寺末桑町

適当なことを適当に書きます。

「神樹様」試論 ―ゆゆゆにおける神樹信仰の「異形」性―


0、「神樹様に拝」 ―神世紀300年の宗教的日常風景―

・「起立、礼、神樹様に拝」という「異常」

 

 

讃州市立讃州中学校2年3組の「宗教的日常風景」(1期1話・©2014 Project 2H)



「起立、礼、神樹様に拝」

 

 

テレビアニメ版1期1話冒頭。神世紀300年の(香川県)讃州市*1立讃州中学校2年3組の教室に響き渡る主人公・結城友奈の「神樹様に拝」という言葉、そしてその号令にあわせて教師ともども教室左方に体を向け全員で「神樹様」に両手をあわせ深々と拝礼する動作。しかも直後の「さようなら」の挨拶が終われば、生徒たちは授業から解放され放課後の自由を満喫し始めている。

 

視聴者はおそらく現代日本社会とよく似た教室空間に展開される異常な光景に驚かざるを得ないだろう。「起立、礼、着席」ではない「起立、礼、神樹様に拝」という号令や「神樹様」への拝礼をあたかも当然のように日常生活の日常的行為として実践する生徒たちは、視聴者にとって到底「なじみ深い」とは言えまい。そもそも「神樹様」という神様は誰なのか。そもそも学校教育における宗教的行為は禁止されていないのか。等々の疑問は容易に生じてくるだろう。

 

前者の問題については、拝礼の前のカットで示されている神棚の存在や神社の参拝方法に似た動作によって、神道系宗教およびそれによく類似した宗教の神だろうことはわかる。「なじみ深い」存在と言っても、それほど外れてはいないはずである。だが後者の問題は、現代日本社会にある視聴者にとって違和感を隠し得ないだろう。なぜなら以下に示した(2023年9月24日現在の日本国内では適用する)日本国憲法教育基本法の内容に明確に「背反」するからである。

 

 

「第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

 

日本国憲法第20条(昭和21年憲法)」(e-Gov法令検索)

 

 

「(宗教教育)

第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。

2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。」

 

教育基本法第15条(平成18年法律第120号)」(e-Gov法令検索)

 

 

「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」(日本国憲法第20条第2項)以上、「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」(教育基本法第15条第2項)のである。平成18年(2006年)の教育基本法改正にともない「宗教に関する一般的な教養は教育上尊重されるべきことを新たに規定する」に至ってはいるが、現状「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動を行ってはならないこと」は変わらない(文部科学省教育基本法(平成18年法律第120号)について」(教育基本法資料室、2014年)(https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/__icsFiles/afieldfile/2014/12/17/1354049_1_1_1.pdf(2023年9月24日閲覧)))。したがって、現代日本社会の一般的理解からすれば、「讃州市」=地方公共団体を設置主体とするはずの「市立」中学校が「特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動」をすることなど、到底あり得ないわけである。当然のことながら、神世紀四国と現代日本社会とはその社会的性格を根本から異にしているわけだが、そのような「背反」は、一見した外見上の「一致」を前にして違和感を惹起せざるを得ない*2

 

・神世紀四国の「宗教的日常風景」

 

しかし「起立、礼、神樹様に拝」とは、神世紀四国における学校教育の「日常風景」なのである。そのような「宗教的日常風景」を自明とし成り立たせているのは、まさしく神世紀という時代にほかならない。

 

たとえば、神世紀298年の神樹館(香川県大橋市に位置する大赦系の高い格式を有する小学校・2期前半「鷲尾須美の章」の舞台)でもこのような風景を看取可能であり、「一週間の時間割で、道徳と神道が多くあるのが、この時代ならではの特徴だ」ということも小説『鷲尾須美は勇者である』において言及されている(「第1話 わしおすみ」『鷲尾須美は勇者である』)。

 

 

神樹館6年2組の「宗教的日常風景」(2期1話・©2017 Project 2H)

 

 

また、「神樹様」の消滅した3期12話の讃州中学2年3組の様子も踏まえれば、各授業の開始と終了を告げる挨拶として、両手を合わせ「神樹様に拝」という号令とともに腰を曲げ神樹に拝礼する動作が伴われていたことがわかるだろう。そのほかにも、一定の動揺を見せながらも全員で「神樹様」への拝礼を着実に遂行し、しかも動揺する生徒においても「神樹様」という神樹の尊称を維持し続けている点において、学校教育における「宗教的日常風景」の「日常」性は極めて根深いと言わなければならない。

 

 

生徒A「先生、神樹様が枯れたんだってニュースで言ってました。ホントですか。」

生徒B「壁の外って人が生きてるんですか。」

教師「まだ調査中とのことだから、滅多なことを言ってはいけません。噂や嘘を言う人がたくさん出てくるでしょうけど、くれぐれも惑わされないように。私たちは神樹様のご加護で生活をまもられています。それを忘れないように。じゃあ、日直。」

生徒C「あ、はい。起立、礼、神樹様に拝」

(※生徒A・B・Cは引用者の便宜的呼称である)

(3期12話の讃州市立讃州中学校2年3組)

 

 

上記のやり取りをみれば、「神樹様が枯れた」ことは「噂や嘘」以前に「事実」であるにもかかわらず、「神樹様のご加護」を持ち出し「噂や嘘」という名の公共的価値をもつ合理的疑問に解答しようともせず、「滅多なことを言ってはいけません」などと封殺する姿勢には疑問を覚えざるを得ないし、ある程度の政治的制約や公共的配慮などを踏まえたとしても、(「朝まで生テレビ」によく似た)討論番組での「本土」状況の暴露を放映中止に追い込み、その暴露を試みた「著名な地質学者」率いる民間の船舶を拿捕し、その「4年後」に「宗主」となった乃木園子が「今回の初上陸に反対している人」たちを押し切るまで「本土」に一歩も足を踏み入れることができない神世紀四国の状況など、おおよそ信じられるものではないのだが(それでもなお上陸者は元・「勇者」の結城友奈・東郷美森に限定されている)、いまはそれを措いておく。

 

ともかく、神世紀四国の学校教育における「宗教的日常風景」は根深く存在し続けているのであり、それは神世紀という時代の要請するものなのである。(詳しくは後述するが)それはまた近代(公)教育が「国語教育と道徳教育(宗教教育)を中心に国民意識を国内の人びとにもたせ」ようとしたこと(=「国民統合」の志向)に明らかなように、そうした「日常風景」は学校教育の対象範囲如何によって「国民的」基盤を持ちうることを示唆している(勝野正章・庄井良信「第7章 子どものための学校ってどんな学校?」(『問いからはじめる教育学』有斐閣ストゥディア、2015年)。

 

以下の記述はまさしくその「国民的」基盤の広がりの「実現」を的確に表現しているだろう。「神樹様」信仰とは、神世紀四国における「国民的」信仰である。むしろ学校教育における「宗教的日常風景」とは、そうした信仰の具体的展開のひとつに過ぎないのかもしれないが、学校教育の「神樹様」信仰に果たす役割が極めて大きいことは強調しなければならない。

 

 

「Point1 行き渡った神樹信仰と教育

神樹を軸とする教えの中でモラルが大きく向上

神樹が生み出す恵みにより、支えられている神世紀の四国。この時代では、神樹を最上位とする信仰と教育が、一般に浸透。そのおかげか、西暦の時代よりもモラルが高く保たれている。

 

学校の教室にも設置された神樹の神棚

▲神樹信仰が行き渡った証でもある神棚。学校では毎日「神樹様に、拝」という号令のもと、全員で神樹に手を合わせ一礼する。」

 

電撃G‘sマガジン編集部編「結城友奈は勇者である-鷲尾須美の章- Story第1話」(『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』KADOKAWA、2018年)

 

 

・本コラムの構成

 

本コラムでは、そうした「神樹様」信仰のあり方(以下、「神樹信仰」と呼称)について具体的に追求していきながら、そうした神樹信仰の非「日本」的性格を明らかにしていきたいと考えている。「1、「神樹様」とは何を意味するのか? ―神世紀四国の宗教体系を問う―」では、神世紀四国の一大宗教体系たる神樹信仰の概要を掴むとともにその「一元性」を指摘し、「2、補論 「神樹様に拝」という身体技法 ―神世紀四国の「規律訓練」―」では、「神樹様に拝」という一連の「身体技法」に注目しつつ、それをミシェル・フーコー氏の「規律訓練」概念との関係のなかで位置づける。「3、花本美佳の「神樹教」批判・再考 ―神樹信仰の「異形」性―」では、神世紀移行期における「勇者」・郡千景の「巫女」だった花本美佳の「神授教」=「神樹信仰」批判に注目しその再考を通して信仰の「異形」性を述べ、「4、補論 神世紀四国における「敗北の構造」 —巫女「である」ことの陥穽—」では、吉本隆明氏の「敗北の構造」概念を丸山眞男氏の「『である』ことと『する』こと」や石母田正氏の『中世的世界の形成』を援用しながら神世紀四国に適用するものであり、前節で取り上げた花本美佳ら巫女たちや大赦の限界性・問題性において神世紀四国の「敗北の構造」が存在することを示す。「5、日本列島の神々を問いなおす ―日本列島史における神々の系譜と神世紀四国―」では、日本列島史における神々の系譜を、「6、神世紀四国の「瑞穂国」幻想 ―日本列島史と「非農業的世界」―」では、網野善彦氏の「非農業的世界」論や「瑞穂国日本」批判を、それぞれ詳細に紹介しながら、前出した神樹信仰の「異形」性を各文脈に即して指摘する。最後の「7、神樹信仰の非「日本」的性格 ―「キメラ」としての神世紀四国―」では、一連の「異形」性の指摘を総合することを通して神樹信仰の非「日本」的性格を明らかにし、神世紀四国を「キメラ」と位置付けてみたい。

 

1、「神樹様」とは何を意味するのか? ―神世紀四国の宗教体系を問う―

 

・神樹信仰とは何か? ―神樹信仰概説―

 

神世紀四国を神世紀四国たらしめている「神樹様」とは、そもそも何なのだろうか。神樹信仰を理解するためには、まずそこから見ていく必要があるだろう。

 

 

テレビアニメ版1期OP映像における「神樹」(1期1話・©2014 Project 2H)

 

 

「神樹様 【しんじゅ-さま】

神様たちが寄り集まって生まれたとされる巨大な樹の神体で、この世界を敵から守護している。多くの人々から信仰されており、神樹を奉る神棚は、教室や一般家庭にも設置。1日の始まりなどには、みんなで礼拝する。」

 

『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第1章 劇場パンフレット』

 

 

「神樹樣 【しんじゅ-さま】

この世界の源であり、神様たちが寄り集まって生まれたとされる巨大な樹のご神体。敵から世界を守護しており、多くの人から信仰されている。神樹を奉る神棚は、教室や家などあらゆる場所に設置されている。」

 

『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第2章 劇場パンフレット』

 

 

「神樹樣 【しんじゅ-さま】

人類を滅ぼす敵から世界を守護する巨大な樹のご神体で、勇者を選定し、戦うための特殊な力を与えている。神棚や神社は、大赦と呼ばれる組織が、すべて管理している。」

 

『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第3章 劇場パンフレット』

 

無駄な冗句を尽くすよりも以下の劇場版『結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-』の劇場パンフレットを見た方がわかりやすいので上に掲げたが、まさしくそこにある通りである。

 

神樹とは、神世紀移行期以来、四国地方に住む人々を「壁」(四国防御結界)によって守護し、「人類を滅ぼす敵」である天の神や天の神の遣わしたバーテックスの被害を未然に防御しており、日本列島の神々(「地の神」・「造反神」など)が寄り集まってできた巨大な樹木の神体をもつ神である。

 

前節で見たように、学校教育における「宗教的日常風景」は例外なく神世紀四国全域に共通するものであり、神樹に対する信仰=神樹信仰は広く一般に浸透している。学校や一般家庭などあらゆる場所には神樹を奉る神棚が設置されており、1日の始まりや授業の開始・終了などのタイミングでは、神樹への拝礼がおこなわれるのである。「勇者である」シリーズ(以下、「ゆゆゆ」と呼称)における主役となる「勇者」たち―世界の破滅を食い止めるために、時間の停止した樹海(神樹が作り出した勇者しか入れない防御結界)で人知れずバーテックスと戦闘を繰り広げている少女たち―も適性の有無などをもとに神樹によって選定され、敵と戦うための特殊な力を付与されている。

 

さらに言えば、神世紀四国は神樹の生み出す恵みによって成り立っており、神樹を最上位とする信仰と教育によって「モラル」が神世紀以前の西暦時代よりも「向上」していることも特筆すべきだろう(当然、「モラル」の「向上」を一概に称揚できるのかどうかという評価の問題はまた別の話である)。また、神樹を奉る一大組織である大赦の存在も無視できない。各地の神社や神棚の設置・管理とともに人々に神樹信仰を普及する活動をおこない、社会全体を動かす隠然たる権力をもつこの組織は、内部の秘密や謎に包まれながらも勇者の「お役目」(バーテックスとの戦闘任務)を支援している(『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第1章 劇場パンフレット』・『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第2章 劇場パンフレット』)。

 

・「一元化」された日本列島の神々 ―神樹信仰における「一元化」―

 

先に見たあり方こそ神世紀四国の神樹信仰の概要だと言えようが、そこで問題となるのは宗教体系の「一元化」と呼ぶべき現象である。

 

讃州市立讃州中学校2年3組の神棚、「家庭科準備室」・「勇者部部室」の神棚、三好夏凛の自宅の神棚、「讃州サンビーチ」近傍の「大赦がらみの旅館」の客室の神棚、東郷家の神棚、鷲尾家の神棚、神樹館6年2組の神棚、神樹館併設の訓練所の神棚、三ノ輪銀の葬儀場の神棚、夏祭りの会場として鷲尾須美・乃木園子が訪れた神社の神棚、犬吠埼家の神棚、結城家の神棚、乃木園子の自宅*3の神棚、神世紀移行期に遡り丸亀城内の神棚などの一連の神棚、そしておそらくは讃州中学屋上の神棚や瀬戸大橋間近の建物屋上の神棚などの四国地方各地の神社・祠もそうだろう。それらのいずれにおいても、神棚・神社・祠の神体は神樹を模しただろう木製の樹木状の木彫りとそれを囲う長方形と半円形を組み合わせたドーム状の構造、およびゾウの牙のように正面右方より左方に段々細くなる注連縄(牛蒡注連の可能性もあるが、おそらくは大根注連だと思われる)を採用している。しかも神社・祠の場合、通常の鳥居にハの字型の柱が加わり、「神樹」という額が掲げられている。

 

 

「神樹」の額を掲げた神社の祠(2期10話・©2017 Project 2H)

 

 

したがって、(注連縄や鳥居などの意匠の意味については寡聞にして知らないが)神棚にある神体は神樹であり、神社や祠に祀られているのも神樹だということができる。こうした神世紀四国の神樹信仰は単純化された、「神樹」というひとつの神=集合神に対する信仰と化していると言わなければならない。筆者はこうした現象を神々の「一元化」と呼んでおきたい。

 

・「異形」の「一元的」宗教体系 ―「神政国家」の「異形」なる相貌

 

とはいえ、(「一神教」・「多神教」という問題の多い概念に安易に頼るつもりはないが)多種多様に存在していたはずの神々を神樹に「神様たちが寄り集まって」いるからと言って四国地方の神社の神々をすべて「神樹」に統一する必然性はどこにあるのだろうか。

 

おそらく、その理由は人類に敵対する天の神や人類に味方する地の神・造反神(天の神を裏切った神々)(基本的には「土地神」と理解してよい)を考えたときに明らかだと思われる。アマテラスなどを中心とする天の神の側と、オオクニヌシ・スクナビコやスサノオなどを中心とする地の神・造反神の側の両方を含む神々を祀る日本列島の神社は多数存在しており(この事情については、「日本列島史における神々の系譜」の箇所を参照)、前者のみを祀る神社も少なくないはずであることから、それらを後者に祭神を変更するより、一挙に「神樹」に統一した方が混乱を比較的穏便に済ませられるだろうと大赦は考えたのだろう。確かに妥当性はある。天の神を祭祀体系から外面的に除去するよりも、神樹という(一応、それまでの列島の神々で構成されている)「新しい神」を持ってきた方が天の神の排除を表面的に明示しないのだから、考えられる動揺や混乱は少ないに違いない。

 

だが、神世紀移行期以前の四国地方および日本列島の宗教地平を現代日本社会と同一だと考えたとき、日本列島の神々の「一元化」現象など到底考えられることではなく、一朝一夕にできることではない。神道や仏教などの日本列島社会における定着・普及度合を見るにつけ、神々を強引にひとつにまとめようとする「暴力的」行為を果たして人々が看過できるだろうか。

 

管見の限り、ゆゆゆに仏教やキリスト教などの諸宗教の影が欠片も見えないのは単に演出上の問題だろうと思われるので、「信教の自由」は保障されていると想定するが(ただし、後述する安丸良夫氏の「日本型政教分離」=「信教の自由」体制に類似した状況の可能性が高い)、こと神道に関しては「一元化」という極めて「政治的」な強制的改変が加えられていると言わなければならない。

 

神道神職や神社に親しんだ人々は神々の集合体(あるいは習合体)を自称する神樹をどのように受容するのだろうか。目に見えないとはいえ、何らかの超常的現象が発生しその恩恵という形でその現象が継続していることはわかるかもしれない。だが、地域社会に根付いた神道とは、具体的神名と結びついた神号を冠した社名や具体的神名と関わりあった神社の祭祀などとともにあるのであり、「神樹様」などとは直接的に関係がない。

 

そのような神樹信仰が「天の神」の間接的否定のうえに成り立っているとするならば、「伝統的」な行事や神社の様相は全面的改変を受けなければならないのではないだろうか。神世紀移行期から神世紀1世紀までの期間において、神世紀四国の祖型が形成されていったとするならば、四国地方の宗教地平にはそこには極めてドラスティックな変革があったことを想定せざるを得ない。「一元化」現象が簡単に進行したはずもあるまい。

 

 

「神樹」化した神社の神体(2期5話・©2017 Project 2H)

 

 

こういうことを言うと「日本人は無宗教だから」などという反論が返ってきそうだが、神道の社会的基盤に関する提起は重く受け止めなければならないとしても、「宗教」とはいかなる概念であり「無宗教」であるとはいかなる証拠に基づく言説であるのかを抜きにして考えることはできない。少なくとも筆者はそのような言説に便乗する用意をもたないのである。

 

ひとまず「無宗教」云々は措くとしても、神道の社会的基盤がどうであるのかというのは確かに問題だろう。地域社会における神社の地位や受容の程度如何によっては、それほど「ドラスティック」な変革をともなわずに穏便に「一元化」が進行したのかもしれない。だが、勇者部の面々が正月に讃州市内の神社に初詣に行っていたように、神々を日常的に拝礼しているような「純粋」な信仰を考えずにある種の功利的「信仰」も想定すれば、その限りではない(観光としての参詣もここに含まれる)。祭神の神樹化=「一元化」が鳥居の変化や神体の変化、額の「神樹」化などによって視覚的に表現される―視覚的ではなくても、言説などを介して感覚的に表現される―のだから、地域社会の神社を定期的にあるいは一時的に訪れる人々にとって、「一元化」は「明示的に」判明する。そうした直感的違和感は神樹信仰を容易には受け付けないはずである。

 

さらに言えば、学校や一般家庭などありとあらゆる箇所に設置される神棚は違和感を増幅するだけでなく、嫌悪や拒絶として発現されることだろう。神道や仏教、キリスト教などの諸宗教や何よりも「信教の自由」を享受してきた人々にとって、日常生活の「神樹信仰」化を無抵抗に許容しえない。「極めてドラスティックな変革」は絶対的に発生する。「神樹様のご加護」を信じるとしても、それをただちに「神樹様のおかげで今日の私達があります」(2期1話の神樹館6年2組の全員)などと表現することはない。この例が神樹館という大赦系の小学校の特殊事例だとしても、「神樹様に拝」などという信仰強制にほかならない宗教儀礼を学校教育で押しつけられるのは論外もいいところである。それは「信教の自由」の侵害と言わずして何というべきだろうか。

 

神世紀四国における「信教の自由」の内実はここでは問わないが、そのような神棚の設置に象徴される神樹信仰の全面化の動向は、もはや神道の神樹信仰化=「一元化」のみならず、神世紀四国の宗教地平そのものを「一元化」せざるを得ないだろう。いくら学校教育や神樹信仰を普及する大赦の活動が「成功」したとしても、個人の内面への介入と半ばする「一元化」の性格からみて、その過程では何らかの「暴力的」強制が媒介したことを推定しなければならない。残念ながら神世紀四国の政治過程に関する情報を筆者はもっていないので、その具体相を明らかにすることは不可能である。しかし、そのような「一元化」の営為の先にあるものとは、「神樹信仰」という「一元的」宗教体系にほかならない。神世紀100年以後の神世紀四国に関して言えば、その宗教体系を「一元性」という言葉で形容することは比喩ではなく「正しい」だろう。

 

驚くほどに「異形」な信仰である神樹信仰に彩られた神世紀四国は、もはや一種の「神政国家」だとしても言い過ぎではあるまい*4

 

したがってこうした「異形」の「一元的」宗教体系を、端的に「神樹教」と言い表した花本美佳は正しかったと言えるだろう。次々節では、その「神樹教」批判を再考することを通して、神樹信仰をさらに考えていきたい。

 

2、補論 「神樹様に拝」という身体技法 ―神世紀四国の「規律訓練」―

 

前節で見たように、神世紀四国の学校教育は神樹信仰をカリキュラムのなかに取り込んでおり、学校空間のありとあらゆる箇所に神棚が設けられているだけではなく、各授業の開始と終了を告げる挨拶として、両手を合わせ「神樹様に拝」という号令とともに腰を曲げ全員で神樹に拝礼する動作が伴われていた。神樹信仰とは、まさしく学校教育を規定するものでもあるわけである。本節では、そうした神樹信仰の(学校教育における)具体的展開のうち、「神樹様に拝」という一連の「身体技法」に注目して、それを「規律訓練」との関係のなかで位置づけてみたい。

 

・「規律訓練」とは何か?

