規定するあり方は、既にシステムそのものへの反逆を許していない。システムへの忠誠だけが許されるのである。そこでの反逆は、もはや反逆に値しない。内面的に見れば、神世紀四国の勇者も(防人も)大赦も「世界」システムへの忠誠を前提としている。真の意味での反逆はもう、そこには存在していない。
したがって、一見すると「世界」システムとの対決を図っているように見える彼女たちも、「世界」システムを離れられてはいないのである。神世紀四国において、「世界」システムを真に相対化できる者は一人として存在していない。ゆゆゆにおける犠牲のシステム=「世界」システムは、極めて根深いものがあると言わなければならない。
そして、前項では未来の勇者たちへの精神的継承を阻害するものとして、「配給」された「閉ざされた言語空間」の存在を指摘したが、「世界」システムの絶対性を知ったいま、そこからさらに議論を進める必要がある。というのも、一連の議論で問題化されずに想定されていた「精神的継承」の営為そのものも、もはやシステムの内部にあるものと見なさなくてはならないからである。つまり、「勇気のバトン」・「未来へのバトン」なるものは、結局のところ「世界」システムの自己規律化の運動の発現形態に過ぎず、勇者システムという犠牲のシステムを永続的に担保しようとする試みの一環に陥っているのである。
そう考えると、3期8話の「託されちゃってるんだね。次の代に託すのも、そして終わらせるのも、勇者次第。」(乃木園子)という言葉は、乃木園子が「世界」システムの特徴を正確に把握していると捉えることができる。しかし、その最後において彼女はシステムを「終わらせる」ことを選択せず、むしろ「宗主」という立場に就いている。その意味はシステムが仕向けた通りに、システムを依然として「主体的に」継続させていることを示しているのではないだろうか(※詳しくは「6、補論 「宗主」乃木園子というアポリア ―大赦=神樹体制から乃木園子体制への転換を考える― 」を参照)。
繰り返しにはなるが、「世界」システムは極めて根深いのである。
・神世紀29年の芙蓉・リリエンソール・友奈という「可能性」
しかし、真の「相対化」の契機は存在しないわけではなかった。それは神世紀29年の芙蓉・リリエンソール・友奈においてである。
以下に引用しよう。
「「人間は古来、生活圏を広げることで発展してきた。 大昔の人間は、一生を自分たちが住む村やその周辺だけで終えた。やがて移動手段が発達し、村を離れた遠くの地方まで行くことができるようになった。西暦の時代には、『新幹線』というとてつもなく速い電車や、空を飛んで移動する『飛行機』によって、何千キロと離れた日本の端から端まで、一日で行き来することができた。人間は飛行機で外国にだって行けたし、ロケットで宇宙に行くことだってできた。そして生活圏が広がることで人間が手に入れたものは可能性だ」
「可能性……?」
「西暦の時代……人間が世界中を行き来できた時代には、四国の中だけでは成り立たない様々な生き方があった。 『東京』や『ニューヨーク』といった今の四国にはないほどの大都市へ行けば、四国の中ではできない仕事や生き方が見つかる可能性があった。 逆に外国の未開の土地へ行っても、やっぱり四国ではできない生き方ができただろう。 私は香川もこの町も大好きだけど、世界が壁に閉ざされてしまったせいで、人間は様々な選択肢と可能性を失ったんだ」
(中略)
「リリが壁の外に出たいのは、人がまた四国の外に出て生きられるようにするためなのか」
「違うよ」
答えたリリの声は硬質で、冷たかった。
「私は......ただ、あの壁とバーテックスが気に食わないだけだ。 私にとっては、それらの存在自体が不倶戴天なんだ」」
(『勇者史外典』上・「第二章 芙蓉友奈は勇者でない 第五話」)
西暦の時代は、少なくとも近代という時代は、限りなき進歩の時代だった。科学技術の発達は人々の生活水準を向上させ、世界を経済発展に導いていった。既に20世紀後半の時点で「近代」はその限界に到達していたが、それはポストモダン=後期近代(つまりは近代の延長線上の時代)に突入したに過ぎない。消費化・国際化・情報化を基調とした20世紀末以来の資本主義(エマニュエル・ウォーラーステイン氏の言葉を借りれば、近代の世界を特徴づける「近代世界システム」である)はいまだに世界を覆っているし、むしろその強さは年々強まってきている。万物を商品化し、無限の自己増殖を遂げ、世界全体に広がる(だからこそ「世界」システムなのである)その「不朽」のシステム=近代世界システムは、「進歩」を前提としている。それは「可能性」と言い換えてもいい。
彼女の言う生活圏の拡大に基づく人間の「可能性」獲得という物語は、発展段階論的・進歩史観的ナラティブにほかならない。近代以前にはさまざまな「世界システム」があった以上、それを人類史一般に拡延できるものではないが、あくまでも「新幹線」や「飛行機」を具体例とするのなら、それは近代の、近代世界システムの物語を指すということができる。彼女の語る「可能性」の物語とは、端的に近代世界システムの物語のことである。
それでは、「西暦の時代」以降の神世紀という時代は如何なる時代だったのだろうか。それは「様々な選択肢と可能性を失った」時代である。「可能性」によって定義される「西暦の時代」に時代を一方に置くならば、もう一方の神世紀の時代は「不可能性の時代」だと言えるだろう。これまでの議論を踏まえれば、それは「世界」システムの時代だと形容することもできる。そうすると「世界」システムとは、神世紀四国のすべてを覆いつくす絶対性を持った自律的システムなのだから、(天の神の遣わしたバーテックスたちによって物理的・強制的に失効させられた)近代世界システムの後に出てきた「世界システム」の一種だとみなせるだろうか。いずれにせよ、この2つのシステムはよく似ている。