 

まずは、議論の前提となる「『規律訓練』とは何か」というところから見ていこう。

 

 

「『監視と処罰』などで彼(ミシェル・フーコー:引用者注)が描いたのは、病院、学校、監獄のような、後期近代に普及した、多数の人間を収容する施設が、その目的はさまざまであるにもかかわらず、きわめて似通った側面を持っていることであった。それは、それらの施設の中で、「規律権力(le pouvoir disciplinaire)」とも呼ばれるべきものが作用している点である。それぞれの施設の中で、人々はある決まったふるまいをするように求められ、それに従わない場合には従うように促されたり強制される。そうした過程の中で人々は次第にそうしたふるまいを身体化する(身につける)ように仕向けられる、こうした管理は通常、時間についての厳格な管理を伴う何時何分に起床し、何時何分に洗顔、何時何分から何分間で食事、何時から運動、何時から作業、そして、何時何分に消灯に至るまで、細かいスケジュールが決められている。そして、それぞれの時刻にふさわしいふるまいを人々がしているかどうかをチェックするために、つまり規律が貫徹しているかどうかを調べるために、監視のための装置が必要となる。」

 

杉田敦「Ⅱ 権力をどう変えるか」(『権力』岩波書店、2000年)

 

 

規律訓練—「個人に直接的にはたらきかける権力技術」—とは、人間を「身体への訓練を通してその場で役割を果たすにふさわしいものへと生産」する―労働者・児童生徒・兵士という役割を果たす主体にならしめる―ものである。そこではかなり特殊な動作もあるだろうが、ある時間と空間のなかで一定期間を過ごしながら「繰り返して行」うことで、「その動きを最適化する」ように仕向けられるのである(箱田徹『ミシェル・フーコー』(講談社現代新書、2022年))。

 

しかし、上記に引用した杉田氏の議論にあるように、「監視のための装置」が少なからず求められる。こうした典型例としてフーコー氏が挙げるのが、ジェレミ・ベンサムによって考案された「パノプティコン」という監獄施設である。以下の構想図にあるように中央監視塔を監獄に設けるとともに、そこから見通せる空間に囚人を配置したわけであり、しかも監視者が暗闇の中央監視塔において囚人を監視することによって、監視者が「見られずに見る」ことで囚人を一方的に監視するシステムを作りあげたのである。そして、囚人たちは監視の視点を内面化し自らを自らで監視する主体をつくりあげることになる(木村元・小玉重夫・舟橋一男「第2章 教育と社会」(『教育学をつかむ〔改訂版〕』有斐閣、2019年、初出2009年))。そうなったとき、「不自然」な諸動作はルーチン化されることによって「最適化」されていくのである。それはまさしく「規律訓練」のことにほかならない(箱田前掲書)。

 

 

ベンサムによるパノプティコンの構想図」(ウィキメディア・コモンズ)

 

 

・「規律訓練」と学校教育、そして神世紀四国

 

こうした監獄の事例は極端に思われるかもしれないが、労働者や児童生徒、兵士など近代社会を構成する人々のすべてにおいて当てはまることである。つまり、学校教育も例外ではない。

 

当然のことながら、監獄と学校は異なる機能を社会で果たしている。だが、監獄の囚人が(パノプティコン=一望監視装置を通して)「監視の視点を内面化し自らを自らで監視する主体をつくりあげることになる」ように、学校の子どもたちも(一斉教授法=一望監視装置を通して)教師や子どもたち同士の「監視」の眼差しをもとに学習を進めることになる。学習する子どもたちひとりひとりにおいては、既に「しっかりと学習せよ」と命じる監視の視点を内面化した主体が形成されており、「時間どおり登校し、怠けることなく勉強に励むことのできる身体と精神」が作りあげられているのである(木村・小玉・舟橋前掲書)。

 

それは現代日本においても神世紀四国においても同様である。もちろん、日本教育史および教育学に関する知識のない筆者には詳しく論じることは困難だが、「不自然」な諸動作をルーチン化することで「最適化」していくと言ったとき、神世紀300年の讃州市立讃州中学校の風景を思い浮かべることは容易だろう。各授業の開始と終了を告げる挨拶とは、教室におけるふるまいの「身体化」=身体の規律訓練の結果にほかならない。「両手を合わせ「神樹様に拝」という号令とともに腰を曲げ全員で神樹に拝礼する動作」など不自然極まりない行為である。意地の悪い言い方をすれば、特殊な「身体技法」だとも言える。しかし、だからこそ学校教育における規律訓練は必要とされるのである。その「身体技法」が神世紀四国の「規律訓練」の成果であることはもはや明白だろう。そのような規律訓練の果てにあるものこそ、「神樹」を「神樹様」と呼び続ける、驚くべき一元的宗教体系をもった「神政国家」にほかならない。いま現にある「信仰」と再生産機能を有する「教育」の両輪構造なくして神樹信仰は成り立たないはずである。「神政国家」の基礎に学校教育および学校教育における「規律訓練」があることは間違いない。

 

・近代(公)教育と宗教教育をめぐる問題

 

ただし、これまでの議論が前提としている「学校教育」のあり方は、近代(公)教育制度のことである。公立・私立の区別無く、すべての学校教育は近代教育制度の範疇に展開されるものであり、近代国民国家のなかに位置づけられて存在している。ゆゆゆの神世紀四国は四国以外の地球上の諸国家・諸地域は火の海に変じている以上、「日本」としてのアイデンティティを喪失してもおかしくはないが、東郷美森の発言を見る限りにおいて、「日本」(日本国家)は依然継続しているとみることができる。したがって、神世紀四国の学校教育もそうした近代国民国家の論理、近代教育制度の論理のもとにあるとみなしてよいだろう。実際、学校教育の様子は(神樹信仰を除けば)現代日本社会の学校教育と何ら変わるところがない。そして、国家の構成員としての「国民」が「はじめから存在するものではなくて、教育によってつくりださなければならないもの」だと考えられてきたことに鑑みれば(木村・小玉・舟橋前掲書)、神世紀四国における学校教育とは、神樹信仰を付加しつつも、その延長線上にあるものだと言えるはずだ。「日本」が継続していることもこの点から説明されることだろう。

 

なお改めて繰り返せば、「讃州市立讃州中学校」という公立学校による宗教教育という点において、神樹信仰それ自体が現代日本社会の憲法日本国憲法や法律=教育基本法に根底から矛盾していることは極めて重要である。神世紀四国の政治過程を具体的に分析するうえで、このことは格好の材料を提供しているはずである。この点については、別稿を期したい。あるいは、こうした前節で指摘した「神政国家」としての神世紀四国を思うにつけ、「多くの国民に対して説かれ、国民自身によって読み上げられ、記憶され、身についた生き方となった」教育勅語のことも想起せずにはおられないし、学校教育(とりわけ学校行事)が天皇と皇室の崇敬に関わる儀礼システムの確立とともに「国家神道」の定着・普及に重要な意味をもったことも思い返さざるを得ないが(島薗進国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)参照)、(「『御記』という問題 ―ゆゆゆにおける勇者御記の意味―」(以下、御記論と呼称)の注6に示したような)「国家神道」論の問題も含めて検討にはなお多くの時間を要するものだろう。この点も他日を期したい。

 

 

terasue-sohcho.hatenablog.com

 

 

3、花本美佳の「神樹教」批判・再考 ―神樹信仰の「異形」性―

 

・神世紀移行期・神世紀の「巫女」たち

 

神世紀移行期にせよ神世紀にせよ、「勇者」たち―「バーテックスに対抗できる力―それを発現した少女」―の戦いを支えるものとして大赦が存在することは既に述べたが、そこでは「巫女」という存在も欠かせない役割を果たしている。巫女とは、「勇者や民を導くための神託を受ける力―それを発現した少女」であり、神職たちで構成された大赦は勇者と巫女をその管理下に置いている(神世紀移行期の大赦は「大社」と名乗っていた)。

 

神世紀移行期では、「西暦勇者」を発見した乃木若葉の巫女・上里ひなた、土居球子・伊予島杏の巫女・安芸真鈴、郡千景の巫女・花本美佳を中心として多数の巫女たちが存在しており、高嶋友奈の元・巫女かつ現・神官の烏丸久美子はその教師を務めている。彼女たちは「清めの儀式」(「滝垢離」)、「学校の授業」、そして「祝詞を覚えたり、神道の知識を教えられたり、舞いや舞楽など儀式に必要な技能を練習したり」する日々を送っている。だが、勇者とバーテックスの戦いは「樹海」でおこなわれるため、「樹海化した空間を認識し、行動することができるのは勇者様とバーテックスだけ」である。「戦いが始まったことにさえ気づけない」し「気づかぬうちに、戦いは終わってしまう」。そして、「勇者様が死んだことにさえ気づけない」。巫女たちは「神樹様に仕え、その神託を聞くことが仕事だけど、それ以外についてはやはり子供なので」、「いろんな調査だとか対策だとかは、大社という組織がすべてを担」ってしまい、巫女個人としては「大したことはできない」のである(勇者たちの「お目付け役」だった上里ひなたは除く)。

 

こうした状況は神世紀の巫女においても同じことが言えるだろうが、神世紀の巫女と移行期の巫女とで明確に異なるのは、そのような大赦(大社)や神樹信仰のあり方が必ずしも自明ではなかった点である。そして、移行期の巫女たちのなかで、大社および神樹信仰のあり方を批判的にまなざす人物が出てくるのは当然のことだった。「巫女の誰か」によって「公表されていない土居と伊予島の戦死の情報が、ネット上に流」されるなど、「大社への反抗」が顕著に発生していたのであり、ついには「巫女を道具としてしか見ていなかった」大社=大赦が「反発」の挙げ句に上里ひなた率いる巫女たちによって「簒奪」されるに至るのである(「簒奪」時点では「大赦」に改称済み)。当然のことながら、そうした現象を可能にするのは大社=大赦に対する心情的反発である。だが、まさにそのような反発を現実の「簒奪」へと導出する「急進主義」の過程とは、神世紀移行期という時代・社会のもつ流動性に基づくものだと言わなければならない。この時期の大社=大赦や神樹信仰は形成過程の渦中にあるのであって、完成された「一元的」宗教体系の内部には存在していない。だからこそ、こうした流動的性格は、神樹信仰を検討するに最適格の材料を提供していると言える。

 

・花本美佳の「神樹教」批判・再考

 

以下では、大社・神樹信仰を徹底的に批判した花本美佳に注目し、その「神樹教」批判を再考することを通して、神樹信仰の「異形」性を指摘してみたい。

 

その「神樹教」批判は基本的に以下の箇所にある通りである。

 

 

「みんなで「いただきます」を言って、それぞれ食べ始める。

神様に祈りの言葉を捧げたりだとか、堅苦しいことはしない。

「本来は」花本ちゃんが言う。「神道にも食前の祈りの言葉とかあるんですけどね。もちろん大社の大人たちもそれを知ってるはずだけど。その祈りの言葉は、『神樹教』の教義とは合わないんでしようね」

花本ちゃんは、大社が教える宗教大系のことを神樹教と呼ぶ。以前「それって神道と何が違うの?」とアタシ(安芸真鈴:引用者注)が尋ねたことがあった。花本ちゃんは、一神教とか多神教とか神道とか古神道とか、よくわからない用語をたくさん使って説明してくれた。アタシは「あーなるほどねわかる」と答えながら、一割も理解できていなかった。花本ちゃんもアタシが理解できていないことを理解していただろう。

とにかく、日本の神様すべてではなく、四国に出現した神樹様を一番に信仰しているから、神樹教とでも呼ぶべきなのだとか。

花本ちゃんは昔、親から教わった祝詞を唱えて、大社の神官から「その祝詞はふさわしくない」と注意されたことがある。そんな経験を持つ彼女には、いわゆる『神樹教』は、神社の神道とは違うものに見えても仕方ないのかもしれない。」

 

「第一章 上里ひなたは巫女である 第一話」『勇者史外典 上』

 

 

「日本の神様すべてではなく、四国に出現した神樹様を一番に信仰しているから、神樹教とでも呼ぶべきなのだ」。美佳の神樹信仰に対する批判=「神樹教」批判の要旨は、ここによくまとまっている。前々節で検討した際に述べた神樹信仰の「異形」性を正確に把握していると言ってよいだろう。

 

美佳の指摘するように、「神樹教」=神樹信仰では、日本列島の神々すべてが「神樹」化=「一元化」されているわけではない。アマテラスなどの天の神は人類の敵となり、スサノオなどの造反神を除けば、人類の味方となっているのは、「四国地方に出現した神樹様」に寄り集まる地の神=「土地神」に過ぎない。したがって、「神樹様」に内在する神々とは極めて限定された存在にならざるを得ない。

 

しかも、神世紀移行期においてバーテックスと戦闘を繰り広げた四国地方以外の、長野県諏訪地方(白鳥歌野・藤森水都)や沖縄県(古波蔵棗)や北海道(秋原雪花)などの存在を考えれば、それらの勇者・巫女たちの戦いを可能にした土地神たちが、神樹化することなくそれらの地域にとどまったことを示唆するだろう。それゆえに、(後に「神樹」化した可能性も考えられるが)彼女たちの戦いにおいて土地神がそこにいただろうことは、筆者が前々節で想定した以上に「神樹様」が列島の神々を包含していないことも意味している。「四国地方に出現した神樹様」に含まれるのは、造反神とさらに限定された土地神に縮小するのである。

 

また、留意すべきなのは「四国に出現した神樹様を一番に信仰している」という部分である。既に「神樹様」の内実の相対的矮小性を指摘したが、そのような「神樹様」を「一番に信仰している」というのは、大社=大赦における宗教体系が「神樹教」化しているということだけではなく、宗教体系の全面的改変を意味している。これも前々節で述べた通りだが、「一元化」の過程においては、天の神系の神々を除去し地の神(の一部)・造反神系の神々に祭神を単純化する措置が加えられている。だが、美佳の指摘はそれとは異なる「一元化」の別の側面を示唆しているのではないだろうか。つまり、「一番に」信仰するということは、「神樹」化した神々=集合神を「一元的」に信仰するというのではなく、天の神や神樹化しなかった地の神も含めた日本列島の神々すべてを、神樹を頂点とした秩序のもとに再編成したと理解できるのではないだろうか。神世紀四国それ自体においては、神々の「神樹」化=「一元化」が達成されているとしても、「壁」の外においては現に天の神が存在している。日本列島の神々は変則的な形式であるにせよ、そこに存在し続けているのだから、現にある神樹と天の神における秩序や位置を(再)定位せずにはいられないだろう。筆者の「一元化」という指摘は、神世紀四国における日本列島の神々の「神樹」化=「一元化」や宗教地平の「一元化」とともに、神樹を頂点とした神々の「一元的」階層秩序の設定として把握すべきだったのである。

 

なお、美佳の指摘でもうひとつ留意しておくべきは、神道と神樹信仰の関係性である。筆者は前々節で神道の神樹信仰化=「一元化」を指摘したが、そのような宗教体系はまさしく「新しい宗教」なのであり、「神樹教」という神道の外形を被った「異形」の宗教体系にほかならない。

 

以上、花本美佳の「神樹教」批判を再考してきたが、神樹信仰の「異形」性を改めて確認することができたと言えるだろう。「四国地方に出現した神樹様」に寄り集まる地の神=「土地神」の限定性の大きさや神樹を頂点とした神々の「一元的」階層秩序の設定としての「一元化」現象、神道の神樹信仰化=「一元化」による「神樹教」の誕生などは、美佳の「神樹教」批判を再検討しなければ出てこなかった議論である。美佳の卓見をここに非常に高く評価しておきたい。そのうえで言えることは、やはり神樹信仰の「異形」性である。一連の作業を通してその「異形」性はいよいよ明らかなものになってきたと言わざるを得ない*5

 

・「神樹教」批判における世俗的宗教観の問題性

 

とはいえ、美佳の卓見にも問題のあることは指摘しなければならない。

 

というのも、その「神樹教」批判の前提となっているのは、美佳の実家である某神社の様相だからである。その某神社は「高知県の小さな村にある神社」であり、美佳の父親はその長たる宮司を務めている。父親は「宗教者」というよりは「経営者」と呼ぶべき人物であり、「神社とはサービス業を行う会社」であり「イベントプランナーであり、サービス業従事者なのだ」という「持論」をもつ人物だった(娘の美佳が巫女となり大赦に務めるようになったことで、彼もまた大社=大赦の神官として勤めるようになった)。そのような父親のあり方を引き合いに出して美佳が大社=大赦の批判をおこなっているのだから、彼女においては大社=大赦と実家の某神社が(一方が+であり他方が-であるような)対立項として把握されているわけである。つまるところ、後者の某神社の会社的・企業的経営体としての神社像、引いては神道像というのに積極的意味付けを与えられていることになる。そのことは、父親の「持論」として引用されている箇所において、明らかであると言わなければならない。

 

 

「「結構重要な役職だったりする? なんたって勇者の巫女の父親だし」

 「いえ、まったく重要な役職ではないです。大社の神官なんて向いてないんですよ、父には」

「うわ、お父さんに対しても花本ちゃんは毒舌だねえ」

「父自身が向いていないと言っていたんです。父は神職としては優れた人です。だからこそ、大社には合わないんです」

父は神社の長たる宮司でありながら、その性質は宗教者ではなく、経営者だった。父は自らの神社を会社と考え、そこに勤める巫女や神職のことを社員と呼んだ。 初詣や七五三などの定期業務をきっちり盛り上げ、横の繋がりを強めることで営業を行って寄付を募り、地鎮祭などの仕事をもらい、日々の売上をあげて社員を養っていた。

その結果、立地も悪く観光地でもない小さな零細神社を、廃れさせずに守ることができていた。父は神社の経営者としては優秀と言えるだろう。

神社とはサービス業を行う会社なのだ、と彼は言う。科学が隆盛して以降、お祓いや呪いの効果を本気で信じている者は激減した。しかし信じていない者でも、年始には初詣に行き、子供が育てば七五三の儀式を行い、ビルを建てる時には地鎮祭を行う。それは結婚式や誕生パーティーなどと同じような一種のアミューズメントでありイベントである。つまり我々はイベントプランナーなのだ――というのが、持論だった。

「イベントプランナーである我々が、外敵との戦いの指揮を執ったり、勇者という名の兵士のサポートをしたりなど、うまくできるわけがない」と父は言った。

現代の神職たちは、神に関しては専門家だが、戦争に関してはまったくの門外漢。だから父は、自分に大社の神官など務まらないだろうと考えた。しかし結局、経営者として優秀な父は、時代の流れから外れるべきではないと判断して大社に入ったのだ。

大社はバーテックス対策の中で悪手を打ったり、うまい動きをできなかったりすることが少なくない。それも当然だ。神官たちの多くは父と同じように、戦争のために何をすればいいのかわからず、手探りで物事を進めているのだろうから。

「……どうして私の父のことを聞くんですか?」

「いやー、もし花本ちゃんのお父さんが大社の偉い人だったら、アタシたちが知らない情報も知ってるんじゃないかと思って。上里ちゃんの神託のことで、四国に何か危険な兆候があるのかとかさ」」

 

「第一章 上里ひなたは巫女である 第二話」『勇者史外典 上』

 

 

だが、そのような理解は果たして正しいと言えるのだろうか。

 

マックス・ヴェーバー氏やエミール・デュルケーム氏以来の世俗化論およびその俗流的理解のように、「社会が近代化・合理化するにつれ、宗教は衰退する。したがって、現代社会は非宗教的・世俗的社会」という見方、あるいは個人の意識における「宗教は徐々に合理的精神によって取って代わられてゆく」という見方は、留保をつけるべきである。「少なくとも宗教が世界中のどの社会においても、そして膨大な数の個人に対して、依然として広範な影響を強く及ぼしているという事実を指摘するにとどめておく」とする宇都宮輝夫氏の見解がもっとも妥当である(宇都宮輝夫『宗教の見方』(勁草書房、2012年))。

 

神樹信仰の「異形」性はいくら強調してもしすぎることはないが、それはあたかも「世界史の基本法則」の如き、世界史を必然的「世俗化」=「合理化」の過程として把握するような流れに棹差すものではない。いわゆる「新宗教」や「スピリチュアリティ」の存在、あるいは「宗教からスピリチュアリティへ」の転換に明らかなように、世界史の現実として「世俗化」的現象が前景化してきたものだとみなすにはいささか飛躍が過ぎるのである(島薗進新宗教を問う』(ちくま新書、2020年)・島薗進ポストモダン新宗教』(法蔵館文庫、2021年、初出2001年)参照)。したがって、美佳の父が「時代の流れから外れるべきではない」と判断したように、(それがいかなる要因に基づくにせよ)「世俗化」に逆行する流れが生じてきてもおかしなことではないのであり、某神社の会社的・企業的経営体としての神社像、引いては神道像が肯定的に扱われるべきか否かは措くとしても、そのような形態が必ずしも時代的・社会的時流に即したものではないということは留保するべきである。

 

4、補論 神世紀四国における「敗北の構造」 —巫女「である」ことの陥穽—

 

吉本隆明「敗北の構造」を読む

 

「敗北の構造」という言葉がある。

 

それは戦後日本を代表する詩人、評論家である吉本隆明氏の講演の題名であり、その後、ほかの講演とともに書籍化された際にはその題名にもなっている。正確に言えば、明治学院大学で1970年6月10日に開かれた「社会主義学生同盟明治学院大学支部と南部反帝戦線明学大班の主催」による「6・10反帝戦線・社学同政治集会」における講演の題名であり、それを文字に起こし書籍に収録したものが『敗北の構造 吉本隆明講演集』(1972年)である(ほぼ日刊イトイ新聞吉本隆明の183講演 敗北の構造」(https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a018.html(2023年9月24日閲覧)))。

 

しかし、それは本節の本筋とは関係ない。ここで問題としたいのは、吉本氏がその講演において提起した「敗北の構造」概念のことである。本節では、まずそれを紹介した後で、丸山眞男氏の「『である』ことと『する』こと」や石母田正氏の『中世的世界の形成』を引用しながら神世紀四国を分析していき、最終的に「敗北の構造」概念を神世紀四国に見出していくこととする。冗長な構成になってしまうことをお詫びしつつ、以下からそれを始めていこう。

 

まず吉本氏の言う「敗北」とは、「現代の敗北」ではなく「大変大昔の敗北」を指すものである。具体的にいえば、「天皇制権力自体が、統一国家をせしめる以前に存在した、そういう日本の全大衆が総敗北した」ことを意味している。

 

そもそも日本列島には統一国家(ヤマト政権)が誕生する以前(「千数百年前以前」)には、「群立した多数の国家」が存在していたわけである。だが「天皇制権力」(天皇家)は、そのような状態(「現代のなになに郡というようなくらいの大きさ程度の国家というものが、群立状態で存在した」)を「武力的にあるいは国家的に制圧して」統一国家を成立させたのであり、「素性がわからない勢力」であるところのそれ(「天皇制権力」)は「日本民族」―統一国家成立以降の「文化的、あるいは言語的に統一性をもった」人々の総称―だとしても、決して「日本人」ではないとされる。

 

そのような「素性がわからない勢力」たる「天皇制権力」は、「群立した多数の国家」内部に存在した「国家としての法権力」を、一方では「国家、または共同体の法的規範」を「自らの規範として吸い上げる」ことを通して「法的統一性」を喪失させる方法で、一方では群立国家の「共同幻想」(「法、宗教、それから風俗、習慣、そういうもの全て」)と統一国家の「共同幻想」を交換することを通して「元来そこの上におおいかぶさってきた」はずの「統一国家を成立せしめた勢力」を「それ以前からあたかも存在したがごとく」誤認させる方法で、喪失させ「統合」していくのである。

 

とりわけ後者の過程においては、群立国家の首長・大衆が(交換した「共同幻想」を)「あたかも自らの習慣あるいは自らの法律あるいは自らの宗教というような受けとり方で、受けとる」ことになるため、「たかだが千数百年前に存在したにすぎない統一国家の勢力が、あたかも遠い以前から存在したかの如く装うことができ」るのみならず、それらの「共同幻想」を「本来的にもっていた風俗、習慣、法というようなものよりも、もっと強固な意味で、あたかも自分のものであるかの如く受けいれる」ように仕向けられる。

 

すなわち、「大変大昔の敗北」とは「国家としての法権力」を喪失させ「天皇制権力」=統一国家のもとに群立国家を統合していく過程における日本列島の総大衆の「誤認」―「天皇制権力」への「日本の大衆の総敗北」―を意味し、「敗北の構造」とはそのような「誤認」の構造、言い換えれば「本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らの所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚するという構造」―「奴隷的観念」の構造―を指しているわけである。

 

そうした先にある「国家といえば天皇制国家、という一種の錯誤、あるいは文化といえば天皇制成立以降の文化というふうな錯誤」が極めて「現代的」な問題であることは言うまでもないだろう。実際、吉本氏は「青年時代以降、自分で自覚的に敗北だったな」と考えていることとして、アジア・太平洋戦争の敗戦時における「敗北」―抵抗の不在と支配層の温存―や労働運動における「敗北」―運動退潮後の「主犯」に対する職業上・仕事上・事務上の徹底的無視―、1960年の安保闘争における「敗北」―闘争後の激しい「ゆりもどし」=「反動」への服従―を挙げている。

 

三番目の「敗北」について補足すると、それは闘争の敗北=失敗以後を焦点化した「敗北」の問題であり、「敗北」そのものではなく「敗北」への抵抗のあり方を説明している。具体的には、吉本氏の「もの書きとして、おそらくそういう世界からはシャットアウトされるにちがいない」という危機に対する抵抗―「書くことに対して必然があるなら、シャットアウトされても、やはり書くべきもの、あるいは書きたいものは書くという場をつくらなければならない」―を語っており、「景気が悪くなるとどっかへいっちゃう」のではなく、個人にせよ組織にせよ「大変きつい」「克服」の意義を強調している。

 

ともかく、「敗北」および「敗北の構造」とは「現代的」にも大変根深い「伝統的な様式」だと言えるわけである。だが、このような「敗北の構造」の絶対的性格は必ずしも問題にはならない。吉本氏によれば、「国家権力、法権力というものは、首のすげかえができる」のであり、「首のすげかえができるということは、横すべりできること」を意味するという。「天皇制権力」がそうだったように、「よそからやってきて、横から統合することは、少くとも理論的には可能」なのである。それは、たとえば群立国家のうちのひとつが統一国家を形成したとしても、同じことである。なぜなら「国家権力というものは幻想性を本質」とする以上、「そんなこと(とは:引用者注)無関係に横からやってきて、上にかぶさることができる」からである。「天皇制権力」の絶対的外形性は「ある種の迷信」に過ぎず、「敗北の構造」も「ある種の迷信」に過ぎないというわけである。

 

 

「こういう問題は、象徴的にしかいえませんし、また具体的にいうと文句いうむきもいるでしょうから、いいませんけれども、そういうことは、部族的な群立国家が、統一国家勢力によって支配されるなかで、種族的には異族であっても、また空間的に遠いところの勢力であっても、いっこうかまわないので、上位にかぶさることができるということです。このことは現在でも、国家についてのある種の迷信をうち破るには、有効じゃないかとおもいます。簡単ですけれども、これで終わらせていただきます。」

 

吉本隆明「敗北の構造」(『敗北の構造 吉本隆明講演集』弓立社、1972年、初出1970年)

 

 

・大社=大赦の限界性・問題性

 

吉本氏の「敗北の構造」概念の紹介はここで終わりとし、ここからは前節で触れた花本美佳ら巫女たちおよび大社=大赦の限界性・問題性を、丸山眞男氏の「『である』ことと『する』こと」や石母田正氏の『中世的世界の形成』の議論を用いながら指摘していきたい。

 

まず大社=大赦の限界性・問題性については、ほとんど明白だと言ってよいだろう。「神に関しては専門家だが、戦争に関してはまったくの門外漢」の「イベントプランナー」に過ぎない「現代の神職」たち(神官)で構成された大社=大赦の組織は、そうした「部外者の門外漢たちがトップに立ち、舵を取っている」性格によって「歪な組織」たらざるを得ない。大社=大赦の神官たちは「神樹からの神託を受けている」わけでも「自らがバーテックスと戦っているわけでもない」にもかかわらず、巫女と勇者はその管理下に置かれるだけの存在になっている。「ちょっと神様に詳しいだけの一般人」=「戦争の経験も、統率者としての資質もない人」が「大多数」であり、その実「迷惑に思っている人は多い」。そのような「門外漢で部外者の人間たちが、勇者様の命を握っている」状況は危険極まりなく、実際に勇者の置かれた状況を十分に確認せずに対応したことで、勇者・郡千景は「戦死」してしまった。このような有様を晒してしまったのが、神世紀移行期の大社=大赦だったのである。

 

大赦「簒奪」事件と巫女たちの限界性・問題性

 

それでは、花本美佳ら巫女たちの限界性・問題性はどのようなものなのだろうか。それを示すためには、彼女たちによる大赦「簒奪」事件について触れなければならない。

 

実のところ、先ほどみたような大社=大赦の惨状こそ、「簒奪」へのトリガーとなったものである。勇者を危険に晒すようなら、「組織をうまく運営できない」「子供」だとしても「勇者様を守るための判断ができる」巫女の上里ひなたの方が、よほど「適任」ではないのだろうか。このような提案は(千景戦死直後にその遺体を奪還するために)既に大赦を離れた美佳によってなされたものだったが、その言葉はいま現にある危機を前にして、提案された上里ひなた本人の内にその「選択肢」を現実化させる。

 

 

奉火祭の説明(滝乃大祐作画『乃木若葉は勇者である ④』(KADOKAWA、2018年))

 

 

「奉火祭」―「六人に巫女を犠牲にし、赦しを乞う言葉を天に届ける。人類は敗北を認め、これ以上の攻撃をやめてもらおうという儀式だ」―を終え、「天の神から赦された者」という意味を込めた「大赦」への改称・西暦に代わる暦表記の神世紀への変更などの決定されるなかで、「唯一生存している勇者として神聖視され、カリスマ化していく」乃木若葉を「利用」するだろう大赦から「絶対に守らなければならない」。そのように考えたひなたは、「話し合う内容よりも、派閥の力関係や発言力の競い合いが重視される」「くだらない」会議に失望し、「大社の誤った舵取りの犠牲になる」ことを防ぐために「私自身が大社を掌握しなければならない」と決意する。「巫女たちの強固な結束」と(千景戦死後に大赦を出奔した)花本美佳の召喚などの「準備と根回し」を経た後、安芸真鈴に率いられた巫女たちとともに虚偽の「神託」を受けたと称して大赦に乗り込んだひなたは、「神樹様があらゆる決定を神官たちから奪」い「すべての物事は神樹様の神託通りに行われ、神官は何も口出しできなく」させることに成功する(巫女たちの全面的協力は、彼女たちを「道具」としてしか見なかった大赦の姿勢への反発によって成り立っている)。

 

 

「「神託の内容は・・・・・・?」と神官たちが尋ねてくる。

「これまでは社会と大赦の運営を人間に任せていたが、今後はその運営を神樹様ご自身が行う――とのこと。これからは神託の頻度を増やし、あらゆる決定を神樹様ご自身が下す。大赦は神樹様の決定に万事従うべし……と」

(中略)

「そ・・・・・・その神託は間違いないのですか、上里様」

神官の一人が恐る恐る尋ねる。

「間違いありません」

私(上里ひなた:引用者注)ははっきりと断言した。

「アタシたちにも、昨夜まったく同内容と思われる神託が下りました」

会議室の扉が開き、 安芸さんを先頭に他の巫女たちが部屋に入ってくる。

「今後は神樹様があらゆる決定を行い、大赦は神樹様の決定を忠実に実行せよ――と。 巫女全員がその神託を受けています」

安芸さんがそう言うと、さらに花本さんも続く。

「神のご意思に反した場合、人間への加護の一切を取り消すとのことです。私たち巫女全員に 同じ神託が下ったということは、非常に優先度の高い、厳守すべきご命令なのだと思われます。速やかかつ忠実に実行すべきかと」」

 

「第一章 上里ひなたは巫女である 第五話」『勇者史外典 上』

 

 

もちろん、「それでは、神託の精査は誰が行うのですか! もし神託が真実でなかったら・・・・・・!」と、ある神官が懸念したように、ひなたは「嘘をついている」。「神託を受ける力がない」神官たちは「巫女が結託して嘘をつけば、それを嘘だと確かめる方法が」存在しないのである。だが、烏丸久美子の脅迫を前にして動揺したり反抗したりした神官たちは(事前に根回しをおこなわなかった者も含め)ひとり残らず屈服を余儀なくされる。そうして大赦の決定権は巫女に委譲された。「簒奪」はここに完了することになる。

 

 

「今後、私が「神託だ」と言って告げた言葉は、すべて本当の神託として扱われるようになる。

そして神託で大赦のすべてを決定できるなら、私がすべての決定権を握ることになる。」

 

「第一章 上里ひなたは巫女である 第五話」『勇者史外典 上』

 

 

以降の大赦は「今まで権勢を誇っていた神官たち」による「妨害や反抗」の繰り返しに対処しながら、ひなたの「神託」とひなたに味方する巫女と神官の協力によってそれを排除し、「大赦を人々に寄り添った組織」にする改革を軌道に乗せていくのである。

 

こうした経緯を見ていくと、大赦の健全化を実現した「簒奪」には、一見、肯定的評価を与えることができるだろう。少なくとも「勇者様を守るための判断ができる」ひなたや「大赦を人々に寄り添った組織」となった大赦には、そのように評するとしても問題はあるまい。だが問題なのは、彼女の「組織である以上、長い時が流れた後には、いつかまた腐敗するでしょうが・・・・・・」という懸念の通り、本当に「腐敗」してしまう大赦の「構造」的性格である。乃木若葉の以下の発言に安易に与することができるほど、神世紀四国の状況は楽観的ではない。神世紀298年に「先代勇者」の犠牲を、神世紀300年に勇者部の犠牲を、それぞれ大赦の不十分・不必要な対応によって生んだことに鑑みれば、それは受け入れることができないのである。あるいは御記論で指摘したように、「正しい道」が「乃木園子体制」だと言うなら、それはあまりにも醜悪である。

 

 

「それはその時代に生きる者たちに任せるしかないさ。心配することはない。きっと未来にも良き心を持った者が生まれて、正しい道を拓いてくれるだろう。」

 

「第一章 上里ひなたは巫女である 第五話」『勇者史外典 上』

 

 

まさにそのような犠牲を生んだ大赦のあり方(「腐敗」)とは、時間的経過にともなう必然的帰結や人間組織の絶対的帰趨ではない。既にそれは「簒奪」の時点において胚胎されていた「構造」的要因によるものである。そして、それこそ巫女たちの限界性・問題性にほかならない。

 

先に結論を述べれば、「腐敗」を運命づける大赦の「構造」的要因とは、「である」ことの論理の全面化であり、そうした傾向を巫女たちにおいて継承・増幅することによって「腐敗」の「構造」的性格を決定的なものにしたのである。「限界性・問題性」とは、このことである。

 

・神世紀四国をめぐる「『である』ことと『する』こと」

 

丸山眞男氏によれば、「する」ことによって「であり」うる近代社会への移行は、「である」論理・「である」価値(=身分・年齢・家柄などの「帰属」)から「する」論理・「する」価値(=「業績」)への「相対的」重心移動を指標とする(もちろん、前者が完全に消滅するわけでもないし、後者が全面化することが望ましいわけでもない)。だが、現代日本社会では、持続的「状態」(「である」こと)を理想化する傾向が強く、「前近代」の「である」社会のあり方を残存させている。しかも、政治では「である」価値の全面化、余暇では「する」価値の全面化というような「倒錯」を発生させているのである(丸山眞男「『である』ことと『する』こと」(『日本の思想』岩波新書、1961年、初出1958年))。

 

こうした問題は神世紀四国においても同様である。大社=大赦を構成する神官や勇者・巫女というのは、基本的に神官「である」こと・勇者「である」こと・巫女「である」ことによって成り立っている。そこに「する」論理の介在する余地は存在していない。一度神官となったり「神樹様」に勇者・巫女として選ばれたりすれば、絶えず大社=大赦という組織に拘束されることになる。とりわけ勇者・巫女がそうであるように、そう「である」ことは、生活のすべてを、そしておそらくは人生のすべてを勇者「である」こと・巫女「である」ことに捧げなければならないことを意味している。つまるところ、それは「身分」的相貌を色濃く残している。既に見た大赦「簒奪」事件にしても、大赦の主導権を神官から巫女にスライドさせただけに過ぎないのであり、どちらにせよ「である」論理は通底している。そうした「構造」的性格こそ、大赦の組織全体をひとつの「状態」として固定し、神世紀の300年間にわたり継続させてきた要因にほかならない。