だが、近代世界システムが「可能性」へと人々を疎外するものだとするならば、「世界」システムは「不可能性」へと人々を疎外するものだと言わなければならない*20。両者の構造は似通っているが、その性格は正反対である。神世紀の四国に人々を閉じ込める―それが世界の平穏と維持のためなのである―このシステムは、人々の内に神世紀四国という空間を絶対化させ、その外部への契機を不可視化する。
あるいは大澤真幸氏の「不可能性の時代」論ではないが(大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書、2008年)参照)、神世紀が失ったものとは「他者」なのかもしれない。バーテックスという真に共同体の外部である「他者」は消え去ってしまった。「他者」を「安寧を守るために」見えないようにしているとしても、それは真に神世紀四国が直面しているはずの状況から目をそらさせている。もちろん、そうした対応には一定の「合理性」があるだろうが、その「他者」の代わりに現れるのが、「神樹様」という「他者」であり、「世界」システムという「他者」であるならば、それは実に醜悪である。人々は恐るべき「他者」から身を守る代わりに、もはや「世界」システムというもうひとつの「他者」に対する「忠誠」という隘路に入り込まされている。
したがってこれまでの議論を踏まえると、彼女—芙蓉・リリエンソール・友奈—は神世紀四国の「世界」を極めて正確に把握しているということができる。「可能性」によって西暦の時代を、「不可能性」によって神世紀の時代を理解しているのは、卓見である。神世紀300年間でも稀有の逸材だというべきである。「相対化」の契機は確かに存在したのだ。
・「不可能性の時代」の両義性と可能性のゆくえ
だが、それだけではない。「壁とバーテックス」のことを「気に食わない」と言い切る彼女は、既にその片鱗をみせていた「世界」システム(「壁」)と「世界」システムの完全なる外部=他者にしてシステム発生の根本原因(「バーテックス」)を、「可能性」が喪失した原因としてまとめて把握している。この点が非常に優れているのだ。一方がなければ他方はなく、他方がなければ一方はない以上、それら双方を批判するのは理にかなっている。
なぜなら神世紀という「不可能性の時代」は、その初発からして「不可能性」=人類の屈辱的敗北によって始まるように、「世界」システム以前にその「可能性」を失わされているからである。そして「世界」システムとは、極めて問題のあるシステムなのだが(だからこそ筆者はこれを延々と批判している)、至上目的となる「世界の平穏と維持」それ自体は、神世紀四国という共同体にとって簡単には否定できない代物である。神世紀が必然的不可能性を有している以上、人々は神世紀という擬制を究極的には肯定せざるを得ない。
「私たちの世代はこの壁の外のことも、神世紀以前の歴史も、バーテックスが本当にいたのかどうかも、実際に体験することができない無知な世代です。でも、他人が言うことをすべて無条件に信じ込めるほど愚かでもありません。真実を見て、本当のことを知った上で、私たち自身がこれからどう生きるかを判断したい。この神世紀という時代を――この閉じた世界を実際に生きている私たちには、そうする権利があるはずです。」
(『勇者史外典』下・「第二章 芙蓉友奈は勇者でない 第五話」)
重要なのは、ここである。この言葉は、神世紀四国が「閉ざされた言語空間」を「配給」され、「世界」が全面的虚構化の作用を受け始める前の、すなわち「世界」システムが本格的に機能し始める前の、貴重な議論である。
神世紀は不可能性の時代であり、神世紀という擬制は認めざるを得ないのかもしれない。
だが、神世紀移行期にいったい何があったのかわからないとしても、真実を隠すことが人々の安寧を守るためだとしても、「真実を見て、本当のことを知った上で、私たち自身がこれからどう生きるかを判断」させるべきだったのではないだろうか。
「世界」システムは必要だったのかもしれない。だが、わけもわからないままに虚構化された現実を生きさせられ、システムに忠誠を誓わされることなど、あり得てはいけない。「世界の真実」のすべてを話せなくても、勇者システムという犠牲のシステムは必要だったとしても、「世界」システムは曲がりなりにも同意を調達すべきだった。少なくともそこにはオルタナティブの契機さえあったはずである。しかし神世紀が同意を調達することも、本来とは違う姿になることもなかった。
神世紀移行期を必死に生き、生き残った人類のために全力を尽くした上里ひなたと乃木若葉に酷なことを言っても仕方のないことではある。その後の大赦もまた然りである。だが、「根拠のない迷信や噂を嫌い、真実を確かめる」ことを信条とする芙蓉・リリエンソール・友奈(『勇者史外典』上・「設定画集」)という一人の少女の想いは、決して特別なものではありえない。こうした問いは、神世紀300年間のあちこちに起きていてもおかしくないものだったはずである。
神世紀1世紀は模索の世紀だった。だからこそ、そのように問いが実際に発されて、大赦のトップ(ひなたと若葉)に受け止められ、「壁の外の真実」を見ることができた。しかし、神世紀100年以降の神世紀四国は「世界」システムの内に完全に取り込まれていく。もう、彼女のような問いを発する者は「文字通り」存在しない。
「世界」システムという「不可能性」が前に出てきた後では、先に見た乃木園子のように、あるいは神樹館や讃州中学勇者部、防人部隊の「勇者」たちのように、システムそのものを真の意味で「相対化」することができない。相対化の契機は、あくまでも「契機」に過ぎなかったのだ。
「世界」システムという不可能性は、改めて重いと言わざるを得ない。
・なぜ大赦は勇者御記を必要としたのか?
改めて問おう。「なぜ大赦は勇者御記を必要としたのか」。
端的に言えば、それは犠牲のシステム=「世界」システムという不可能性によるのだと言えるだろう。
「世界」の平穏と維持の至上目的のために駆動される「世界」システムは、大赦の制御下を離れて自律し始めていき、「世界」=神世紀四国を全面的に虚構化するのみならず、勇者システムという犠牲のシステムを要請する。勇者も巫女も大赦も神樹もその例外ではない。システムの「外部」は存在しない。それは絶対性=不可能性を以て、神世紀四国に君臨しているのである。
この自律的システムは自己規律化のための材料を必要とする。それが勇者システムの直接的改良に用いられ、勇者という犠牲を永続的に担保しようとする「バトン」なるものを体現した、勇者御記である。もはや「世界」システムの代弁者に堕した大赦は、システム的必然性のために御記を必要とするのである。ここでいう大赦とは、「世界」システムのことだと言い換えてもよい。そしてその御記が体現するのは、「世界」システムそのものである。
筆者は(本コラムの冒頭において触れた)日本列島史上の御記たちのことを、天皇制とそれを支える構造によって担われたものであり、「御」とは、天皇制より発する権威と権力だと述べた。神世紀四国の場合、御記たちは「世界」システムによって担われ、「御」とは「世界」システムより発する権威と権力だと言えるだろう。
もちろん、それは「臆断」であることは間違いない。虚構の日本列島(の一部)と現実の日本列島を等号で結ぼうとするのは、どう考えても無理がある。それは認めなければならないし、認めるべきである。
だが御記の御記たるゆえんは、「御」という文字に示されている。
それはただの日記・記録類などではない。明らかに尊敬の念を込めた表現が含まれており、そこにはある社会における価値観・政治的・社会的価値づけの問題が確実に存在している。御記論の意義はここにある。御記を御記と呼ぶ「迂闊さ」・「鈍感さ」は否定されるべきである。言説の政治性は厳然たる存在にほかならない。そして御記が「日本」的なるものを離れて存在できない以上、御記を問いなおすことにはなお意味がある。それが現実だろうが虚構だろうが、御記とはいったい何であるのか、どのような政治性を帯びているのか、どのような社会=世界を背景とするのか、これらの問いを発し続け、それに答えようとし続けることは欠かせない。
筆者の具体的議論が妥当かどうかということは、究極的には問題ではない。むしろ問題であれば、それがなぜ、どのように問題なのかを問うことによって、御記は問いなおされ続けていく。御記の「御」は、たえざる問題系として機能し続けていくだろう。
だからこそ、筆者はゆゆゆにおける御記を問うたのだ。御記論のパースペクティブはあまりにも茫漠たる有様を示している。しかし、御記を、勇者御記を追求せずしてゆゆゆを問うことはできないし、引いては「日本」的なるものや言説の政治性を問うことはできない。それらに迫る方法はいくらでもあるだろうが、御記がそのひとつとなることは間違いない。
ゆゆゆ研究とは、そのような意義をもつものなのである。
・芙蓉・リリエンソール・友奈とゆゆゆ研究
そのうえで筆者は、ゆゆゆ研究として御記を考えるためには、芙蓉・リリエンソール・友奈のことをやはり重視したいと思うのだ。はっきり言えば、神世紀の300年間のなかで真の「勇者」だと言えるのは、実のところ、芙蓉・リリエンソール・友奈、および彼女とともに「勇者部」だった柚木友奈の2人だけなのではないだろうか、そう考えてもいる。
彼女たちは、勇者システムという犠牲のシステムとも、全面的虚構化の作用とも、そしてそれらを生み出した「世界」システムとも関係ない。「世界」の平穏と維持という至上目的は差し当たり意味のないことである。「世界」システムを本当の意味で「相対化」し、出来得る限りのすべての手段を使って「世界」システムにとっての「世界の真実」=「他者」を知ろうとした。たとえ彼女たちが最終的に「世界」システムを選び直す選択をしたとしても、「主体的」に選び直した結果である以上、それは尊重すべき決断である。だからこそ、こうした過程を踏んでいない「世界」システムは空虚な虚偽に過ぎない。不可能性が不可能性として与えられるのならば、それは醜悪である。
こうした主体性を発揮できたのは、彼女たちが「友奈」であり「過渡期」ゆえの「被害者」だったからかもしれない(『勇者史外典』下・「第二章 芙蓉友奈は勇者でない 第五話」)。神世紀四国の生んだ特殊な例外に過ぎないのかもしれない。
だが、もしそうだとすれば、いやそうであるがゆえにこそ、芙蓉・リリエンソール・友奈のことをまぎれもなく「勇者」だと、神世紀300年間の全「勇者」中—「勇者史」上—もっとも傑出した「勇者」だと断言する。無論、このように簡単に言ってしまうことはよくないかもしれない。しかしそうだとしても確かに彼女は勇者だったと言いたい。
「芙蓉友奈は勇者でない」?
否、「芙蓉・リリエンソール・友奈は勇者である」とすべきである。
乃木若葉も「その小さな力を振るって成し遂げたことは、神世紀になって約三十年間、誰も成し遂げたことがなかった偉業だ」と言ったではないか(『勇者史外典』下・「第二章 芙蓉友奈は勇者でない 第五話」)。
筆者は、それがどんなに絶望的な試みだとしても、筆者は芙蓉・リリエンソール・友奈という「勇者」の存在を道しるべにして、神世紀四国の「未発の契機」*21を探し求め続けていきたい。それこそ、ゆゆゆ研究に取り組み始めた筆者に課せられた重要な使命のひとつであるように思う。
長くなった本コラムも最後の「補論」を残してここに稿を閉じたい。以下の「補論」は、ポスト神世紀の問題性について「宗主」となった乃木園子を題材に論じてみたものであり、「契機」を探す筆者の試みの、そのひとつに過ぎない。
6、補論 「宗主」乃木園子というアポリア ―大赦=神樹体制から乃木園子体制への転換を考える―
・「宗主」になった乃木園子
テレビアニメ3期12話。ここでは天の神との最終決戦を終え、もはや天の神も神樹も消えた「人類だけの世界」を取り戻した世界の様子が描かれている。そして、4年後の勇者たちの様子もそこにはあった。「未来へのバトン」をつなぐために「勇者部」の活動がこれからも続いていくということがよくわかる内容である。
しかしそこで問題なのは、4年後の乃木園子が混乱した大赦をまとめるために「新しい御神輿」として「宗主」様となったことである。安芸先生の心配(「それじゃあまたあなたがつらい思いを(するだけ:引用者注)」(3期12話の安芸先生))を振り切った園子は、「大丈夫。私もう人形じゃないから。」として「乃木園子の新たなステージ」に突入していったわけだが(3期12話の乃木園子)、「宗主」となった園子というのは、安芸先生の懸念通りの結果に陥っているのではないだろうか。