 

神世紀298年の先代勇者たちに典型的だが、「代々、大赦の関係者一族から輩出されている」勇者の性格(『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」第1章 劇場パンフレット』)に加え、「適性検査で勇者の資格をもっていると判断された」東郷美森を「大赦のなかでも力をも」ち「立派な家柄」とされる「鷲尾家に養女として入」れたうえで「お役目につ」かせた事実(1期10話の東郷美森)は、端的に神世紀3世紀の大赦が「身分」制社会と化していることを伺わせる。乃木家や鷲尾家、上里家などを頂点とした「身分」的階層秩序を形成し、しかもそれを「家柄」などという世襲的構造と同期させていることは、「である」ことの論理の全面化現象というべきである。

 

「私たち東郷の家にも大赦で働く一族の血が入っている」とする1期10話の美森の母親の発言や「身分」的階層秩序の下位に属するだろう犬吠埼家・東郷家および完全に非大赦関係者たる結城家の存在を考えれば、「総力戦体制」の末期的「民主化」作用を想起しなくもないが、そうした傾向は単純に大赦の「身分」的階層秩序の動揺と崩壊の過程を指示しているに過ぎないだろう。むしろそのように至るまで(大赦の「身分」的階層秩序の維持という意味での)大赦「である」ことをやめようとしなかったことをここから読み取るべきである。そして、こうした姿勢が「である」ことをやめようとしなかった神世紀移行期の大社=大赦の姿勢に共通することは言うまでもない。神世紀移行期の「状態」の固定化こそ、神世紀3世紀末の光景の原因である。

 

さらに言えば、そうした「である」論理は先に見た大赦「簒奪」事件によって再強化されてしまっていることを指摘しなければならない。簒奪を成功させた要因は「神託」の偽造と巫女たちの結託である。簒奪が可能になるのは、簒奪者が巫女という神託を聞く能力を唯一もつものだからである。そのような能力を逆手に取ることで「神託」を偽造し、しかも同じような能力をもつ巫女たち全員と結託している以上、巫女「である」ことのすべてが簒奪を成功に導いている。このような姿勢は動機の面では正統性を調達できているように思えても、巫女「である」ことを正統性に掲げているからには、巫女「する」ことを必ずしも果たさなくても―神樹の神託を正確に伝えなくても―良いことになる。こうした先にあるのは、巫女「である」ことへの居直り・安住ではないだろうか。その後の「腐敗」化の契機はここに求められよう。

 

もちろん、上里ひなたを中心とする巫女たちはその正統性―「勇者様を守るための判断」や「大赦を人々に寄り添った組織」の実現―通りに大赦の改革を遂行したことだろう。だが、その後に本当に「腐敗」したように、「である」論理を払拭するどころか継承・増幅させてしまったことで、「身分」的階層秩序のような自己目的化した閉鎖的組織を到来させてしまったのではないだろうか。神官の多元性からみれば、むしろ神官たちの方が「である」ことの多元性の点で相対的に「マシ」だったとも言えるだろう。「神樹様があらゆる決定を神官たちから奪」い「すべての物事は神樹様の神託通りに行われ、神官は何も口出しできなく」させる大赦のあり方は、むしろ花本美佳に「歴史上稀に見るほどの歪な組織」と形容された大社=大赦よりもさらに「歪」になっているようにも思われる。「私が「神託だ」と言って告げた言葉は、すべて本当の神託として扱われるようにな」り、「神託で大赦のすべてを決定できるなら、私がすべての決定権を握ることになる」ような大赦など、「独裁」体制と言わずして何と呼べばよいのだろうか。神世紀四国を「神政国家」と形容することは、比喩ではなく「正しい」。

 

こうした体制の実現=大赦の簒奪を意図せず招き寄せてしまった神世紀移行期の巫女たちには、そのように巫女「である」ことをめぐる「限界性・問題性」があったと言わなければならない。本来的にあった「である」ことの論理の全面化と、「である」論理に基づく大赦の簒奪は不即不離に大赦を「腐敗」へと導いたのである。巫女たちは批判していたはずの神官たちと「である」論理においてまったく同じ性格をもっている。簒奪の成功は、ともすると「失敗」でもあったと言えるだろう。

 

・神世紀四国における「蹉跌と敗北」、あるいは「敗北の構造」

 

そうした、巫女たちの陥った「失敗」を考えたとき、石母田正氏が伊賀国黒田庄(=東大寺領荘園)で東大寺に対する反抗を繰り返した「黒田悪党」を評した言い方でいえば(石母田正『中世的世界の形成』(岩波文庫、1985年、初出1946年)参照)、巫女たちは大赦のために敗北したのではなく(むしろ勝利したわけである)、巫女「である」ところの「自分自身に敗北した」と表現することができる。同様に、神世紀四国における「腐敗」化の進行=「である」ことの論理の全面化の歴史についても、(黒田悪党と同じく)「蹉跌と敗北」の歴史を繰り返したのだと言えるだろう。あるいは、「子々孫々同一土地において同一支配者を戴き、同一の神仏を礼拝する場合、数世紀は数十年に等しいのである」とする石母田氏の指摘は、神樹信仰の「一元化」や先に見た巫女「である」ことによる大赦の簒奪=「独裁」体制の確立において、(それらと神樹の関係性の次元で)極めてよく当てはまっている

 

こうした「蹉跌と敗北」の歴史にどれほどの射程をもたせるべきなのかという問いはひとまず措くとしても、そのような神世紀における「蹉跌と敗北」の歴史を振り返ったときに思うのは、吉本氏の「敗北の構造」概念だろう。それは、「本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態というものを、自らの所有してきたものよりももっと強固な意味で、自らのものであるかの如く錯覚するという構造」のことだった。それらは「ある種の迷信」なのかもしれないが、「自らのもの」だと「誤認」することで所与のものとして再生産し続け「敗北」し続けることになる。そうした「錯覚」=「誤認」=「敗北」の連鎖的再生産の長期的連続性を「敗北の構造」と呼ぶなら、神世紀四国とは、神樹・神樹信仰およびそれらより生じるあらゆる事物―神官、勇者、巫女、そして大社=大赦など―からなる「本来的に自らが所有してきたものではない観念的な諸形態」を、あたかも「自明」のものとして「錯覚」し続けるようになる過程だったのではないだろうか。ひとつには神樹信仰の定着過程として、ひとつには大社=大赦内部における「である」論理そのものの固着化現象として、「敗北の構造」を指摘することは不可能ではあるまい。神世紀四国における「敗北の構造」とは、まさにそのようなものを指している。

 

5、日本列島の神々を問いなおす 日本列島における神々の系譜と神世紀四国の「異形」性

 

・日本列島の神々を問いなおす

 

本節では、まず日本列島史における神々の系譜を辿ったあとで、神樹信仰の「異形」性を指摘することとしたい。

 

その神々の系譜については、それを辿ろうと思えばいくらでも太古の昔に遡れるだろう。だが、本コラムにおいては、そうした「神々」のことを「記紀神話」に登場する如き「神道」の神々を主な対象だと差し当たり仮定しておきたい。異論のあることは十分承知しているが、筆者の無能力ゆえにそこまでの内容は書くことができない。ご承知おき願いたい。

 

なお、以下の記述は古代・中世を佐藤弘夫『「神国」日本』(講談社学術文庫、2018年、初出2006年)、近世を伊藤聡『神道とは何か』(中公新書、2012年)・井上智勝『吉田神道の四百年』(講談社選書メチエ、2013年)・佐藤前掲書、近代を安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979年)・千田稔『伊勢神宮』(中公新書、2005年)・島薗進国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)・伊藤前掲書・佐藤前掲書に拠った。

 

・日本列島史における神々の系譜(古代)

 

日本列島史において最初にしっかりとした神々の秩序が出現したのは、7世紀の天武天皇の頃である。天武天皇壬申の乱に勝利するとともに中央集権国家化を強力に推進したことはよく知られているが、天皇号の採用もおそらくはこの時期のことと考えられている。「天皇」(スメラミコト)という称号は、「大王」(オホキミ)のように「相対的」称号ではなく、「他の王族や氏族の長とは隔絶した威力を有する、唯一至高の存在であることを誇示しようとする強い意味合い」をもっていた。そのように圧倒的専制権力の確立を目指した天武の試みは、「王の地位の神聖化」へと向かう。天皇を神とする「現御神(あきつみかみ)」(明神)の思想が登場し、天皇が「一般人民とは隔絶した神秘的存在」へと上昇を遂げていくのは、これが契機である。

 

こうした天皇の地位の神聖化は、当然に天皇権威の源泉たる皇祖神(天皇家の祖先神)=天照大神の地位を急速に上昇させていく。それまでであれば、それぞれの氏族が自分の祖先神を祀っていたわけだから、神々の間に「上下関係」はなかったはずだが(したがって天照大神も必ずしも特別視されたとはいえない)、「オホキミ」は「現御神」=「スメラミコト」となった以上、状況は一変せざるを得ない。

 

伊勢神宮天照大神は、ほかのいかなる神社と神々をも凌ぐ、最高の国家社と国家神でなければならないし、神々の世界は天照大神とそれを祀る伊勢神宮のもとに各氏族の神々を統合する方向に向かわなければならなかった。『古事記』と『日本書紀』とは、そうした神々の再編の達成である。とりわけ前者では、膨大な数の神々とそれを祖神とする諸氏族が天照大神天皇家の系譜に結び付けられることによって「神々と氏族の序列化」が成し遂げられ、書物を構成する説話・エピソードが高度に体系化され、「皇祖神を中心とする有機的な一つの神話体系」を形成している。

 

神話の体系化と神々の再編とともに、神祇制度も大幅な改革と整備が進められる。大嘗祭の創出によって新天皇と神々の関係を取り結ぶための儀式が成立し、諸国の主要な神社を官社として登録し2月の祈年祭(としごいのまつり)の際に幣帛(神への供物)を下賜するシステムも構築された。後者は国家の干渉が及ばなかった氏族の神々を一元的な祭祀体系に組み込むものであり、班幣(幣帛を分かち与えること)の代償として天皇のために祈ることを義務づけるものだった。したがって、律令制下の神祇祭祀に位置づけられた諸社は、天照大神を祀る神宮を頂点として捧げられる幣帛(貢ぎ物)の数量や社格によって序列化され、整然としたピラミッド型階層秩序を構成するに至った。

 

・日本列島史における神々の系譜(中世)

 

10世紀になると、こうした「完璧に整えられこの上なく強固にみえた神々の秩序」は動揺し始める。理由は律令制を基盤とした古代的支配体制の動揺と解体だった。古代的律令制支配の解体は国家に寄生してきた多様な人々や機関に対して、国家からの十分な支援が得られないという事態をまざまざと見せつけた。貴族階層や有力寺院のみならず、官社・官幣制度によってその秩序を保証されていた神祇界も当然にこの深刻な衝撃に直面したのである。国家に依存せずにみずからの食い扶持を自分で稼ぐ必要に駆られた有力神社は「官社の衣を脱ぎ捨て」ざるを得ず、「神領」=荘園の集積と支配に取り組んだり不特定多数の人々を神社へいざなったりするようになる。神社の存亡は「土地」と「人」をどれだけ集められるかにかかっていた。伊勢神宮もこの例外ではなく、御師と呼ばれる人々が列島各地を歩き回って神宮への土地の寄進を募っていた。中世の「御厨」=伊勢神宮領はその成果である。

 

当然のことながら、一連の事態は伊勢神宮を頂点とした神々の秩序を揺るがさずにはおかない。古代的神祇秩序が瓦解したことで、「国家から相対的に自立した有力社家がしのぎを削りながら、肩を並べて並存する状況」が到来する。神々の「自由競争」の時代に突入するのである。もちろん、こうした神祇界の混乱は望ましいものではないから、一定の歯止めをかけようとする対応が図られる。中央における「二十二社」と地方における「一宮・総社」の成立である。前者は中央の有力神社22社を選んで王城鎮守の役割を担うものとして特別な待遇を与えようとする制度であり、後者は各国の有力な鎮守神を選定して「一宮」と称し、一宮以下の多くの祭神を国府内部か付近の一か所に勧請した神社を「総社」としたものである。国家による政治的・経済的保証はもはや不可能だったが、代わりに確立された一連の制度によって中世的神祇体制が確立された。

 

とはいえ、「神々の反乱」が相次いだことも確かである。さまざまな有力神たちが口々にみずからの優位を主張し、諸神の頂点としての天照大神の地位は、理念レベルでも神々の上昇と反乱に直面し瓦解の危機に瀕した。中世最大の宗教権門・比叡山延暦寺を後ろ盾にした日吉山王社は山王神こそ「天下第一の名神」=日本第一の神だと主張し、「日本の国土と人民を守護すべき最高の神格としての責務を放棄して、天に昇ってしまった」ことにされた天照大神を描き出す。比叡山と並ぶ宗教権門たる興福寺を後ろ盾とした春日社も春日の神を「日本国の一切を取り仕切る役割をもったもの」と強調し、熊野本宮・石清水八幡宮・日光山なども同様にみずからの神の優越を主張するようになる。伊勢神宮でも、内宮・外宮のうち外宮の方が御師などの活躍によって力をつけ始め、内宮をしのぐ経済力をもつに至ったことで、宗教的権威においても、外宮の祀る豊受大神を内宮の天照大神と対等以上の地位に引き上げる動きがみられた。

 

それぞれの神が我勝ちに自己の威光と優越を主張する「神々の戦国時代」にあって、有力神たちは生存と上昇の絶えまない努力を要求される。その結果として、それまで特定氏族との間に不可分に有していた絆を越えて、一般の人々の間での新たな信者層の獲得が目指される。神々はもはや氏族の占有する氏神としての性格よりも大衆に共有される「国民神」としての色彩を強めるのである。

 

これまで見てきた中世の神々の「自由競争」および「戦国時代」と呼ぶべき状況―国家的神祇秩序の解体と神々の自立―は、確かに古代から中世へのひとつの重要な変化ではあるが、もうひとつの重要な変化として「神仏習合」―仏教との全面的な集合―を挙げなければならない。主要な神々はすべて仏の垂迹とされ、仏教的なコスモロジーのなかに組み込まれていくのである。

 

仏教の伝来と定着、そして成長のなかで、日本列島の神々は「仏法の守護神(護法善神)」と位置づけ、神々をなだめ癒すために―当時、神々は煩悩に悩む衆生のひとりとして信じられていた―神社の周辺に神宮寺と呼ばれる寺院が建てられる動きがうまれる。そこではいまだ寺院が付随的施設に過ぎなかったものの、平安時代後半に入ると神宮寺と神社の力関係が逆転した挙げ句、伊勢神宮を除く大規模神社の大半が寺家の傘下に入ってその統制に服するようになる。中世の神社の場合、その主導権はどこであれ僧侶の手に委ねられていたのである。

 

そのように神社と寺院の一体化が進展した平安時代には、神と仏の交渉が著しく発展する。特に、本地垂迹説という新しい思潮が誕生するとともに日本列島のほぼ全域へと拡散するのは、もっとも重要な現象である。それは、「仏(本地)が日本の人々を救済するために姿を変えて出現したもの(垂迹)と捉える見方」であり、神仏を本質的には同一の存在としてみなすところにその特色があった。そして、天照大神の本地は観音菩薩大日如来だというように、鎌倉時代までにはほとんどの神々についてその本地が特定されるに至る。

 

本地垂迹説に象徴的である神と仏の親密化・同体化に伴って、日本列島の伝統的な神々は仏教の影響を受けながら、その性格を大きく変容させていく。まず、それまで気ままに遊行を繰り返し目に見えぬ古代の神々は、律令国家の形成と永久都市の建設によって「都の主人である天皇の傍にあって、二十四時間、王の身体を守護することが求められ」たことで、(王城内外における立派な社殿の建設と定期的な奉仕・祭祀と引き換えに)ひとつの神社に常駐するようになる。9世紀になると、仏像にならって神像が広く制作されるようになり、神々ははっきりと可視化・定住化し始める。

 

こうした動きとともに、神々の性格の「合理化」現象が進行した。

 

神々が人間に対して引き起こす作用である「祟り」は、その理由を論理的に説明できず、通常の人間が予知できるものではなかった。「祟りを鎮めるためには、いかに不可解で非合理な命令であっても、神の要求に無条件に従うほかはなかった」のも当然である。だが、10世紀に成立した天皇による神社行幸に際して、天皇の使者による神前での宣命奏上に対する「返祝詞」―内容は奉献された品々の納受の謝辞と返礼としての王権護持の確約を中心とした―が成立したことは、神々が言葉や行為を介在することで人々との応酬を可能とする存在に変わったことを示していた。神々は、いわば人間との対話可能な「合理的」存在になったわけである。

 

また、神々の作用を形容する言葉が「祟り」に代わり「罰」となっていくことも見逃せない。神々はもはや「神からの一方的な頭ごなしの指示」=「祟り」を下すのではなく、あらかじめ人がなすべき明確な基準を示してそれに厳格に対応する存在と捉えられていった。そこでは、人間の側における行動の選択の自由と神に対する主体的な働きかけが認められ、人々と神々の関係は応酬可能なものへとはっきりと移っている。予測不可能な意思をもった「非合理」的存在ではない、「合理的」存在としての神々の姿をここにも看取されよう。

 

一連の「合理化」現象の後では、「賞罰の権限を行使して神領を支配する人格神のイメージ」で神々を理解するのが一般的になった。中世の神々は「常時、社殿の奥深くにあって鋭い眼差しで絶えずこの世を監視し続け、いったん神社やその領地に緩急あれば、ただちに行動を起こす」のみならず、「この世に現れ、人々にあれこれと指示を下」す存在=人格神に変わった。かれらは「人々に対して厳然たる賞罰の力を行使する、まことに恐るべき存在」である一方で、「多彩で豊かな情感を有し」、「人間的な数々のエピソードで彩られていた」。繰り返せば、古代の神々とはまったくその性格を異にしているわけである。

 

本地垂迹説に話を戻すと、それはまた二十二社制度と諸国の一宮・総社制同様に、神々が際限なき分裂や対立へと向かい神祇界を混乱に陥れる危機を阻止する機能をもっていた。個々の神々が究極的には宇宙に遍満する唯一の真理=「法身仏」の顕現だととらえる世界観を有する本地垂迹説は、一切の神の背景に共通の真理の世界を認めるため、神々を「本質的には同一の存在」だとみなす。それは仏教的世界像による観念的次元での融和の達成だった。中世の神々の秩序とは、「横一線に並んでしのぎを削る有力神が、仏教的な世界観に組み入れられ、その理念を紐帯としてゆるやかに結び合わ」されたものなのである。

 

・日本列島史における神々の系譜(近世)

 

中世の神々の戦国的状況は、二十二社制度や諸国の一宮・総社制、何よりも本地垂迹説のもつ仏教的世界観によって神祇秩序の瓦解に到達しなかった。だが、中世前期に圧倒的リアリティをもった他界観念(彼岸=あの世)が縮小し、彼岸(あの世)―此岸(この世)の二重構造が解体を余儀なくされたことで、現実世界の遠い彼方にあると信じられた彼岸の浄土に往生することに価値が見いだされなくなる。現世こそ唯一の実態であるという見方が広まっていき、日々の生活は宗教的価値から解放され、社会の世俗化は急速に進展していく。仏の居場所は現世の内部に存在し、死者の行くべき他界=浄土も現世のなかにあるものと捉えられ始める。日本列島の神を仏の垂迹とする見方は変わらなかったが、彼岸世界の衰退に伴って、もはや他界の仏・現世の神という図式は成立せず、どちらもこの世の内部にある等質な存在としての神仏をつなぐ論理に転換する。神祇秩序の瓦解を長らく食い止めた仏教的世界観は失効したのである(佐藤前掲書)。

 

彼岸世界の縮小と現世的価値観の浮上の先にある近世日本社会では、特定の一神・一仏によって神仏世界を統括することは困難だった。既存の宗教世界全体を支配する存在も当然存在しなかったのである(佐藤前掲書)。仏教勢力との対決を経たうえで成立した近世日本の武家権力(徳川政権)は、仏教に対して強い統制を加えることは可能だったが、神道・神社にはそうすることがなかった。こうしたなかで「統制」に大きな役割を果たしたのが吉田神道である(井上前掲書)。

 

室町後期に登場した吉田神道は公武の支持を得ながら宗源宣旨・神道裁許状を諸社に発行し、神位・神号の授与権や祠官の補任権を掌握することで、その影響力を強めた(仏教から独立した宗教として「神道」が成立するのも、吉田神道においてである)。創始者の吉田兼俱およびその子孫―吉田家―は着々と中央・地方の諸社への影響力を拡大していき、近世以降も江戸幕府の「諸社禰宜神主法度」においてその神社支配権を認められたため、近世を通じて神道界の権威たる地位を保つことになる(伊藤前掲書)。

 

吉田家は吉田山斎場所という全国のすべての神々を祀る施設―「本朝無双のパワースポット」―を支配下においており、すべての神々を自由自在に操る根拠を得ていた。だからこそ、「天上の神様を統御するという、天下人すらなしえない芸当をやってのける」この「神使い」は、「神々に関する諸事万端についての処理能力を、圧倒的な信頼とともに、天下人から庶民層まで幅広い階層に認められていた」。全国神職の統括者を求めた武家政権の思惑と、近世社会の安定に伴い既存権威・秩序の打破や新しい歩みを踏み出そうとする在地社会の動向が絡みあいながら、吉田家は「神道界の天下人」となっていく(井上前掲書)。

 

社会の世俗化の進展した近世日本社会。だが、人々は決して日本列島の神々への畏怖を忘れたわけではない。「大規模な城郭を築き、数え切れない人を殺し、幾度となく神仏への誓いを反故にしてきた」戦国時代の成功者たちといえども、(絶対的な力をもつ存在ではなくなったとはいえ)神々を無視できなかったのである(井上前掲書)。

 

しかし、「神使い」がいるではないか。「神様に対する人間のワガママに最大限、応え」「神々を人間に従わせる各種の方法を編み出していた」吉田家は、さまざまな各種証状を人々に付与していった(井上前掲書)。

 

たとえば、神木の伐採や土地の開墾などの神地の開発や神社の造替に伴って予想された神々の「祟り」を鎮めるために、「鎮札」(=神々の怒り・祟りを鎮めるためのお札・お守り)を発給し、神々に高い神格を示す称号や位階を授与・承認するために「宗源宣旨」を各地の神社の神々に発給し、神々に仕える人間など神社に関係する人々が神々に失礼のないように課せられていた制限を緩和・解除するために「神道裁許状」―記載内容を遵守する限り、神々の祟りは及ばないとする―を発給する、という具合である(井上前掲書)。

 

特に「宗源宣旨」については、神々の「御嫌物」―神々の嫌いなもの―を解除するために重宝され、「空前絶後の神位授与ブーム」を巻き起こすことになる。経済発展を迎えた近世社会では、全国的に商品作物の栽培・販売が隆盛したが、「御嫌物」によって特定の作物を作れない村々は深く悩まざるを得ない。そこで「宗源宣旨」の出番である。吉田家は「神様にこれ以上ない最高の位、正一位を与えて喜ばせ、返す刀でエライ神様があれがキライ、これがキライと言うんじゃありません、と毅然と言ってのける」わけである(井上前掲書)。

 

こうした「宗源宣旨」の発給は肝心の宣旨発給の根拠―吉田家は天皇から神に対する位階の授与を委任されている―の虚構性を暴露されて18世紀前半に停止されたうえ、考証主義・朝廷復古の潮流や新興勢力である白川家の勃興によって吉田家はその権益を脅かされるまでに追い込まれる。「神道界の天下人」に「なり損ねた」ということになろう。以降、吉田家と白川家は際限なき配下獲得競争にのめり込み、幕末までには「日本に存在する多くの神社関係者が、吉田家、さもなければ白川家という公家―天皇に仕える朝廷の構成員―と関係を持つことにな」る。こうした事情に加えて、吉田家による地元の神社への多数の宗源宣旨の発給や神社禰宜神主法度の発布による諸国神職への神道裁許状の発給は、「御神体や祭神が何かわからない神社」も「天皇を中心とした記紀神話の体系に組み込」み、「諸国の多くの神職が、吉田家、つまり朝廷の公家と直接つながること」を意味した。「近代日本において、神社が地元と天皇をつなぐために少ならからぬ役割を果たした」のには、吉田家の活動が大きな意味をもったのである(井上前掲書)。

 

もちろん、近代日本で天皇が重要な意味をもってくるのは、近世段階における吉田家の活動に起因するというよりも、先に見た本地垂迹の論理の失効による超越的権威の喪失に基づくものである。それまで天皇を含む地上のあらゆる存在を相対化していた彼岸的・宗教的権威の後景化のあとでは、「日本が神国であることを保証し現実の政治権力を正当化できる高次の権威」など、「古代以来の伝統をもつ神孫としての天皇」以外いなかった。幕末の政治過程を経て「日本」をひとつの統一国家にまとめようするときに、その柱となるべき存在が天皇のほかにあり得なかったのも当然である(佐藤前掲書)。

 

・日本列島史における神々の系譜(近代・現代)

 

1868年の「王政復古の大号令」の布告以後、明治国家および近代国家の歩みが始まる。大号令に曰く、「神武創業之始」=神武天皇の時代にあるとされた「祭政一致」の政体に「復古」しようとする動きが始まり、それは明治新政府神道国教化政策として実現した。外にはキリスト教流入阻止、内には神道の「純粋」化=「神仏習合的要素の排除(神仏分離)」が目指され、神社に所属する僧侶(社僧)の還俗を皮切りに、神仏判然令に基づいた仏教由来の神名使用(権現・牛頭天王など)の禁止、仏教関係用具の除去、神体の非仏像化がおこなわれ、寺院の廃合や僧侶・修験者の還俗も進められた。多くの堂舎や経巻、仏像が破却される廃仏毀釈が発生し、以降数年にわたって全国的な猛威をふるった。

 

廃仏思想を担った平田派・津和野派の国学者神職のほか、水戸学の同調者やそれらの影響を受けた新政府派遣の行政担当者などが「組織的かつ徹底的」に主導したことで、短期間にもかかわらず文化的・歴史的価値のある文物が失われたり、巷間に流出したりする甚大な被害を招いた。日吉山王社(=比叡山の地主神を祀る神社)では、同社神官だった神祇官権判事らが徒党を組んで社殿の鍵をこじ開け、仏像以下の仏具を徹底的に焼却・破壊した。興福寺でも、春日大社と一体だったことで廃寺のうえ僧侶全員が還俗させられ、二十五円で売られた五重塔は残ったものの、多くの堂舎や院家が破却された。石上神宮では神宮寺の永久寺が地上から文字通り「永久」に消滅した。各地でも松本藩・薩摩藩・苗木藩・富山藩などで特に甚大な被害が発生するなど、神道国教化政策は徹底的に遂行された*6

 

だが、政教一致の政体の実行は困難だったうえに神道関係者のみの国民教化が難航したため、仏教界の協力は不可欠だった。したがって、神道・仏教の共同した国民教化とキリスト教排斥の体制に移行せざるを得なかったが、西欧諸国のキリスト教禁令に対する反発は強く、神道国教化の政策は事実上放棄されるに至る。だが、神社制度の再編は着実に進行し、世襲神職の禁止・伊勢神宮・宮中の祭祀の改革・神社祭祀の体系化・社格の整理・神社合祀などが実行されていく。国教化の失敗に代わり「神道非宗教説」=神道を宗教の埒外に置く説が台頭するのである(伊藤前掲書)。

 

神仏分離政策とは、修験道陰陽道の廃止をはじめとした「日常の伝統的習俗の禁止」と連動するものであり、「文明化」に向けて国民の精神世界を再編するための政策の一環だった。仏教界のみならず伝統的宗教者が軒並み同様の憂き目を見たのである。仏教の側でも新時代に適応するために旧来の神仏習合的要素を否定・脱却しようとする動きが発生し、結果として、神仏習合的な信仰形態は神道からも仏教からも否定されるものとなった。とはいえ、これまで見てきたような神仏習合の歴史は無視しきれるものではなく、仏教的要素を排除した近代神道は「新しい宗教」として再編成されたこと、「現在我々が目にする神社・祭式の姿は、このとき以来のもので、たかだが百数十年を経たに過ぎない」ことは留意すべきである(伊藤前掲書)。

 

したがって日本列島の神々は、「一千数百年もの長きにわたって」育んできた仏との「蜜月の関係」を「生木を引き裂くように力ずくで切り離され」、二千年以上の歴史をもつ日本列島史上でも「はじめて」となる「外来の宗教に汚されることのない『純粋な』神々の世界」に身を置くことになったのである(佐藤前掲書)。「全国津々浦々の神社・氏神」は「伊勢神宮を頂点とする神道の国家組織」に組み込まれざるを得ず(千田前掲書)、「開明的」ではないとみなされた民俗信仰や民俗行事・習俗はひたすらに「猥雑な旧慣」として一括されて抑圧され(「啓蒙的抑圧」)、否定的にしか意味づけられなかった(安丸前掲書)。こうした「宗教体系の転換」=「あらたな宗教体系の強制」の先に、「伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系」が定着していき、「日本型政教分離」=「信教の自由」体制が確立される(安丸前掲書)。

 

「国家は、各宗派の上に超然とたち、共通に仕えなければならない至高の原理と存在だけを指示し、それに仕える上でいかに有効・有益かは、各宗派の自由競争に任されたのである。」

 

安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979年)

 

 

「非宗教」たるところの神道は神社制度の再編のなかで、いわゆる「国家神道」―ここでは、仮に「天皇と国家を尊び国民として結束することと、日本の神々の崇敬が結び付いて信仰生活の主軸となった神道の形態」のことを指すものとする―がその輪郭をはっきりと現わしていく。各地の神社を担い手とする「神社神道」と呼ぶべき神道の動きは必ずしもそれに連動するものではなかったが、19世紀末以降になると、神社の祭式と皇室祭祀の一体化が強化され始め、総体として「国家神道」の統一的な儀礼体系が形づくられていく(島薗前掲書)。

 

これ以前の神社の場合、神社それぞれの伝統や地域の歴史的事情などを反映し、さまざまな行事暦をもち祭などの行事内容も多様に存在していたが、明治維新後に数多く創始された「天皇の祭祀」(皇室祭祀)が存在感を次第に増してくると、神社祭祀のなかでも「神社祭祀の範型」としての意味をもつようになる。1894年には、内務省伊勢神宮と官国幣社の共通の祭祀を指定し、伊勢神宮の祭祀のみならず全国の官国幣社の祭祀も皇室祭祀に対応した内容に改められるべきことが示された(島薗前掲書)。

 

そこでは、元来の神社祭祀が「多くの皇室祭祀や伊勢神宮の祭祀と斉一の祭祀に並ぶ」「部分的なもの」と位置付けられており、1904年に確立した供進金制度や1900年に始まる神社合祀の動きとともに、神社神道の国家祭祀化・神社祭祀の斉一化が進展していくことになる。1914年までには「『天皇の祭祀』と伊勢神宮を頂点とする統一的な祭祀施設集団」として「神社神道」が確立していくのである(島薗前掲書)。

 

ここにおいて、近代の神々の立場は基本的に確定される。戦後日本、そして現代社会に至る神々の系譜もおそらくはこの延長線上にあるだろう。日本列島の神々は、近代に入るとともに「神仏分離」(「文明化」)・「日本型政教分離」・「国家神道」という立て続けの激動のなかで、「再編」を余儀なくされた。戦後日本の神々の系譜を追うことはもはや筆者の手に負えるものではないが、「再編」以後の文脈で把握されるべきなのではないだろうか。少なくともそれ以前の系譜とは明らかに断絶しているはずだ。

 

よく知られているように、アジア・太平洋戦争の敗戦後には一連の「国家神道」が解体され、「日本型政教分離」ではなく本当の「信教の自由」を確立するといわれる。その当否を今は措くとしても、差し当たり近代日本(戦前日本)における宗教地平が敗戦後に根本的に否定されたことは指摘してもよい。それまでは従属的な立場に置かれなければならなかった宗教団体が神道も含め法的に平等の地位を付与され、人々は自由に宗教を選択することができるようになったのは確かに画期的だろう。

 

しかし、「戦後の神社神道は宗教教団となることによって、国家機関としての政治的機能よりも地域社会の神社としての機能に力点を移した」とはいえ(島薗前掲書)、(わたしたちにとってもっとも身近である)地域社会の神社における日常的な宗教活動は肝心の神々それ自体を問題化する契機をもはや胚胎していない。近代の神々の系譜に新たな変更が加えられる余地はほとんど少ないと言ってよいのではないだろうか。

 

また、そうした神社神道の統合団体であるところの神社本庁は、「戦前の国家神道的な神社の地位とあり方を引き継ぎ、国家における政治的機能に力点を置いた活動形態を選んできている」といわれる(島薗前掲書)。もしそうだとすれば、「全国の神社を傘下に結集しつつ、国家神道を自らの信条として掲げる政治的志向をもった宗教団体として活動してきている」神社本庁が(国家権力による政治的裏づけを欠いているとはいえ)「近代の神々の系譜に新たな変更」を加えようとするとは到底考えられない。そこで理想とされるだろう伊勢神宮天皇祭祀を中核とした神道の形態とは、近代の神々の立場を「護持」するものだといえよう。

 

やはり、近代の神々の立場は近代日本(戦前日本)において基本的に確定されたと言わなければならない。

 

・日本列島の神々の系譜(まとめ)

 

あまりにも長大な冗句を尽くしてしまったので、「日本列島における神々の系譜」をまとめておこう。

 

まず神々の秩序がはじめて体系化されるのは、7世紀の天皇の地位の神聖化にともなう皇祖神(天皇家の祖先神)=天照大神の地位上昇に起因している。その整理の過程で、天照大神とそれを祀る伊勢神宮を中心とした神話の体系化と神々の再編がおこなわれ、諸国の神社や氏族の神々を「一元的な祭祀体系」や「整然としたピラミッド型階層秩序」のうちに取り込むこととなった。

 

10世紀以降になると国家的神祇秩序の解体と神々の自立が始まり、中世の神々は「自由競争」・「戦国時代」に突入するとともに、神社・寺院の一体化・神仏交渉の発展にもとづきながら「神仏習合」を進展させていく。神仏を本質的には同一の存在とみなす「本地垂迹説」(仏=本地が日本の人々を救済するために姿を変えて出現したもの=垂迹と捉える見方)は後者の典型例であり、「祟り」の「罰」化や人格神化に代表される神々の「合理化」現象と並行しつつ列島のほぼ全域に普及していった。こうした本地垂迹説は中央の二十二社制度と諸国の一宮・総社制からなる中世的神祇体制の確立とならび、神々の際限なき分裂・対立に歯止めをかけ、神祇界に一定の融和をもたらした。

 

だが、中世後期の彼岸世界の縮小と現世的世界観の浮上はそうした状況を瓦解に追い込み、近世の列島社会では、神も仏も現世の内部にある等質な存在として扱われるようになる。こうしたなかで列島の宗教世界はその絶対的統括者を喪失することになるのだが、近世を通じて神道界の権威たる地位を保った吉田家の吉田神道=「神道界の天下人」が台頭していき、こと神々に関しては、この「神使い」のもとに統御されるに至る。かれらは「神様に対する人間のワガママに最大限、応え」「神々を人間に従わせる各種の方法を編み出していた」ことで地域社会に受容され、「御神体や祭神が何かわからない神社」も「天皇を中心とした記紀神話の体系に組み込」み、「諸国の多くの神職が、吉田家、つまり朝廷の公家と直接つながること」になる。

 

また、超越的権威の喪失にもとづき天皇の地位が向上するのもこの時代であり、「日本が神国であることを保証し現実の政治権力を正当化できる高次の権威」は「古代以来の伝統をもつ神孫としての天皇」以外存在しない状況が出来上がったことも、この時代の特筆すべき事項である。

 

その後、神々は近代の激動に巻き込まれる。明治新政府神道国教化政策にもとづき神道の「純粋」化=「神仏習合的要素の排除(神仏分離)」が目指され、廃仏毀釈の嵐が列島各地にすさまじい猛威をふるう。こうした国教化政策は事実上放棄されるが、旧来の神仏習合的要素は否定され神社制度の再編は着実に進行していく。近代神道は「新しい宗教」として再編され、「神道非宗教説」も台頭する。日本列島の神々は、仏教との「蜜月の関係」を「生木を引き裂くように力ずくで切り離され」、「外来の宗教に汚されることのない『純粋な』神々の世界」に身を置くことになったのである。

 

こうした「宗教体系の転換」=「あらたな宗教体系の強制」の先に、「伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系」の定着と「日本型政教分離」=「信教の自由」体制の確立がなされ、神社神道の国家祭祀化・神社祭祀の斉一化とともに近代の神々は「国家神道」に組み込まれていく。これ以降、近代の神々の立場は基本的に変動することなく、現在にいたるのである。

 

・日本列島における神々の系譜と神世紀四国の「異形」性

 

結局うまくまとめきれていないが、一連の系譜を一応は把握したとみなし、それらの系譜をもとにした神世紀四国の宗教体系との比較検討に移ろう。

 

そのような日本列島の神々の系譜を見たとき、容易に感じられるのは、やはり神樹信仰の「異形」性だろう。たとえば、古代の神々は「一元的な祭祀体系」や「整然としたピラミッド型階層秩序」のうちに取り込まれ、近代の神々は「新しい宗教」化=近代神道化の過程で激変を余儀なくされ、「伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系」および「国家神道」に組み込まれざるを得なかった。一見すると、こうした様相は神世紀四国の神樹信仰によく類似しているが、驚くべき「神政国家」の「一元化」現象はそれ以上のものを示している。

 

ごくごく限定された日本列島の神々の「神樹」化=「一元化」によって達成された神樹信仰は、神道の神樹信仰化=「一元化」のみならず、神世紀四国の宗教地平そのものを「一元化」し、近代神道を換骨奪胎した「神樹教」(神樹信仰)による「神政国家」を誕生させるのである。古代や近代の「一元化」はあくまでも神道の範疇にとどまるものであり、近代における「一元化」の全面的作用は非常に大きなものがあるとしても、神世紀ほどの「宗教的日常風景」を実現させたわけではない。もちろん「暴力的」強制は厳然と存在したし「宗教的日常風景」と呼ぶべきものはあったが、「多元的」宗教地平を完全に「一元化」することはついぞできなかった。しかし、「神樹を軸とする教えの中でモラルが大きく向上」し「西暦の時代よりもモラルが高く保たれている」という神世紀四国は、人々の内面さえも「一元化」することに成功したとみなせるのではないだろうか(電撃G‘sマガジン編集部編「結城友奈は勇者である-鷲尾須美の章- Story 第 1 話」(『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』KADOKAWA、2018年))。そのような神樹信仰において、もはや「神樹」なるものの内実を問われることはない。具体的神名の知名度如何にかかわらず、それらへの信仰が神樹教への信仰へと収斂させられるのならば、神世紀四国の神々とは、神樹という集合神以外ありえない。神樹を頂点とした神々の「一元的」階層秩序の設定=「一元化」現象についても踏まえなければならないだろうが、少なくとも神世紀四国という人間の信仰する日本列島の神々という理解に基づけば、「神々」は「神」に「一元化」されてしまっている。そのような事態は、日本列島の神々の系譜のどこを見ても見当たらないものであり、神々の多元的相貌を無理やりに神樹に押し込める神樹信仰なるものは、「異形」の宗教体系だと言わなければならないだろう*7