つまるところ、「宗主様」として「祀られた」園子というのは、「勇者様」として同じく「祀られた」頃の彼女と何が違うのか、ということである。「勇者部」も「防人」たちもそれ以前の「お役目」的共同体をある程度は批判的に継承して活動していたが、彼女は明らかに異なる位置にいる。それは勇者システムの悲劇を繰り返す結果になっているのではないだろうか。
「大赦をぶっ潰す」ことなく自らが大赦を簒奪してしまうのならば、それは勇者システムという「犠牲のシステム」と何ら変わらない。勇者から宗主へと転位しただけに過ぎないのである。ポスト神世紀の秩序が何であるにせよ、勇者システムのような「神世紀的なもの」を批判的に取り扱わなければ、それは神世紀の300年間の意味がない。
3期12話中盤、園子は「いま超グダグダな大赦に任せておくと、またジュクジュクして間違ったことしちゃうと思うんだ。だったら私が。」と考えて「大赦をぶっ潰す」ことを構想していた(3期12話の乃木園子)。しかし、以下の犬吠埼樹の説得を受け「駄目じゃないです。」と述べ、「平和的に大赦を見守る」ことにする(同前)。
「そうすることが初代勇者の思いにつながるんですか。人間の暮らしが戻るように頑張るのが勇者だというのでしたら、(乃木)若葉さんや白鳥(歌野)さんのことを思うのでしたら。わかりました。讃州中学勇者部はこれからもっと勇者部になります。変身なんかできなくても人のためにできることはたくさんあります。いま不安になっている人、困っている人、大勢います。そんな人たちのために率先して世のため人のため私たちは今まで以上に勇者部を続けます。それが私たちの方法です。それじゃだめですか。」
(3期12話の犬吠埼樹)
その後、駅前の跨線橋の上で「こんな世界どうなってもいい。むしろぶっ潰れてしまえって思ってたりもしたんだ。でもいまはなくなったら嫌だ、守りたいなと思ってる。みんながいるからね。ありがとうね、みんな。私、人間に戻れたよ。」と述べ勇者部の「退部届」を破り捨てた彼女は、「私、乃木家の末裔じゃなくて、一人の乃木園子として勇者部を続けるよ。嬉しいな。」と言う(3期12話の乃木園子)。
・生き延びた「世界」システム
だが、彼女が最終的に「宗主」になってしまうというのならば、「だったら私が」という否定されたはずの論理が復活している。「犠牲」の論理が、犠牲のシステムの論理が再出現してしまっているのだ。前項において指摘したことを踏まえれば、乃木園子という存在は根本的には「世界」システム内部の人間に過ぎなかったのではないか。そして、そうした園子の姿勢—宗主になること―を承認する(少なくとも肯定的に扱う)勇者部メンバーの姿勢には、勇者システムという犠牲のシステム=「世界」システムが生んだこれまでの一連の不幸をそのままに繰り返すことを肯定する姿勢を認めざるを得ない。彼女たちも結局は「世界」システムへの忠誠を誓った存在に過ぎないのだろうか。「世界」システムの絶対性=不可能性は、いまだに継続していると言わなければならない。
そもそも「人形」から「人間」に戻り、「一人の乃木園子」として勇者部の活動を行っていた(いる)はずの彼女には、本当に宗主になる以外の方法はないのだろうか。ほかの勇者たちと同じように、「普通の女の子」であり続けることはできないのだろうか。彼女の宗主としての権威は、まぎれもなく先代勇者・乃木若葉以来の「乃木家の末裔」としてのそれに依存しているのだから、それは(「普通の女の子」としての)「一人の乃木園子」ではありえない。人間は生まれ落ちる「家」を選択できないとはいえ、それは乃木家に生まれ落ちた者が大赦の「宗主」としての立場と役割を担う必然性にはまったくなりえない。オルタナティブの契機は存在していないわけがない。その意味では、彼女たちはいまだに神世紀四国が生んだ「閉ざされた言語空間」の中にいるということになる。乃木園子の一見「主体的」な決断は、既に真なる「主体的」行為ではなくなっている。
「私はね、自分で決めたんだ。もう誰かの命令とかじゃないからオーライ」(同前)では、まったくない。その選択は「世界」システムの要請するものに過ぎない。混乱する大赦に代わる存在はおらず、したがってそれをまとめる「新しい御神輿」が必要だという論理は、あまりにも無理がある。
神世紀の300年間を、「7・30天災」より「奉火祭」に至る人類の苦渋に満ちた「敗戦」以降の歴史を、いまふたたびの「長い戦後」だったとすれば、天の神に対する最終決戦の勝利と天の神・神樹双方の消滅は、人類にとっての輝かしい勝利であり、人類の世紀—神世紀に倣えば「人世紀」と呼ぶべき時代—の真の到来を告げるものだっただろう。
だが、もし園子を宗主と仰ぐ政治体制(=「乃木園子体制」)が、神世紀の大赦・神樹を中心とした政治体制(=「大赦=神樹体制」)そのままの犠牲のシステム=「世界」システムを継続させ続けるならば、それは神世紀という「戦後」の功罪両面の歴史を完全に無意味なものにしてしまっている。絶対的な他者に対する屈従・忍従を余儀なくされた、元・敗者の勝利に至る「戦後」の紆余曲折は、その紆余曲折ゆえにこそ意味があったはずである。
たとえば、システムの醜悪を指摘することは簡単だが、その醜悪はおそらくその「紆余曲折」の先に(あるいはその過程に)生まれてきたものだっただろう。少なくともあの醜悪の権化においても、「世界」の維持・人類の生存というような「意義」がないわけではあるまい。
・「勝利」という「敗北」
しかし、そうした功罪に対する批判的・反省的態度が見られないとすれば、それは「輝かしい勝利」ではなく「惨憺たる敗北」だというべきである。あるいは「大赦=神樹体制」から「乃木園子体制」への転換とは、「敗北」にほかならない。神世紀の反省なき人世紀とは、さらにふたたびの「敗戦」と「戦後」の歴史を繰り返していることになるのではないだろうか。既に忌まわしき神世紀は終わっている。犠牲のシステム=「世界」システムもその「意義」を失った。「宗主」乃木園子の存在—「新しい御神輿」—のような犠牲のシステム=「世界」システムはもう否定されてもいいだろう*22。最低限それらを根本的に否定せずして、真の「戦後」や「復興」を成し遂げることはできないはずである。
そうでなくては「私たちは普通の女の子に戻ります!」(3期1話の犬吠埼樹・結城友奈)という宣言は、何のために存在したのだろうか。かけがえのない「日常」とは、「普通」の「日常」とは、果たして「宗主」としての「日常」なのだろうか。「普通」という言葉の暴力性は理解しているつもりだが、それが本当に乃木園子の言う「青春」(3期1話・3期12話の乃木園子)だと言えるのだろうか。少なくとも筆者自身は、これまで見てきたような「システム」から離れたところにある「人間的」な日常を回復してこそ、本当の「青春」が訪れるものだと思っている。
そしてそれは、真に「人間の世界」=人世紀を迎えた人類にとっても同じことだと言えるだろう。不安も困難もある。結果として「紆余曲折」に陥ることもあるはずだ。だが、それが「人間的」なことなのである。新たな時代は良くも悪くも「人間」の時代になる。その「日常」も、同じように「良くも悪くも」「人間的」なものになるだろう。「勝利」が「勝利」であるならば、神世紀が「紆余曲折」の先(過程)の神世紀の後に来る時代であるならば、人世紀の人類は「宗主」乃木園子を認めてはいけない。神世紀300年代の人類は、神世紀300年間の反省に立たなければならない。「長い戦後」の紆余曲折は、神世紀の功罪をそのままに繰り返してはならない―ふたたび「敗戦」*23してはならない―のである。
これは「私たち」の問題でもあるのではないだろうか。
7、末筆の反省その他
全体として論理が破綻しており、向こう見ずに書きすぎているうえ、根拠の曖昧なままに論じ過ぎである。さらにいえば、十分な知識のない状態にもかかわらず門外漢の分野について論じている。これはもう知的誠実さを欠くふるまいだろう。しかも誤解や誤読に基づく議論が往々にして存在すると推定される。しっかりと見直すべきだったはずだ。後悔は尽きない。
(なお本稿の議論に関しては、横井清「『看聞日記』と『看聞御記』の間」(『光あるうちに』阿吽社、1990年、初出1984年)を参照すべきところ、残念ながら手元にないため、現在中古品を取り寄せ中である。届き次第追記しておきたい)
また本コラムの執筆に当たっては、「6、補論 「宗主」乃木園子というアポリア ―大赦=神樹体制から乃木園子体制への転換を考える―」における「乃木園子体制」批判に関して、筆者の友人より示唆を得ている。ここに記して感謝申し上げたい。
ただし本コラムの内容に瑕疵があるとすれば、それはすべて筆者の責任にほかならない。既に多くの問題点を抱えていると思われるが、ぜひ読者諸氏のご意見・ご感想・ご批判等を賜りたい。簡単な内容でもまったく構わないので、もしそれらのある方はお願いしたい。
勇者御記それ自体に関しては、ゆゆゆのアニメ制作会社Studio五組の青木隆夫氏による講義動画(https://www.youtube.com/watch?v=lN9TK0twybI)がある。本コラムの取り扱った御記の「大赦検閲」モチーフ導入経緯について言及しており、動画全体としても興味深い点の大変多いものであるので、参照されることをお勧めする。
最後にはなるが、全体としてかなり問題のある議論だったと思う。
最終決戦におけるヒトとカミの描写は十分説明できていないし、「世界」システムの絶対化というモチーフ自体がかなり無理のある議論だった。「戦後」モチーフの濫用は結果的に「戦後」そのものやその対立項として想定される「戦前」に対する筆者の粗雑な認識を暴露しただろうことは想像に難くない。「天皇制」や「日本」的なるものなどは安易に扱おうとしている時点でお察しである。日本中世史研究を参照した部分もできる限り詳しく書こうと思っていたが、日記研究の膨大さに頓挫して現行の研究状況そのものすら理解できなかった。
もっとも重要なのは『勇者史異聞 芙蓉友奈は語部となる』のことだろう。当該ボイスドラマ(および2023年9月刊行予定の書籍)については承知しているが、まったく踏まえていない。それらの内容を踏まえないままに芙蓉・リリエンソール・友奈のことを評価したのだから、それは端的に誤解なのかもしれない。「過大評価」したのかもしれないし「過小評価」したのかもしれない。どちらにせよ論外である。非礼を詫びたい。そのほか『結城友奈は勇者である 花結いのきらめき』については配信終了を知ってからやり始めたためほとんどシナリオを追い切れておらず、ほとんどアニメ版中心の理解にとどまっている。不十分にも程があろう。
後悔してもしきれるものではないのだが、ここまで4万字以上の長文を書いてしまった筆者にはまったく余裕がない。時間的余裕をこれ以上捻出することも困難である。とりあえず本コラムの後は弥勒蓮華生誕祭記念論稿を書こうと思っているが、今月中にできるのかすら不透明である。無能な筆者を恨まざるを得ないが、ひとまず本コラムを書ききれたこと、それを良しとして後は読者の皆様に委ねたいと思う。筆者の無能をお許し願いたい。
8、書いたみた感想
(かなり早い話になりますが)乃木園子さんの誕生日(8月30日)を心よりお祝い申し上げます。
9、追記(2023年8月26日追記)
本コラムの「4、勇者御記という「検閲」 ―「閉ざされた言語空間」の「配給」―」において、「閉ざされた言語空間」概念を提唱するための導入として、戦前日本の検閲に関する説明を挿入した。
しかしその際の説明では、検閲を避けるために事前に出版側で行われていた自主検閲の事実に関する説明が抜けており、内務省警保局の巧妙な姿勢を「上から」の一面的強制として把握してしまった。
自主検閲をめぐる検閲者・出版者の相克については寡聞にして知らないが、この点は検閲という問題を考えるうえで非常に重要な点であり、後日可能な限り調べたうえで追記したい。
ただし、筆者には十分な時間がないこともあり、すぐには不可能であることから、このように追記した。ここに記してお詫び申し上げる。
10、研究資料および参考文献
研究資料
※テレビアニメ版※
『結城友奈は勇者である -結城友奈の章-』(2014年)
『結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-/-勇者の章-』(2017年-2018年)
『結城友奈は勇者である -大満開の章-』(2021年)
※小説版※
タカヒロ著『鷲尾須美は勇者である』(BUNBUNイラスト、KADOKAWA、2014年)
朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』上(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2016年)
朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』下(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2017年)
朱白あおい著『結城友奈は勇者である 勇者史外典』上・下(タカヒロ企画原案・監修、BUNBUNイラスト、Project2H原作、KADOKAWA、2021年)
※公式資料※
電撃G'sマガジン編集部編『結城友奈は勇者である ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2015年)
電撃G‘sマガジン編集部編『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』(KADOKAWA、2018年)