 

6、神世紀四国の「瑞穂国」幻想 ―日本列島史と「非農業的世界」―

 

本節では、網野善彦氏の『「日本」とは何か』における議論を紹介したあとで、石母田正氏や大津透氏の議論も踏まえながら、前節とはまた異なる神樹信仰の「異形」性を指摘することとしたい。

 

網野善彦『「日本」とは何か』を読む

 

網野善彦氏は日本中世史研究の大家であり、戦後日本社会でももっともよく知られた歴史学者のひとりと言ってよいだろう。その網野氏の議論のなかでも重要なのは、「非農業的世界」への注目である。網野氏は「百姓=農民」・「年貢=米」・「瑞穂国日本」などの「通説」的理解をことごとく否定し去り、「『非農業的世界』に注目することで、従来の農業的世界からだけでは見えにくかった多彩でカオスな中世の姿をリアルによみがえらせ、日本史を豊かなものにした」のである(谷口雄太『分裂と統合で読む日本中世史』(山川出版社、2021年))*8*9

 

以下、網野善彦『「日本」とは何か』(講談社学術文庫、2008年、初出2000年)の「第四章 『瑞穂国日本』の虚像」の内容を紹介していくこととしたい。

 

網野氏の議論は章題の通り、「瑞穂国日本」という「常識」を紹介するところから始まる。まず「『日本国』が弥生時代に列島に伝えられた水田稲作を基礎とする稲作民の国家であること」(=「瑞穂国日本」のイメージ)を自明とする見方を「現在の各分野の研究者にほぼ共通した『常識』であるといっても、けっして過言ではなかろう」と述べられ、そうした「常識」は「現在使用されている中学、高校の日本史に関わる教科書の記述」においても、基本的に「根底においている」ものだと指摘する。2023年現在の歴史教科書がそうだというわけではないが、以下の記述は確かに「通説」的理解だといわれれば、当てはまるものもあるだろう。

 

 

「まず、弥生時代とともに稲作が本格的に列島に流入すると社会は水田中心の農耕社会となり、それを前提として制度によって班田収授の制度によって水田を与えられた『班田農民』を基礎とする律令国家が成立する。そして水田の開発が進行し、形成されてくる荘園は有力農民の経営する名によって構成され、名主は年貢米を負担したとされる。

やがて自治的な農村が発展するが、江戸時代に入ると、『士農工商』の身分制度が形成され、全人口の約八〇パーセントをしめる農民は、耕地を持ち年貢を納める本百姓と、耕地を持たない貧しい水呑百姓に分かれ、収穫の四〇~五〇パーセントを米で納めたと記述されている。

室町時代に商工業・交通や都市についての若干の記述はあるが、江戸時代の農民は『自給自足の生活』であったとされ、ようやくこの時代の後期になって、農民の商品作物の栽培や漁業・鉱業・織物業などの記述が現われる。そして農村への商品貨幣経済の浸透に伴って年貢の重圧の下に困窮に陥った農民はときに百姓一揆をおこし、反面、地主や商工業者の発展の中でしだいに幕府の支配は動揺しはじめ、開国、倒幕を通じて、封建的な社会の『一新』を目指して明治政府が成立し、これ以後、日本は急速に工業国となり、産業革命を達成するとされるのである。 しかし農村は地主の支配下にあって貧しく、敗戦後の農地改革によってようやく農民は自らの土地を持ち、農業生産が高まったといわれているのである(たとえば『社会科中学生の歴史』帝国書院、一九九八年)。

もとより高校の教科書になれば、新しい研究成果もとり入れられ、記述もより具体的となり、断定はできるだけ避けるようになっているとはいえ、基本的な枠組は中学のそれと変わっていないといわざるをえない。」

 

網野善彦『「日本」とは何か』(講談社学術文庫、2008年、初出2000年)

 

 

この後に続く箇所では日本中世史研究の大家・永原慶二氏や日本近世史研究の大家・尾藤正英氏の著書が挙げられ、教科書にせよ、研究者にせよ「常識」を逃れられていないことが批判される。

 

 

「こうした事例はいくらでも見出すことができるが、ここにあげただけでも、従来の研究者が前近代の社会を基本的に農業社会と考え、百姓は農民、あるいはその大部分は農民と見て、社会の構成を考えてきたことは否定し難い事実であり、それは歴史教育に現在にいたるまで決定的な影響を与えつづけ、『瑞穂国日本』のイメージを日本人に深く植えつけてきたことは間違いない」

 

網野善彦『「日本」とは何か』(講談社学術文庫、2008年、初出2000年)

 

 

網野氏はそのような「常識」の淵源を政府の公式統計、とりわけ明治5年(1872年)に作成された「壬申戸籍」に求め、そこにおける「『農』七八パーセント、『商』『工』あわせて一一パーセントという数字」の影響を強調する。

 

 

「『農』七八パーセント、『商』『工』あわせて一一パーセントという数字が農民という認識の根拠となり、一方でさきの尾藤氏のように江戸末期の人口の九〇パーセントが農民という認識の根拠となり、他方ではこれ以後、明治政府の殖産興業の政策等により、日本が急速に諸工業を発展させ、近代化していったことを強調するさいの背景となったことは間違いない。なにしろ『工』四パーセントという「遅れた」農業国が、「列強」に伍する工業大国になっていったのであり、その評価は別としても、『明治維新』後の日本の近代化は『奇蹟的』といわれるほどのめざましいものであったというのが、大方の『常識』であったことは否定し難い。」

 

網野善彦『「日本」とは何か』(講談社学術文庫、2008年、初出2000年)

 

 

そして、ここから「しかしこの壬申戸籍の職業別人口統計の数字を一つの根拠にして、はたして本当にこのようなことがいえるのであろうか」という問いが発せられるのである。網野氏の刺激的な議論はここに始まってくる。

 

網野氏は愛媛県二神島(ふたかみじま)を訪れた際に調査した「壬申戸籍」の草稿の事例を取り上げ、「この島の百姓たちの生活が海での漁撈、海産物や山の産物の交易、商業・運輸などに支えられていた」にもかかわらず、そこに「全戸『農』と記されていた」ことを問題視する。当然の指摘だろう。よほど特殊な条件でもない限り、海に浮かんだ二神島が「百パーセント、農民から成り立っている島」にはなりえない。戸籍上の「職業」は「まったくの虚構」であることは明らかである。

 

さらに網野氏は山梨県の史料―明治7年(1874年)に山梨県令藤村紫朗が内務卿大久保利通に宛てて作成した「壬申戸籍」に基づく公式の集計表―において、「山梨県の『農』のパーセンテージが全国のそれよりも高い点」を批判する。集計表にそのまま従えば、「全国的にみると農業県で、農民が九〇パーセント近くいる」ことになるが、それを「盆地と山からなる『山国』で田畑が少ないと自認している山梨県人として(網野氏の出身県は山梨県である:引用者注)、これは目を疑う数字ということになる」と否定する。以降、山梨県内各郡の数値を見ながら、近世の『天保郷帳』との比較などを通じてどれほど実態に即していないかが論証されることになる。

 

もはや「壬申戸籍の『農』の割合が実態から著しくかけはなれている」ことは自明だろう。

 

そして、そうした偏った人口統計の公式的作成の原因は明治政府によって「創出」された「士農工商」という職業区分(「虚像」)に起因するのみならず、そこに「江戸時代の基本的な身分制度」=「士農工商」かつ「百姓は農民、町人は商工業者」という「常識」の起源を見て取るのである。いわゆる「百姓は農民ではない」という網野氏の重要なテーゼまで、あと一歩である。

 

網野氏はここから議論を推し進める。「百姓=農民」という見方を採用している「一九五〇年代後半ごろから、ごく最近まで、最も広範囲に使用されていた日本史の教科書、山川出版社の『詳説日本史』(一九九一年版)」や「広く用いられる東京書籍の『新訂日本史』(一九九一年版)」を挙げ、そうした記述を裏付ける秋田藩嘉永二年(1849年)の身分別人口構成の図表が根拠とする関山直太郎『近世日本の人口構造』(吉川弘文館、1958年)は「百姓」を「百姓」としていることを発見する。つまるところ、グラフの作成者は「当然のごとく『百姓』を『農民』と読みかえてい」たのである。「百姓が農民であることは、少なくとも一九九〇年までは、まったく疑問の余地のない理解として、教科書は編纂されていた」。しかも日本中世史研究・日本近世史研究の優れた研究者たち―尾藤氏・山口啓二氏・永原氏・安良城盛昭氏―でさえも、「百姓=農民」としており、「敗戦後の前近代史の研究において、基準的な仕事をした研究者の著書において」そうした「定式」が「ほぼ自明の前提として議論の根底におかれていた」ことになる。

 

だが、「『百姓』の漢字には、本来、『農』の意味は含まれて」おらず、実際には「壬申戸籍の『農』の実態が『農民』ではなかったように、江戸時代までの『百姓』はけっして農民だけでなく、きわめて多様な生業を営み人々が含まれていた」。網野氏は続く箇所に石川県輪島市の旧家・時国家の調査の経験などを紹介しながら、富裕な商人・職人・廻船人(廻船商人)・酒屋たちが無高民たる「頭振」・「水呑」や隷属民たる「下人」・「名子」として(つまりは「百姓」として)扱われていること、都市の内実をもつ集落が「村」として扱われていることを指摘する。特に、「百姓」時国家はそれまで「豪商の典型」とみなされてきたが、すでに元和四年(1618年)の段階で「松前まで行って昆布を買い付け、京都・大坂に運んで売却する廻船交易を行う一方、広大な塩浜を経営して製塩を手広く行い、これを能代などの北方に運び交易していた」のであり、決して「農民」ではない。「百姓は農民ではない」のである。

 

したがって、近世日本社会は「自給自足の農村」を基本とする「農業社会」などではなく、「かなり高度な商工業が発達した都市的性格の色濃い社会」であり、「生業」としての「農業」は「四〇パーセント台におちこむ」に至ると結論付けられる。古代・中世の「百姓」も近世同様に「農民」ではなく、中世の荘園における「年貢」も米のみならず多種多様な品目を含む*10。「見渡す限りの水田に稲穂がたわわに実るような風景」は「幻想」であり、「瑞穂国日本」も「幻想」に過ぎない。あるいは「百姓=農民」とは「思いこみ」であり、「日本は農業社会」とは「常識」以前に「虚像」である。

 

網野氏によれば、そうした「幻想」や「誤解」は「瑞穂国」を理想とする「農本主義」の立場に立つ「日本国」の姿勢に起因するという。古代国家は「水田を六歳以上の全人民に与え、すべての人々を租税負担にたえうる『農民』にしようとする強烈な国家意思を貫徹しようとした」が、「列島社会の実態から著しく遊離していたがゆえに、百年もたたぬうちにその無理があきらかになり、弛緩し変質していった」。このような「水田を課税の基準とする体制」はその後も維持され、中世の荘園公領制に受け継がれていくものの、「田畑を持たず都市的な生業を営む人々」の存在は無視できない影響力をもった(「重商主義」)。しかし、近世国家は「貨幣としての米を価値基準とする課税方式」=「石高制」を基本的に採用し、「たてまえとしての『農本主義』」が貫徹されていくことになる。そのような「たてまえ」=「農本主義」は儒者などの言説を通して社会に浸透し、「百姓と農民は同じ」という見方が通俗の「常識」として広くひろがる。明治政府の「百姓=農民」の「制度化」もこうした文脈のうえに存在するのである。こうした歴史的経緯の結果として、「百姓=農民」という認識は決定的となる。「一般の日本人がまったく誤った思いこみに陥り」、「これまでの歴史学、経済学をはじめとする多様な分野の研究者自身が、必ずしもこの誤りを自覚的に認識しないままに議論を組み立て」ることになったのには、そういう前提が存在していたわけだ。

 

 

「こうした長い歴史と複合的な理由を背景に、人口の八〇~九〇パーセントを占めるとされた『百姓=農民』は日本人の『常識』となり、歴史研究者の研究もそこに集中し、実態として『百姓』の中に約四〇パーセントほど含まれている農業以外の多様な生業に携わる人々についての研究は、ほとんど空白にしたまま、たとえば『瑞穂国日本』のような偏った日本社会像が『実像』として世の前面におし出されつづけてきたのである。その偏りを修正し、『虚像』の部分の実態をあきらかにすることによって、できうる限り正確な日本列島の社会像を描くためには、未開拓のままにされてきたこの四〇パーセントの分野に鍬を入れ、可能な範囲で実態をあきらかにしたうえで、あらためて穀物生産の農業を位置づけ直す必要がある。」

 

網野善彦『「日本」とは何か』(講談社学術文庫、2008年、初出2000年)

 

 

以上のように、網野氏は日本列島史における「幻想」・「虚像」―「百姓=農民」・「年貢=米」・「瑞穂国日本」などの「通説」・「常識」的歴史像―を徹底的に否定・批判するのみならず(網野善彦石井進『米・百姓・天皇』(ちくま学芸文庫、2011年、初出2000年))、そうした「幻想」・「虚像」=「常識」の形成過程を水田・米を重視する「農本主義」の歴史として描き出し、「非農業的世界」の多彩な世界を活写してみせたのである。

 

とりわけ、網野氏の「百姓は農民ではない」という重要な成果―「『百姓』の中には農民だけでなく、海民、山民や商工民がおり、土地を持つ必要のない『百姓』もたくさんいた」のであり、「百姓とは決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民——農業以外の生業に主として携わる人びと」を含んでいた―を明らかにした功績は大きい(網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫、2005年)参照)。

 

また、水田や米をもとに「瑞穂国日本」を想定しようとする現代日本社会の「常識」を覆したことも見逃せない。「日本の歴史のなかできわめて制度的、政治的な役割を果たしてきた」ことは認めつつも、そこには「支配下の領域を斉一的に掌握しようとする支配者の志向が強烈に入っていた」のだから、「非農業的世界」の社会的な役割を低く見積もることは決してできない(網野善彦『日本中世の民衆像』(岩波新書、1980年)参照)。「『日本国』が弥生時代に列島に伝えられた水田稲作を基礎とする稲作民の国家であること」=「瑞穂国日本」幻想は相対化されなければならないのである*11

 

・神世紀四国における「瑞穂国日本」幻想

 

実のところ、そのような「瑞穂国日本」幻想は、神世紀四国においても存在している。具体的に言えば、それは「五穀」の強調として存在しているのである。たとえば、3期「結城友奈は勇者である -大満開の章-」のOP(オープニング)映像における「五穀」描写*12や2期および3期における神樹と一体化しようと祈りを捧げ「五穀」と化した神官たちの様子を見れば明らかなように、モチーフとしての「五穀」は極めて高い位置づけを与えられている。また、最終決戦(神世紀301年)の「4年後」における「宗主」・乃木園子の描写にあるように、新生大赦(「乃木園子体制」)のシンボルマークは稲穂になっていることがわかる。

 

 

テレビアニメ版3期OP映像における「五穀」(3期1話・©2021 Project 2H)

 

 

もちろん、「五穀」とは「穀類のなかで重要視された五種類の穀物」のことだから(「五穀」『国史大辞典』)、水田や米を直ちに意味するものではない。だが、「五穀」筆頭の「稲」=「米」の存在や水田の豊作を願う「五穀豊穣」の文言などを考えれば、水田稲作を中心とした穀物生産の認識は明らかだと言わなければならない。「五穀」とは「瑞穂国日本」の幻想と深くかかわるものなのである。

 

また、神樹信仰そのものたる神樹は樹木に過ぎず、そういう意味では、神世紀四国における水田や米の重視は必ずしも当たっているとは言えないかもしれない。だが、「五穀」化した神官たちは「我等一同神樹様とひとつになり」、「神の眷属として迎えられ」たのである(勇者の章・6話の神官)。「五穀」化と「神樹」化とが位相を同じくするものであるならば、神樹の樹木的外形が問題とはならない。そのことは「神樹」を構成する神々と「五穀」との深い関係性を示唆しているのではないだろうか。神樹とは樹木信仰ではなく、日本列島の一部の神々による集合神であることを思い出すべきである。「五穀」における「瑞穂国日本」幻想にはまったく変更が加えられていない。

 

シンボルマークについても、神世紀移行期の長野県諏訪地方で孤独な戦闘を繰り広げた勇者・白鳥歌野の遺品たる「鍬」と稲穂の組み合わせによって構成されているのであり、稲作のみならず(歌野たちが畑作に用いていたように)畑作も重視されているのではないかと考える向きもあるだろう。しかし、それはあくまでも勇者の「本懐」たる「戦いが終わった後にもとの暮らしに戻れるよう頑張ること」(3期12話の乃木園子)を体現する象徴に過ぎない。「鍬」とは、「復興」の表象なのである。したがって、「もとの暮らしに戻れるよう」にとの意味を込めた「鍬」とともにある稲穂とは、まさに「復興」されるべき理想状態を指示しているとも考えられるだろう。そうした状態を稲穂に象徴させるのならば、最終決戦後の神世紀四国では、「瑞穂国日本」的状態を理想としているとみることも不可能ではない。

 

 

新生大赦のシンボルマーク(3期12話・©2021 Project 2H)

 

 

このようにして、「五穀」や稲穂を媒介とした「瑞穂国日本」のイメージは、神世紀四国においても根深く巣くっていると言えるのである。網野氏の指摘したように、「『日本国』が弥生時代に列島に伝えられた水田稲作を基礎とする稲作民の国家である」というのは端的に「幻想」だが、神世紀四国の大赦というその秩序の頂点に立つような組織が「幻想」に囚われている意味は極めて大きい。なぜならそのような「幻想」に囚われた大赦の存在は、大赦によって統轄され信仰される神樹信仰そのものを「幻想」へと転化しうるからである。

 

特に、そのような「幻想」に囚われたまま自分自身を「五穀」に変じてしまった神官たちの存在は、確かにそうした行為を実現できるほどの深い信仰をもっていることはわかるが、しかし「五穀」化したところで信仰そのものが「幻想」であるのだから単なる「幻想」に殉じてしまったことを意味しているように思われる。

 

無論、信仰の「幻想」性については慎重な検討を要するだろうが、「幻想」に基づく理念と方法に基づいて信仰に殉じるのは、信仰それ自体を毀損する営為ではないのだろうか。あるいは信仰そのものが「幻想」なのだろうか。もしそうであるならば、神樹信仰の「異形」性にまた新たな性格を加えることになるだろう。

 

だが、そう判断するにはまだ材料が足りない。それを明らかにするためには、古代日本社会の具体相に迫らなければならないのである。以下、石母田正氏の在地首長制論や大津透氏・網野善彦氏の議論に基づきつつ神樹信仰の「異形」性を考えていきたい。

 

・古代日本社会の在地首長制と律令制

 

まずは石母田正氏の在地首長制論である。そもそも石母田氏は、戦後の歴史学を代表するマルクス主義歴史学者として知られている。既に前々節にて取り上げた『中世的世界の形成』はその主著だが、『日本の古代国家』も重要な業績である。大津透氏が「戦後の日本古代史研究の最大の成果」だと評価するように(大津透「古代史への招待」(『岩波講座日本歴史1 原始・古代1』岩波書店、2013年))、それが以降の研究に与えた影響は極めて大きいものがある。もちろん、石母田氏の議論の詳細には立ち入らないし、それを論じる資格など筆者にはそもそもない。だが、同著の議論のなかでも非常に重要である「在地首長制」論については、本コラムの議論に有益であるため、紹介するものである。