電撃G‘sマガジン編集部『結城友奈は勇者である -大満開の章- ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2022年)
参考文献
「御記」『国史大辞典』
「御記」『デジタル大辞泉』
「御記」『日本国語大辞典』
「宸記」『国史大辞典』
「柳原家」『国史大辞典』
「柳原家記録」『国史大辞典』
秋山哲雄「鎌倉幕府論 中世の特質を明らかにする」(秋山哲雄・田中大喜・野口華世編『増補改訂新版 日本中世史入門』勉誠出版、2021年)
網野善彦「序章」(『日本中世の非農業民と天皇』岩波書店、1984年)
伊藤俊一『荘園』(中公新書、2021年)
色川大吉『明治精神史』上・下(講談社学術文庫、1976年、初出1964年)
江藤淳『閉ざされた言語空間』(文春文庫、1994年)
遠藤珠紀「朝廷の政治と文化」(高橋典幸・五味文彦編『中世史講義』ちくま新書、2019年)
遠藤珠紀「朝廷下級官人論 朝廷を支える官僚システム」(秋山哲雄・田中大喜・野口華世編『増補改訂新版 日本中世史入門』勉誠出版、2021年)
北原糸子『日本震災史』(ちくま新書、2019年)
黒田俊雄「中世の国家と天皇」(『日本中世の国家と宗教』岩波書店、1975年、初出1963年)
河内祥輔『中世の天皇観』(日本史リブレット、2003年))
佐藤進一『日本の中世国家』(岩波現代文庫、2007年、初出1983年)
高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年)
高橋典幸「中世史総論」(高橋典幸・五味文彦編『中世史講義』ちくま新書、2019年)
谷口雄太『分裂と統合で読む日本中世史』(山川出版社、2021年)
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて 下』(三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳、岩波書店、2001年、初出1999年)
電撃G‘sマガジン編集部編『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』(KADOKAWA、2018年)
電撃G‘sマガジン編集部『結城友奈は勇者である -大満開の章- ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2022年)
新田一郎『太平記の時代』(講談社学術文庫、2009年、初出2001年)
本郷恵子「院政論」(『岩波講座日本歴史 中世1』岩波書店、2013年)
松浦総三『占領下の言論弾圧 増補決定版』(現代ジャーナリズム出版会、1974年、初出1969年)
松薗斉「日記」(『日本中世史研究事典』東京堂出版、1995年)
丸山眞男「忠誠と反逆」(『忠誠と反逆』ちくま学芸文庫、1998年、初出1960年)
森茂暁『闇の歴史、後南朝』(角川ソフィア文庫、2013年、初出1997年)
森茂暁『南朝全史』(講談社学術文庫、2020年、初出2005年)
横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫、2002年、初出1979年)
列聖全集刊行会編『列聖全集 上・下巻 宸記集』(列聖全集刊行会、1917年)
使用したWebサイト・データベースなど
Twitter(X)(https://twitter.com/)
NDL Ngram Viewer(https://lab.ndl.go.jp/ngramviewer/)
国立公文書館アジア歴史資料センターデータベース
(https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/default)
国立国会図書館サーチ(https://iss.ndl.go.jp/)
国立国会図書館デジタルコレクション(https://ndlonline.ndl.go.jp/)
書陵部所蔵資料目録・画像公開システム(https://shoryobu.kunaicho.go.jp/)
11、画像引用元
宮内庁図書寮『看聞日記 乾坤』35(宮内庁図書寮、1934年)(https://dl.ndl.go.jp/pid/2591304/1/35(国立国会図書館オンライン、2023年8月18日閲覧))
NDL Ngram Viewer(https://lab.ndl.go.jp/ngramviewer/(NDL Ngram Viewer、2023年8月18日閲覧))
『結城友奈は勇者である -結城友奈の章-』1話(2014 Project2H、2014年)
『結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-/-勇者の章-』1話・10話(2017 Project2H、2017年-2018年)
『結城友奈は勇者である -大満開の章-』5話・12話(2021 Project2H、2021年)
*1:
現在確認可能な宸記は、「宇多・醍醐・村上・一条・後朱雀・後冷泉・後三条・白河・堀河・後鳥羽・順徳・後嵯峨・後深草・後宇多・伏見・後伏見・花園・光厳・光明・崇光・後光厳・後円融・後小松・後花園・後柏原・後奈良・正親町・後陽成・後西・霊元・中御門・桜町・桃園・後桜町・後桃園・光格・孝明」の37代分とされる(「宸記」『国史大辞典』)。
*2:
宸記集上巻は、宇多天皇御記・醍醐天皇御記・村上天皇御記・一条天皇御記・後朱雀天皇御記・後三条天皇御記・後鳥羽院宸記・順徳院御記・後深草天皇御記・後宇多院御記・伏見院御記・後伏見天皇御記・後小松院宸記を、同下巻は、花園院天皇宸記を収録している。
*3:
柳原家のものとしては『資定一品御記』・『憲台御記』(いずれも柳原紀光(もとみつ)による写本)を確認できたが、これは紀伝道を代々世襲してきた同家の性格が反映されたものだと考えるべきだろう。同家は、紀光の手になる史書『続史愚抄』や、同書編纂のために書写収集した膨大な記録群(柳原家記録)で知られ、紀光の父・光綱以来、既に途絶えた紀伝道の伝統を回復しようとする試みを続けていた(「柳原家」・「柳原家記録」『国史大辞典』)。紀光の『続史愚抄』はその達成と呼ぶべき成果であり、『看聞日記(看聞御記)』以下の諸史料を書写したその事蹟や紀伝道再興に懸ける思いを考えれば、『資定一品御記』(資定)・『憲台御記』(光綱)のような歴代柳原家当主の日記・記録の書写行為は、柳原家という紀伝道の家の伝統を重視した姿勢の表れであると言えよう。したがって、既にみた親王の御記たちと比べるとはやや性格の異なるものだといえる。
なお紀光の国史編纂事業の時期は、ちょうど朝儀の再興・復古の動向の活発化する時期に当たる(藤田覚『幕末から維新へ』(岩波新書、2015年))。親王御記の「刊写情報」は、原本が智仁親王・文仁親王・邦忠親王・家仁親王・織仁親王、写本が尊純法親王(江戸初期)・朝彦親王(明治期)、詳細不明が熾仁親王となっているため、一見した通時的継続性を理由として、御記呼称を社会的背景に結びつけることは困難である。しかし、柳原家の場合はその影響として考えてみることも十分考えられるように思われる。残念ながら筆者には藤田覚氏・高埜利彦氏をはじめとした当該期の天皇・朝廷や社会全体の動向に関する研究を追う余裕はなく、後述する御記呼称の根本的問題もあるため、これ以上根拠なき妄想を広げることはしない。
ちなみに各親王を改めて整理すると、下記の通りである。
尊純法親王(1591-1653、青蓮院門跡)
朝彦親王(尊融法親王)(1824-1891・一条院門跡→青蓮院門跡→国事御用掛・宮号多数のため宮名は省略)
熾仁親王(1835-1895・有栖川宮家9代・明治期に要職歴任のため職名は省略)
*4:
慶安4年に「天香院宮」の著した「天香院宮御記抜書」なる有職故実書もあるようだが、詳細は不明である。
(※https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000229200000を参照のこと)
*5:
以下、近世の御記をめぐる具体的情報は特記の無い限り、すべて書陵部所蔵資料目録・画像公開システム(https://shoryobu.kunaicho.go.jp/)に依拠した。
*6:
「神聖天皇」と「国家神道」の密接な関係についても当然言及すべきところなのだが、その「国家神道」をめぐっては、近年、村上重良氏や島薗進氏の議論を批判的に継承した山口輝臣氏らによる研究が進展していることから、筆者の時間的余裕を考慮し敢えて踏み込まないこととした。
なお筆者は門外漢の身として複雑な研究動向の総体を把握することなど到底不可能であり、安易に論じることが知的蛮勇の極みであることを承知しているものの、国家神道の観点から見たゆゆゆ研究の展望に期待を持っており、改めていずれかの機会に論じてみたいと思う。
*7:
古代の御記については、「上宮太子御記」という厩戸王・厩戸皇子(聖徳太子)の伝記的史料も仏教関係文献中に散見された。
*8:
「御記」とする件名もヒットしたが、実際に史料を閲覧してみると「御紀」となっているものが多く、件名の誤記と推測される。
*9:
本コラムのゆゆゆ理解は、電撃G‘sマガジン編集部編『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』(KADOKAWA、2018年)・電撃G‘sマガジン編集部『結城友奈は勇者である -大満開の章- ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2022年)に依拠している。以下、特記の無い限り、ゆゆゆに関する言及の典拠は同書に基づく。
*10:
当時の網野氏が念頭に置いた状況については、永原慶二『皇国史観』(岩波ブックレット、1983年)を参照されたい。なお、近年の「皇国史観」研究の進展により永原的な古典的理解が単純に成立しない状況になっていることには注意が必要である。
*11:
谷口雄太『分裂と統合で読む日本中世史』(山川出版社、2021年)などを参照されたい。
*12:
すべての天皇が一筋に繋がり均質化されているとみる「万世一系」イメージとは異なり、「正統」理念に基づいた天皇系図は、根が上にあり下に向かって伸びるような樹木型系図として構想されている。血統によって作られた〈幹〉が「父子一系」の正統として連続するが、そこから外れた非正統については〈枝葉〉となり断絶の憂き目に遭う。〈幹〉に位置する人物は必ずしも天皇になるわけではないのだが、正統の〈幹〉になければ価値のある天皇とはみなされず、価値の乏しい〈枝葉〉となる。女性天皇の場合も同様だった。
しかし、正統の条件は「子孫が永遠に皇位継承を続けること」である。「子孫の皇位が現に続いており、今後も続くと予想される」とき、その天皇は正統と認められる。鎌倉時代の御嵯峨天皇まではともかく、それ以降は〈幹〉と呼べるほどの固さを持つ血統は存在しなかった。持明院統(→北朝の天皇)と大覚寺統(→南朝の天皇)の対立は正統の「不在」を意味したのである。
さらに正平の一統破断後の場合、それまでの北朝の天皇は光厳→崇光と続いていたが、後光厳以降は後光厳→後円融→後小松→称光と後光厳系の天皇が続くことになった。ただ、崇光系も(伏見宮)栄仁→貞成と存在していたし、帰還した光厳もその意思に反した後光厳擁立に反発した。つまり、ここに崇光系と後光厳系の対立が生じたのである。「正統」の問題はさらに一層複雑になっていくことになる(河内祥輔『中世の天皇観』(日本史リブレット、2003年))。
なお、その後の動向も含めた南朝方の実態については、森茂暁『南朝全史』(講談社学術文庫、2020年、初出2005年)および森茂暁『闇の歴史、後南朝』(角川ソフィア文庫、2013年、初出1997年)に詳しいので、参照されたい。
*13:
松薗斉氏の議論が本節の議論においてもっとも参照するべき文献だったと思われるが、筆者の都合により手元に用意することができなかった。今後もし入手できる機会があれば、松薗氏の議論を踏まえた補論を別途追記しておきたい。
*14:
本コラムは1冊目の『勇者御記』を西暦勇者の御記=各「○○○○記」の編纂による総合と見たが、アニメ版・小説版などを改めて確認したところ、登場した『勇者御記』は乃木若葉の『勇者御記』=「乃木若葉記」と見るべきであり、それだけでも単独の『勇者御記』と扱われることを示唆していた。そのため、『乃木若葉は勇者である』における「○○○○記」の分類はあくまでも大赦による便宜的分類に過ぎず、実際にはそれぞれ「勇者御記」の名称を持ったままの可能性が高い。したがって、以上の記述は誤りとせざるを得ない。
だが、管見の限り、乃木園子が持ち出した乃木若葉の『勇者御記』を除く『勇者御記』が登場しなかったことに鑑みれば、差し当たり1冊目の『勇者御記』を乃木若葉の『勇者御記』によって代表させることに問題はないと思われるので、ここに記し置くに留め、以上および以下の記述には訂正を加えなかった。ご了承願いたい。(※2023年12月11日追記)
*15:
このように「与えられた」ものとしての御記の性格を強調すると、なぜ大赦は御記を勇者たちに与えたのだろうかという疑問が生じてくるだろう。それは正しい。後になって都合の悪い記述が出てきたらわざわざ検閲しなければならないのだから、そもそも彼女たちに御記を書かせなければよいという意見も出てくるはずだ。だが筆者は、御記を与えた大赦が何も意味なく御記を与えたとは思わない。