 

石母田氏の議論は、日本列島の古代国家=律令国家における在地首長層(地方豪族層)の存在を積極的に評価し、「第一次的、本源的生産関係」の体現者を律令国家ではなく在地首長層に求めるものである(=「第一次的生産関係としての首長制」)。ミヤケ・屯倉(=大王の直轄領)においても、一見した外観=「在地の生産関係から独立した収取組織体」に比して、その内実は「在地首長制の生産関係に依存する第二次的な生産関係にすぎない」と指摘される(石母田正『日本の古代国家』(岩波書店、1971年))。

 

つまるところ、「古代国家の支配の基礎には郡司に代表される地方豪族の民衆支配があり、天皇と民衆の支配関係は二次的関係」だということである(大津透『律令制とはなにか』(日本史リブレット、2013年))*13

 

もちろん、こうした在地首長制的状況は永続的なものではなく、おおよそ9世紀以降に動揺と解体を余儀なくされた。その9世紀の地域社会では、気候変動や環境変化などを背景として変容が始まっていくが、この現象は律令国家の地方支配を担った郡司制度の抜本的改変に基づくものでもあった。大化前代の国造の末裔が多く任じられていた郡司層(=在地首長層)はこうした改変に対処しきれず、10世紀には次第にその伝統的権威を衰退させていき、ついには郡衙(郡家)=郡の政庁が古代集落とともに衰退・消滅の憂き目に遭う(坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』(講談社学術文庫、2009年、初出2001年))。古代の地域社会が直面した大きな変化の渦中で、在地首長制的状況も解消されたのである。

 

だが、7世紀後半以来の律令制の歴史を考えれば、そこに大きな役割を果たした在地首長制の意味は改めて重大であると言わなければならない。在地首長制を基礎とする律令国家の構造の長期的継続性に鑑みれば、吉田孝氏のように、日本列島の律令国家を「首長制」の要素=「未開」と「律令制」の要素=「文明」の「二重構造」として把握するのも―「未開」・「文明」の二元論的解釈の妥当性はひとまず措くとして―おかしなことではない(吉田孝『律令国家と古代の社会』(岩波書店、1983年)参照)。

 

たとえば、「律令制の代名詞ともいうべき律令国家の中心となる租税」である「租庸調」を事例にすると、そうした「二重構造」性や在地首長制の重要性を理解できるだろう。なぜなら、列島社会の租庸調制は唐の律令制を導入したものとはいえ、実際には、そのすべてにおいて「首長制」=「未開」の要素を発見可能だからである。以下、大津透『律令制とはなにか』(日本史リブレット、2013年)をもとにその詳細を見ていこう。

 

まず租(田租)(=田地にかかる租税)の場合、収穫の3パーセントと税率が低いことで知られるが、「もともと初穂(その年の収穫の一番最初のもの:引用者注)を神にささげる初穂貢納に起源をもつもので、宗教的な意味をもっていた」と考えられている。また、中国の庸調は税金として徴収するが、列島社会のそれは各国の特産物を中央に献上する制度になっている。そのなかでも調に海産物の占める割合は大きく、そうした海産物の生産には集団による漁が必要であることから、郡司層などの地方豪族に統率される共同体的生産を基礎に置いていると想定できる。しかも、調の読みは「ツキ」・「ミツキ」である。これは律令制以前に地方豪族の任じられた国造がヤマト政権に対してその土地の特産物を献上した、「ミツキ」の制度を継承した「みつぎもの」なのである。そこには、神や天皇への供え物という宗教的性格が強く看取される。庸(=京での労役(歳役)に代える麻布などの納入)も「チカラシロ」と読み、名代など部民制において、大王の宮に上番して奉仕する部(トモ)の生活を支えるために郷里の部民集団が生活の糧を送ったシステム―「チカラ」の「シロ」(かわり)―に起源をもっている。大化改新の詔の規定にもそのような制度があり、そうした制度が庸に継承されたわけである。したがって、租庸調のいずれにおいても、唐の律令制とは異なる「首長制」的な要素が存在しているということができる。

 

とりわけ列島社会の調については、その要素が非常に強い。そこでは、調は「民衆から郡司など地方豪族によってまとめられて、おそらく服属の証として神への捧げ物である『ミツキ』としてたてまつられ」るものなのである。さらにいえば、調を集めた天皇律令国家は「地方豪族にかわって、天皇の祖先や神々に奉納して、収穫の感謝や国家の安寧・豊作を祈り、その残りが国家財政の収入として使」ったとみられる。つまるところ、石母田氏の在地首長制論にある通り、戸籍・計帳の作成にせよ徴税にせよ在地での労働力編成にせよ勧農・祭祀にせよ、律令国家を基礎づける一連の営為を可能にしたのが「地方豪族の共同体支配」なのであり、かれらを郡司として支配機構に組み込むことで律令国家の支配は成立しうる。「第一次的、本源的」存在としての在地首長層の謂いは確かに当てはまっているだろう。

 

ただし、天皇律令国家の全国支配を可能にした条件として、既にみたような「天皇のもつ宗教的な力あるいは天皇による祭祀」が存在することを忘れてはならない。そうした宗教性の問題を抜きにして律令国家や古代の日本列島社会を把握することなど到底できない。したがって、在地首長制が律令国家にとって極めて重要な存在である一方で、律令税制=宗教的収取体系にみられる天皇をめぐる宗教性の問題も見逃せないのである。

 

律令税制における海産物の重要性と「宗教性」

 

ここからは、いまふたたび大津透『律令制とはなにか』(日本史リブレット、2013年)に登場を願う必要がある。既にみたように、租庸調には律令国家をめぐる在地首長制および宗教性の問題は無視できないのだが、ここではそうした律令税制のうち、「各国の特産物を中央に献上する制度」である「調」(つき・みつき)と「新鮮な海産物も含め、天皇の食事用に献上する制度」である「贄」(にえ)に注目してみたい。これもまた先に述べたことだが、調に占める「海産物」の割合は大きく、それは贄においても同様である。たとえば、鰒(あわび)、堅魚(かつお)、ワカメなどは両者に共通する産品である(詳しくは以下に示した「諸国貢進の海産物」の図表にある通りである)。

 

 

「諸国貢進の海産物」(大津透『律令制とは何か』(日本史リブレット、2013年))

 

 

こうしたあり方はおそらくその後の中世段階における荘園・公領の年貢体系に密接に関わりあっているだろうが、少なくとも農業一辺倒ではない日本列島史の性格(「非農業的世界」の存在)を確認するにとどめ、ひとまずそれ以上は措いておく。それよりもいま確認しておきたいのは、それらの「宗教的性格」の方である。前者は「神そして天皇への供え物」であり、後者は「本来は神にささげるもので、それが天皇への献上物になった」ものである。どちらも宗教性を強く刻印された制度だと言えるのは間違いない。したがって、こうした宗教性は、制度を通してささげられた「海産物」が古代の神々にとって重要だと考えられていたことを意味している。

 

また、古代の神々が皇祖神(天皇家の祖先神)たる天照大神とそれを祀る伊勢神宮を中心とした神話の体系化と神々の再編のもとに存在していたことや、律令税制および律令税制の起源となる制度と在地首長制との関係性に鑑みれば、そうした「海産物」と神々のつながりは非常に深いものがあり、列島社会の広範におよぶものだったと言うこともできる。

 

・日本列島における非「農耕神」の位相と神樹信仰の「異形」性

 

この点については、以下の網野氏の議論が参考になる。

 

 

「日本の神々は、基本的に農耕神である、とくに稲作の農耕儀礼とむすびついて日本の神々の世界ができているのだということが、常識的には説かれておりますが、じつは日本の神様にささげる供物―神饌と申しますが―のなかでは、コメや酒などの農産物の占める比重よりも、海で採れた海産物の占める比重のほうがはるかに大きいのであります。カツオ、アワビ、あるいは海草、塩などの海産物が律令国家の時代から神々に大量にささげられています。これは、戦前すでに渋沢敬三さんがあきらかにされていることなのですが(参考文献③参照(渋沢敬三『祭魚洞襍考』(岡書院、1954年):引用者注))、日本の神様はこのようにきわめて魚好きでありまして、現在でもお祭のときにはかならず海のものを供えることは、みなさんもよくご承知のこととおもいます。

ですから、これまでのように神様を単純に農耕神あるいは稲作儀礼とむすびついた神とだけ考えて、その頂点に天皇をすえるというとらえかたでは、天皇のありかたそのものについても、正確なとらえかたはけっしてできないと私はおもうのであります。

われわれの嗜好を考えましても、いま挙げたカツオ、アワビや、昆布・ワカメなどの海草は、われわれの味覚のいちばんの根本をかたちづくっていることはご承知のとおりで、鰹ぶしと海苔はどこのご家庭でも、なんらかのかたちで使っておられるはずだとおもいますし、贈物にもっともよく用いられるのも、これらの品々であることを、よく考えておかなくてはなりません。そし て、贈物のときにいまでもかならずつける熨斗も、もとはといえば熨斗鰒、ほした鰒を長く引きのばしたものなのです。」

 

網野善彦『日本社会と天皇制』(岩波ブックレット、1988年)

 

 

つまるところ、「日本の神様はこのようにきわめて魚好き」であり、日本列島の神々は必ずしも「農耕神あるいは稲作儀礼とむすびついた神」ではないのである。

 

しかも列島の神々のなかでも最上位に位置すると考えられているアマテラスもその例外ではないとされている。千田稔氏によれば、アマテラスの原型となった日神の信仰は東アジアの日神信仰と密接に関係するのみならず、ホアカリノミコトという海洋民の神がアマテラスという神格を獲得する直近の神だという。さらに、千田氏は(直木孝次郎氏の議論を引用しながら)伊勢神宮の鎮座する伊勢の地が東国経略のための航海の要地となったことで、ヤマト政権は大和から伊勢へとアマテラスを遷座したのであり、その過程では、先述した「海洋」神の信仰との関係性が意味をもったことを指摘している(千田前掲書)。アマテラスにおいては「海洋神」的性格が色濃いわけである。

 

古代日本社会における神々と海産物の深い関係性と日本列島の神々における非「農耕神」=「海洋神」などの存在。もはや神樹信仰の「異形」性は明らかである。日本列島の(一部の)神々からなる神樹においても、そのような神々がいないという保障はどこにもない。日本列島史における「非農業的世界」の重要性も考えれば、神樹を構成する神々のなかに非「農耕神」がひとつもいないということはありえないはずである。だが、大赦は「幻想」に囚われた「五穀」の重視にはしり、神官たちは「五穀」化した。「五穀」化のメルクマールを神樹信仰の深浅に求めるのならば、その神樹信仰とは「農耕神」信仰なのだと言わなければならない。そして、こうした「農耕神」が日本列島の神々のなかでいかに「相対的」なのかはいうまでもないことだろう。「瑞穂国日本」の幻想に囚われ、非「農耕神」を捨象し、「五穀」を重視する大赦の姿勢は、神樹信仰の「幻想」的性格、すなわち「異形」性を端的に示しているのである*14

 

7、神樹信仰の非「日本」的性格 ―「キメラ」としての神世紀四国―

 

・神樹信仰の非「日本」的性格

 

神世紀四国の「宗教的日常風景」を確認することから始まった本コラムは、神樹信仰を支える「構造」―学校教育の「規律訓練」・大赦の「敗北の構造」―の分析をともないながら、神樹信仰の「異形」性の検証として進められたものである。そうした具体的検証過程を通して、以下に示す神樹信仰の「異形」性が見いだされた。

 

 

①日本列島の神々の一部に過ぎない「神樹」化=「一元化」。

神道の神樹信仰化=「一元化」と「暴力的」強制をともなう宗教地平の全面的「一元化」の付随。

③近代神道を換骨奪胎した「新しい宗教」=「神樹教」としての性格。

④神樹を頂点とした日本列島の神々の「一元的」階層秩序の(再)設定=「一元化」。

⑤日本列島の神々の系譜でもまったく類例を見ない神々の徹底的「一元化」。

⑥「瑞穂国日本」幻想にもとづいた「五穀」の重視・非「農耕神」の捨象。

 

 

 

もはや言葉を尽くすまでもないことではあるが、神世紀四国の神樹信仰とは、日本列島および日本列島史の文脈において明白に「異形」の宗教体系にほかならない。したがって、こうした「異形」性を日本列島の文脈上に理解するならば、それらは非常に非「日本」的な相貌を示すものであり、神樹信仰とは、「日本」的なるものとの関係ではなく、その非「日本」的性格との関係において把握されなければならないのである。こうした宗教体系の非「日本」的性格は、神世紀四国においても同様に言えることだろう。

 

・「キメラ」としての神世紀四国

 

誠に僭越ながら筆者恒例の知的蛮勇を「発揮」するならば、そうした神世紀四国のあり方を、山室信一氏の優れた満洲国研究になぞらえて、「キメラ」と名付けておきたい(山室信一満洲国 増補版』(中公新書、2007年、初出1993年)参照)。もちろん、頭は獅子(関東軍)、胴は羊(天皇制国家)、尾は龍(中国皇帝および近代中国)の満洲国と少なくとも「傀儡国家」ではない神世紀四国とではその性格は大きく異なっており、単純に比較できるものではない。だが、後者の「異形」性に「二〇世紀のあらゆる課題が、それこそ混沌としたまま投げ込まれ、うねっていた」前者のような性格を見てとることも、必ずしも不可能ではないだろう。

 

神世紀四国とは「異形」の宗教体系=神樹信仰=「神樹教」を全面化=「一元化」した空間だったが、そのような「異形」性とは「不自然」なるもののパッチワークであり、「日本」的なるものの継ぎ接ぎであり、端的に非「日本」的性格の集合体=習合体である。そして、それらは神世紀四国という時代や社会に規定されるところ大であった。このような「異形」性のあり方において、神世紀四国は「キメラ」だと言わなければならない。

 

8、補論 「記紀神話」・「日本神話」という問題

 

・「記紀神話」・「日本神話」という問題

 

ただし、これまで述べてきたことについては一点補足しておくべきだろう。それは『古事記』や『日本書紀』(「記紀」)に依拠した「記紀神話」においてである。冗長極まる記述のなかに埋没してしまったが、筆者が古代日本以来の神々を問うときに、その始原的・基礎的秩序・体系として想定していたのは、まさしく記紀神話だった。もちろん、不変的祭祀・神祇体系を措定していたわけではないし、その「変貌」や「動揺」について佐藤弘夫氏や伊藤聡氏、井上智勝氏、安丸良夫氏などの議論を引きながら強調してきたつもりである。とはいえ、そうした神々の系譜の「初発」から強い影響を与え続けてきた記紀および記紀神話に関しては、しっかりと検討を展開していなかった。このことは、単に天皇制や「日本」的なるものを論じようとした本コラムの趣旨に背くものであるだけではなく、そうした記紀神話をもとにした、いわゆる「日本神話」に基づいているだろうゆゆゆを考えるうえで、あまりにも安易だったと言わざるを得ない。こうした要素を徹底的に相対化し批判を試みずして「ゆゆゆ研究コラム」を名乗ることはできまい。しかし、残念ながらそのようなアポリアを埋めるほどの余裕は(毎度のことながら)存在しないので、そうした日本神話像に関する神野志隆光氏の批判(神野志隆光古事記と日本書記』(講談社現代新書、1999年))をここで紹介するのみにとどめたい。(なお、こうした点については、後日に出雲や慰霊空間などの観点から論じる予定である。)

 

神野志隆光氏の「記紀神話」・「日本神話」批判

 

まず、日本神話を基礎づけた(というよりも日本神話と等号するところの)記紀神話は、そもそも成立しない。「記紀神話」という枠組みそれ自体が既に破綻しているのである。神野志氏によれば、『古事記』と『日本書紀』は「神話的物語としては別のもの」だという。どちらも「『日本』を成り立ちから確信するための物語であり、律令国家としてみずからを作りあげたところで、その正統性を主張し、確認することのもとめに対して果たされたものだ」が(=「帝国的世界の根拠の物語」)、それぞれにおいては「異なる神話を成り立たせ」ているわけである。

 

9世紀以降になると(記紀の成立は8世紀前半である)、『日本書紀』を中心に多元的古代天皇神話を「一元化」しようとする動きが出てくるが、結局は律令国家体制の変質とともに古代的神話は失効しはじめ、中世には仏教的な普遍的世界の、近世には(本居宣長によって)民族的文化的世界の、「根拠の物語」として変換されていた。記紀たちは、原典として意味を更新しながら生き続けてきたのだ。

 

このことは近代においても例外ではない。近代国民国家は「自分たちの世界の文化的固有性にアイデンティティをもとめる」。そのようにして、近代日本が「民族の文化的根源」として「神話」の意味を見出したのは、『古事記』だった。日清戦争に起因したナショナリズムの高揚のもとで発生した「国民文学」運動は、「国民的一体性を歴史的に確証するために」「文学史」に注目し、「古典」=「民族の古伝」としての『古事記』を確立した。この頃に「民族の古伝承として、『古事記』『日本書紀』の神話から日本における神話を論じ、日本民族の文化を考えようとする」「日本神話」論が勃興してくるのである。これまで筆者が述べてきた「日本神話」という言説は、まさしくこの意味における「日本神話」にほかならない。

 

しかし、話はこれで終わらない。既に見た、民族の古伝承としての『古事記』の神話を「民族と国民の文化的根源として位置づける」見方(=「近代国民国家の古典」像)は、天皇の正統性の問題とともに(「万世一系」の統治を根拠づけるために)「大日本帝国」の歴史的根源を語るものとなっていくからである。そうした「神話の近代的転換」は、国体論を支えるものとしての「日本神話」の制度化を意味した。以下の『国体の本義』の一節は、「神話を軸にした近代天皇制の正統性のイデオロギー」をありありと示しているだろう*15

 

 

大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給う。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。」

 

文部省編「一、肇国」(『国体の本義』文部省、1937年)

 

 

当然のことながら、このような「日本神話」は敗戦によってほとんど雲散霧消するわけだが、「日本神話」という「制度」はいまなお続いている。たとえば、「記紀批判」という立場—『古事記』『日本書紀』そのものは古代天皇国家のイデオロギー的産物だとして批判しつつ、その向こうに原始社会の人々の神話を見出そうとする論議—も、「政治化」の作用を受ける前の元来の神話を求めようとしているが、そこにあるのは「『研究』が作り出した新しい神話」に過ぎない。原始社会=「民族の原点」への志向性は、近代日本(戦前日本)の「日本神話」とまったく同じである。あるいは、「日本人」や民族の「文化」・「心性」の原点に神話を位置づけようとする比較文化論的神話論も、「民族文化の系統を論じるとともに、『日本人』のよってきたるところを見ようとする」時点で、近代日本国家の作り出した枠組みを抜けられていない。現代日本でも、「日本神話」というときに想定されているのは、往々にして記紀の内容を統一的に神話として理解するだけではなく、バリエーションはあるにせよ「日本」・「日本人」の起源・原点を示した神話として把握しようとする見方だろう。いずれにおいても、「根拠の物語」という意識は希薄であり、「日本神話」を本質的な民族神話と見なしているように思われる。したがって、「日本神話」のパラダイムはいまなお温存されており、それは「『日本神話』の現代的ファッション」と呼ぶべき「新しい神話」である*16

 

・「日本神話」批判とゆゆゆ

 