御記が「私たちの戦いの記録を記し、未来の勇者へ託す」ものなのだから(3期5話の乃木若葉)、御記自体に未来の勇者たちへの志向性が存在していたと考えるべきである。そのうえ、乃木若葉は西暦勇者を支え若葉の幼馴染である「巫女」・上里ひなたとともに大赦のトップを務めていた。これはつまり、御記の編纂が、引いては勇者御記自体が未来を志向するものとして構想されたことを示しているのではないだろうか。
概要のところで見たように、御記には未来の勇者たちへの精神的継承を期する側面があった。だから「未来志向」はまず確定的なことである。だが、この将来を想定した性格は単に過去と未来の勇者同士の間において「継承」されるものなのではなく、実は、過去と未来の大赦においても「継承」されるべきものだったとは考えられないだろうか。大赦が神世紀の300年間を通して行っていたのは、少女たちを勇者という(唯一バーテックスとの戦闘任務を行える)存在に「変身」させられる勇者システムの改良である(『乃木若葉は勇者である』下・「託されたバトン」)。スマートフォンのアプリケーションに著しく近似したそれは、神世紀の長い年月をかけて大赦が少しずつ改良してきたものであり、神世紀298年以降の勇者たちが使用している勇者システムは、確かに西暦勇者のそれとは格段に性格の異なるものである。
そのように勇者システムを細々と改良していく大赦の姿勢は、明らかに将来における勇者システムの必要と、さらにいえば天の神への反逆の可能性を想定している。こうしたあり方を見る限り、大赦においても一種の「継承」が行われていたことを意味するように思われる(もしかすると自己目的化していた可能性もあるのだが)。もしそうであるならば、大赦が勇者御記を与えた理由は、将来における反逆の可能性のために勇者たちの記録を必要としたからではないだろうか。
勇者たちがバーテックスと戦う空間は、神樹による「樹海化」という現実空間の虚構化作用と時間の停止によって勇者しか入れなくなった場所(「樹海」)である。バーテックスによって樹海の浸食が進めば現実世界に影響が及ぶのだが、現実世界が樹海に干渉できる余地は存在しない。それは大赦も例外ではない。大赦は勇者本人から聞かない限り、彼女たちの記録以外に勇者システムを改良するために頼れるものがないのである。さらにいえば、西暦最末期から神世紀298年以降に至るまで勇者はいなかった。乃木若葉死後はその戦いを直接知れるものは勇者御記をおいて他にない。
日記という形式にしたのも、勇者が非人格的システムではなく精神的および肉体的な弱さを抱え込んだ若い少女でなければならない性格が強く規定したのではないだろうか。「お役目」は戦闘の場面で完結するものではなく、戦闘の合間の日常も含まれている。勇者の内面を知ることはシステム改良者たちの大きなヒントになっただろう。
検閲はあるにせよ、その検閲をするのはシステムの改良を行う大赦である。検閲がどの程度になったとしても、システム改良のために検閲前の原本は参照可能だろう。
以上を踏まえれば、勇者御記とはそのような二重の「継承」をその本質とするものだと言える。
*16:
ここでいう「犠牲のシステム」とは、本来、高橋哲哉氏が提唱した「犠牲のシステム」概念のことを指すものである(高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書、2012年))。高橋氏は、戦後日本国家が福島と沖縄に「犠牲」を押しつけてきたシステム―「原子力発電と日米安保体制」—に対してそのように述べた。本コラムにおいては、神世紀の四国が勇者にバーテックスとの戦闘という犠牲を押しつけてきたシステム(勇者システム)を「犠牲のシステム」と形容しておきたい。
*17:
賀茂氏の議論については、賀茂道子『ウォー・ギルト・プログラム』(法政大学出版局、2018年)・賀茂道子『GHQは日本人の戦争観を変えたか』(光文社新書、2022年)などを参照されたい。
*18:
以下、人類の敵・バーテックスが地球に襲来した2015年7月30日(いわゆる「7・30天災」)以降の四国地方の「勇者」を中心とした人類とバーテックスとの戦争やその余波が継続した時期を指して「神世紀移行期」と呼称する。それは西暦2010年代末に西暦年号は神世紀年号に改元されたことに基づくが、この場合は西暦最末期に当たる西暦2010年代全般も含め、『芙蓉友奈は勇者でない』で一定の平穏を取り戻した様子が描かれている神世紀29年頃までの期間をそのように呼んでおきたい。
*19:
1冊目の『勇者御記』のうち、乃木若葉の分は神世紀99年の時点で既に検閲が開始されたことを示す「二冊目の勇者御記」(電撃G'sマガジン編集部編『結城友奈は勇者である ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2015年))の記述があり、神世紀100年以前に検閲体制の画期を求めることも可能である。しかし、本コラムではこれ以上の詳細な情報を得ることが出来なかったため、神世紀100年と神世紀99年との間に改めて明確な区分を求めることはせず、神世紀100年とする旧来の記述を維持することとした。(※2023年12月11日追記)
*20:
マルクス主義に象徴されるような「○○からの疎外」とは異なる、「○○への疎外」の問題については、見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)を参照されたい。
*21:
色川大吉『明治精神史』上・下(講談社学術文庫、1976年、初出1964年)を参照されたい。
なお、講談社学術文庫版『明治精神史』の底本は、黄河書房版『明治精神史』である。
*22:
神世紀移行期から神世紀1世紀にかけての乃木若葉・上里ひなたはまだいい。彼女たちの行動には「意義」があった。その後の大赦がどうなっていたとしても、その後の大赦も含めて「意義」があったと認められる。だが、神世紀300年代の乃木園子は違う。彼女たちの「悲劇」を、神世紀300年間の「悲劇」を繰り返してはならないのである。
*23:
「アメリカ」のような絶対的他者によって完全に敗北したわけではない、この種の「アメリカなき敗戦」とも呼ぶべき「敗戦」は、「悔恨共同体」を作り出して「失敗の本質」を徹底的探求しようとする試みを自力で生み出すことが難しいだろう。筆者には、こうした「敗戦」のパターンから自己正当化を図らずに正常に回復してくる可能性を見出しうるほど楽観的な見通しを持ってはいない。それゆえにこそ、この「勝利」が本当に「勝利」であるであるために、神世紀300年代の社会は反省の契機を持たなければならないと思っている。(※2024年2月6日追記)