このような一連の日本神話批判は、ゆゆゆにおいても適用することができる。たとえば、「讃州中学 勇者部電子広報」において東郷美森の執筆した「コラム」(「本日の我が国」)は(下図参照)、『古事記』の「創世神話」と現在の「我が国」=「大和」=「御国」(すなわち「日本」)を安易に短絡させる議論として把握することが可能である。あるいは「日本」を「日本」と書かずに「大和」としている点などは、「日本」神話が「ヤマト」の神話に過ぎないことを認識しているのだと評価できるかもしれないが、結局は我が国=近代日本国家の論理に収斂するのだからさしたる差異ではない(吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997年)参照)。「日本」・「日本人」の神話たるところの「日本神話」のパラダイムは、神世紀でも継続しているわけである。

 

 

東郷美森の執筆した「コラム」・「本日の我が国」(讃州中学 勇者部電子広報)

 

 

つまるところ、「コラム」の内容とは「虚構」なのである。津田左右吉氏が指摘したように、「記紀を其の語るがままに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいうようなことに関する思想を、そこに発見することは出来ない」のであり、「民族の歴史というようなものでは無」いし、「潤色せられ或は変改せられて記紀の記載となった」のだから、「歴史的事実の記録として認めることは出来ない」(津田左右吉「結論」(『古事記日本書紀の研究』岩波書店1924年))。神世紀の「日本」は日本神話という二重の「虚構」—「日本神話」という制度と「根拠の物語」という性格—の延長線上には存在しない。

 

さらに言えば、神世紀の「客観的」状況は必ずしも「神話的」世界の実現を意味していない。ゆゆゆの舞台となる「神世紀」において、神々たちは「神樹」や「天の神」などとして厳然と―客観的に―存在しているが、その神々の体系は日本神話そのものの実現ではない。もちろん、日本神話の定義を何に求めるかにもよるだろうが、少なくとも『古事記』や『日本書紀』のテクストそのままではない。神世紀四国の「神話的」世界は単純な日本神話的世界ではありえないのである。既に指摘した神々の「異形」性も含め、連綿たる「神国」の系譜の主張は否定されるべきである。「連続的」外見は「断絶的」内実の見せかけに過ぎない。

 

極言すれば、神樹にせよ天の神にせよ、日本列島史の展開—「日本」史—とは何の関わりもない神を名乗る絶対者にほかならず、おそらくは日本神話とも関係ない虚構に等しい存在だということができる。こうした意味でも、神樹信仰の「異形」性や非「日本」的性格は明らかだと言えるだろう。

 

・ゆゆゆへの「日本神話」批判の妥当性

 

もちろん、「四国の森」における「神話的」歴史の展開—ゆゆゆ—を考える際には、東郷美森のことを理不尽にこき下ろしても神世紀を虚妄だと断定しても、まったく意味のない行為である。だが、ゆゆゆという「虚構」に本格的に沈潜して考えるためにはそういう営為こそ求められることだろうし、虚構を虚構として捉えずにいるのならば、それは表面的理解・皮相的分析にしかなりえない。当然、ここでいう虚構性とは、単に作品やコンテンツが「フィクション」だという意味においてではない。それらを「時代的存在・社会的存在」だと認識したうえで(「実体としてのゆゆゆ」)、まさしくわたしたちの問題だと捉え返したときに現れてくる、わたしたちの鏡像=虚構としてのそれらのことである(「自己としてのゆゆゆ」)。わたしたちのまなざすゆゆゆとは、わたしたちの鏡像ではない。端的に言えば、それは虚像である。わたしたちの日本列島(現代日本社会)の延長線上に設定されているように思われるゆゆゆを、むしろ現代社会の延長線上にあると設定し、日本列島史のなかで考えることによって虚像を徹底的に粉砕しようとする試みが、筆者の「ゆゆゆ研究」の目的とすることのひとつである。

 

そういう意味では、丸山眞男氏の「これは昔々に起ったお伽話ではない」という言葉がより響いて聞こえてくる(丸山眞男軍国主義者の精神形態」(『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964年、初出1949年)参照)。ゆゆゆという「お伽話」を「お伽話」として切り捨てることはあまりにも簡単だが、「お伽話」だとして安易に片づけてしまえるほどに、ゆゆゆは無価値・無意味なのだろうか。ともすると、その「お伽話」のなかには「お伽話」であるということで霞んでしまった価値・意味があったのではないだろうか。実のところ、そのようにして取りこぼしてしまった「未発の契機」のうえにこそ、わたしたちの世界があるのではないだろうか。もちろん、価値・意味の具体相はどのようにも論じられるだろうが、改めて「お伽話」を「お伽話」であるということではなく、「お伽話」の内実において論じておくことは重要である。そのような「虚構」への沈潜の先になされる研究とは、特定の時代・社会にあるわたしたちのまなざしによって構成された「お伽話」像を解体するとともに、「お伽話」の立脚している特定の時代や社会およびわたしたち自身を問題化するだろう。無論、それが何らかの「『虚妄』の方に賭ける」ことになるのか、あるいは何らかの「『実存』の方に賭ける」ことになるのかはわからないのだが。

 

日本神話批判を紹介するだけのはずだったが、いささか寄り道をしすぎてしまった。いまはただ「勇者」たちへの「非礼」を詫びつつ、本コラムを閉じることとしたい。

 

9、末筆の反省その他

 

今回の議論も、前回の御記論とまったく同じ事態に陥っていると言えるだろう。すべて準備不足と言って差し支えない状況であり、構成も表現も論理も理解も、ありとあらゆる本コラムの内容は稚拙に過ぎたと言わなければならない。毎度の如く知的誠実さを欠いたふるまいを繰り返す筆者には、自分事ながらほとほとあきれ返るばかりである。まったくもって向こう見ずもいいところに書いてしまった本コラムの下書きは、欠片も収拾がつかずに6万字という驚くべき無内容の「研究コラム」に化けた。いやはや恐るべき無能の醜態に恐懼せざるを得まい。後悔してもしきれないとは定型句になってはならないものだが、やはり今回もそうなった。筆者の余裕のあるタイミングで少しずつ修正していければとは思っているが、全面的修正の余裕は当然になく、またそうした営為はそれこそ知的誠実さを欠くものだから、なるべく部分的修正にとどめておきたい。読者諸氏のなかで、もしご意見・ご感想・ご批判等をお寄せいただける方が居れば、是非にも賜りたいところである。簡単な内容でもまったく構わないので、もしそれらのある方はお願いしたい。

 

なお、本コラムの執筆に当たっては、「日本文化論」や「縄文人弥生人」に関する議論に関して筆者の友人から示唆を得た。これに先立つ御記論においてもご教示いただいたばかりであり、この場を借りて重ね重ねお礼申し上げる。もちろん、本コラムの内容に瑕疵があるとすれば、それはすべて筆者の責任にほかならない。

 

また、本コラムの議論に関しては、「僧侶部部長(第六十八番・第六十九番札所 神恵院・観音寺 住職)」氏による「特別寄稿 ゆゆゆとお寺 ―神世紀における仏教または寺院について―」(『勇者たちのキセキ2』(Project 2nd Anniversary、2018年))を読まれることを強く推奨しておきたい。簡にして要を得る非常に優れた議論を展開されており、本コラム執筆の過程でも示唆に富む内容であり参考にさせていただいたところがある。神世紀四国の宗教(史)・仏教(史)研究の第一級の文献だと思われるが、比較的部数の少ない同人誌であり入手困難の可能性もある。ただ、この『勇者たちのキセキ』シリーズはゆゆゆを知るための総合的ガイドブックであるとともに、ゆゆゆというコンテンツの歴史を体現し記録するものであるため、筆者のような自称「ゆゆゆ研究」をおこなう者でなくとも、たとえば、コンテンツ・ツーリズム研究のようなコンテンツの実証的・学術的研究の際には大変参考になるのではないだろうか*17。ぜひ御覧いただきたい。

 

あまりにも問題のある議論を振り返れば、ことに非「日本」的性格としたところに瑕疵を認めなければならない。当然のことながら、筆者の言う「日本列島」とは所詮は「ヤマト」に過ぎないし、「北海道」や「沖縄」のみならず、その「ヤマト」の内実もまた問われなければならない(赤坂憲雄氏の言葉を借りれば「いくつもの日本」である)。また、神道的神々の系譜以外にもさまざまな「神々」がいる(た)ことも見逃せないだろう(「神道」においても、非常にバリエーションに富むものであるはずだ)。そうした意味では、筆者の議論とは非自明的な「日本」=「ヤマト」の存在を想定=重視する本質主義的観念論だということもできる(吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997年)参照)。議論のあちらこちらに現れた政治主義的言説の数々も含めて、筆者の議論は論ずるにも値しない空論だともいえる。まさしく「日本列島史において」、「日本」の「国土」や「国境」は常に一定だったわけではなかったし、「国境」によって区分される近代国家のあり方は普遍的なものではないし、「境界」の認識も固定的ではなかった(新田一郎『中世に国家はあったか』(日本史リブレット、2004年)参照)。このことは重く受け止めなければならないだろう。

 

もちろん、これだけではない。神道史・民俗学・宗教学・歴史学文化人類学・国文学・社会学政治学・思想史などなど。踏まえるべき文献はまったく足りないままに「知的蛮勇さ」を発揮する愚行を繰り返す筆者は反省する必要がある。今後のゆゆゆ研究を通してどうにかこうにか進めることができたらよいとは思うけれども、余裕はなお存在しない。「試論」と称したことが結果的によかったのどうかはわからないが、そのようなふるまいに対する一種の反省の表明であることを「言い訳」として述べてはおきたい。ともかくも、筆者にはこれ以上書く余裕もなく、直す余裕もない。さまざまなる過失、さまざまなる過誤、さまざまなる誤解、さまざまなる誤謬。そのいちいちに筆者はあきれ返ってしまうとはいえ、今日(2023年9月24日)は「勇者であるシリーズオンリー同人即売会」の「勇者部満開、にじゅうろーくっ!」の開催日(「勇者部満開、にじゅうろーくっ!」(https://yu-yu-yu-only.tumblr.com/(2023年9月24日閲覧)))と本コラムでも触れた神世紀移行期の勇者・土居球子と伊予島杏の巫女だった安芸真鈴の誕生日(「安芸真鈴」(https://yuyuyui.jp/character/character29.html)(2023年9月24日閲覧))の重なる日である。筆者の書きぶりではとても「祝う」ような書きぶりではないが、そのような日に投稿できることの喜びと6万字の彷徨の疲労の慰労を兼ね、またひとまず本コラムを書ききれたことをもって良しとし、後は読者の皆様に委ねたいと思う。いつもながら筆者の無能をお許し願いたい。

 

10、書いてみた感想

 

「勇者」たちに最大限の謝罪をいたしますとともに、安芸真鈴さんの誕生日(9月24日)を心よりお祝い申し上げます。

 

11、研究資料および参考文献

研究資料

 

※テレビアニメ版※

結城友奈は勇者である -結城友奈の章-』(2014年)

結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-/-勇者の章-』(2017年-2018年)

結城友奈は勇者である -大満開の章-』(2021年)

 

※小説版※

タカヒロ著『鷲尾須美は勇者である』(BUNBUNイラスト、KADOKAWA、2014年)

朱白あおい執筆『乃木若葉は勇者である』上(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNイラスト、Project2H監修、KADOKAWA、2016年)

朱白あおい著『結城友奈は勇者である 勇者史外典』上・下(タカヒロ企画原案・監修、BUNBUNイラスト、Project2H原作、KADOKAWA、2021年)

 

※漫画版※

滝乃大祐作画『乃木若葉は勇者である ④』(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNキャラクターデザイン、バーテックスデザインD.K&JWWORKS、KADOKAWA、2018年)

 

※公式資料※

電撃G'sマガジン編集部編『結城友奈は勇者である ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2015年)

電撃G‘sマガジン編集部編『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』(KADOKAWA、2018年)

電撃G‘sマガジン編集部『結城友奈は勇者である -大満開の章- ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2022年)

 

※WEBサイト※

東郷美森「本日の我が国」(讃州中学 勇者部電子広報、神世紀300年)(©2021 Project 2H)(http://yushabu.jp/(2023年9月24日閲覧))

 

参考文献

日本国憲法第20条(昭和21年憲法)」(e-Gov法令検索)(https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=321CONSTITUTION_19470503_000000000000000(2023年9月24日閲覧))

教育基本法第15条(平成18年法律第120号)」(e-Gov法令検索)(https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=418AC0000000120_20150801_000000000000000(2023年9月24日閲覧))

「勇者部満開、にじゅうろーくっ!」(https://yu-yu-yu-only.tumblr.com/(2023年9月24日閲覧))

「安芸真鈴」(https://yuyuyui.jp/character/character29.html)(2023年9月24日閲覧))

『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第1章 劇場パンフレット』

『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第2章 劇場パンフレット』

『「結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-」 第3章 劇場パンフレット』

「観音寺」『国史大辞典』

「五穀」『国史大辞典』

「神宮寺」『日本国語大辞典

青木保『「日本文化論」の変容』(中公文庫、1999年、初出1990年)

赤坂憲雄『東西/南北考』(岩波新書、2000年)

網野善彦『日本中世の民衆像』(岩波新書、1980年)

網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年、初出1986年)

網野善彦『日本中世の百姓と職能民』(平凡社ライブラリー、2003年、初出1998年)

網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』(ちくま学芸文庫、2005年)

網野善彦石井進『米・百姓・天皇』(ちくま学芸文庫、2011年、初出2000年)

安藤広道「『水田中心史観批判』の功罪」(『国立歴史民俗博物館研究報告』185、2014年)

石母田正『日本の古代国家』(岩波書店、1971年)

石母田正『中世的世界の形成』(岩波文庫、1985年、初出1946年)

伊藤聡『神道とは何か』(中公新書、2012年)

伊藤聡『神道の中世』(中公選書、2020年)

井上智勝『吉田神道の四百年』(講談社選書メチエ、2013年)

宇都宮輝夫『宗教の見方』(勁草書房、2012年)

海野聡『森と木と建築の日本史』(岩波新書、2022年)

大津透「古代史への招待」(『岩波講座日本歴史1 原始・古代1』岩波書店、2013年)

大津透『律令制とはなにか』(日本史リブレット、2013年)

岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕』(福村出版、2019年、初出2015年)

笠井潔・絓秀美『対論 1968』(聞き手外山恒一集英社新書、2022年)

勝野正章・庄井良信『問いからはじめる教育学』(有斐閣ストゥディア、2015年)

苅部直丸山眞男』(岩波新書、2006年)

関西学院声優研究会「関学声研ブログ第118回 『結城友奈は勇者であるにおける神樹崇拝について』」(note、2019年)(https://note.com/kgseiken/n/nc26d746ffe6b(2023年9月24日閲覧))

観音寺市誌増補改訂版編集委員会編『観音寺市誌 通史編 増補改訂版』(観音寺市、1985年)

木村元・小玉重夫・舟橋一男『教育学をつかむ〔改訂版〕』(有斐閣、2019年、初出2009年)

来覇「【結城友奈は勇者である考察】勇者であるシリーズの地名について」(note、2023年)(https://note.com/yuyuyu_treatise/n/n2b75bd2fefa6(2023年9月24日閲覧))

神野志隆光古事記と日本書記』(講談社現代新書、1999年)

神野志隆光『複数の「古代」』(講談社現代新書、2007年)

坂上康俊『律令国家の転換と「日本」』(講談社学術文庫、2009年、初出2001年)

坂野徹『縄文人弥生人』(中公新書)                   

佐藤弘夫『「神国」日本』(講談社学術文庫、2018年、初出2006年)  

篠川賢『国造』(中公新書、2021年)

島薗進国家神道と日本人』(岩波新書、2010年)

島薗進新宗教を問う』(ちくま新書、2020年)

島薗進ポストモダン新宗教』(法蔵館文庫、2021年、初出2001年)

杉田敦『権力』(岩波書店、2000年)

須原祥二「第2講 倭の大王と地方豪族」(佐藤信編『古代史講義』ちくま新書、2018年)

千田稔『伊勢神宮』(中公新書、2005年)

僧侶部部長(第六十八番・第六十九番札所 神恵院・観音寺 住職)「特別寄稿 ゆゆゆとお寺 ―神世紀における仏教または寺院について―」(『勇者たちのキセキ2』(Project 2nd Anniversary、2018年)

竹内洋丸山眞男の時代』(中公新書、2005年)

谷口雄太『分裂と統合で読む日本中世史』(山川出版社、2021年)

津田左右吉古事記日本書紀の研究』(岩波書店1924年

電撃G‘sマガジン編集部編『結城友奈は勇者であるメモリアルブック』(KADOKAWA、2018年)

電撃G‘sマガジン編集部『結城友奈は勇者である -大満開の章- ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2022年)

新田一郎『中世に国家はあったか』(日本史リブレット、2004年)

箱田徹『ミシェル・フーコー』(講談社現代新書、2022年)

藤尾慎一郎『日本の先史時代』(中公新書、2021年)

ほぼ日刊イトイ新聞吉本隆明の183講演 敗北の構造」(https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a018.html(2023年9月24日閲覧))

牧原憲夫『文明国をめざして』(小学館、2008年)

丸山眞男「『である』ことと『する』こと」(『日本の思想』岩波新書、1961年、初出1958年)

丸山眞男軍国主義者の精神形態」(『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964年、初出1949年)

文部省編『国体の本義』(文部省、1937年)

文部科学省教育基本法(平成18年法律第120号)について」(教育基本法資料室、2014年)(https://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/__icsFiles/afieldfile/2014/12/17/1354049_1_1_1.pdf(2023年9月24日閲覧))

安丸良夫『神々の明治維新』(岩波新書、1979年)

山室信一満洲国 増補版』(中公新書、2007年、初出1993年)

ゆーなしあ大陸( ◠‿◠ )「探しても見つからなかったので神世紀と西暦の地名対応表と『楠芽吹は勇者である』の呼称表を作りましたご自由にお使いください(画像2枚)」(https://twitter.com/yuunasia/status/906759190131105802(2023年9月24日閲覧))

吉田孝『律令国家と古代の社会』(岩波書店、1983年)

吉田孝『日本の誕生』(岩波新書、1997年)

吉本隆明「敗北の構造」(『敗北の構造 吉本隆明講演集』弓立社、1972年、初出1970年)

和歌森太郎『花と日本人』(角川文庫、1982年、初出1975年)

渡辺尚志『百姓の力』(角川ソフィア文庫、2015年、初出2008年)

 

12、画像引用元

ジェレミ・ベンサムベンサムによるパノプティコンの構想図」(ウィキメディア・コモンズ、2013年)(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Panopticon.jpg(2023年9月24日閲覧))

滝乃大祐作画『乃木若葉は勇者である ④』(タカヒロ企画原案・シリーズ構成、BUNBUNキャラクターデザイン、バーテックスデザインD.K&JWWORKS、KADOKAWA、2018年)

網野善彦「諸国荘園・公領年貢表」(『日本中世の百姓と職能民』平凡社ライブラリー、2003年、初出1998年)

大津透「諸国貢進の海産物」(『律令制とは何か』日本史リブレット、2013年)

東郷美森「本日の我が国」(讃州中学 勇者部電子広報、神世紀300年)(©2021 Project 2H)(http://yushabu.jp/(2023年9月24日閲覧))

結城友奈は勇者である -結城友奈の章-』1話(2014 Project2H、2014年)

結城友奈は勇者である -鷲尾須美の章-/-勇者の章-』1話・10話(2017 Project2H、2017年-2018年)

結城友奈は勇者である -大満開の章-』1話・5話・12話(2021 Project2H、2021年)

*1:

2023年9月24日現在の観音寺市に相当する神世紀四国の自治体のこと。

 

(既に「来覇」氏が的確に指摘している通り)神世紀移行期の四国地方の場合、「観音寺市」は「観音寺市」、「高松市」は「高松市」というように、「舞台となる地名」と現在の地名が依然一致する状況(=「現実と同じ名称」)だったが、神世紀30年代前後の段階で四国地方各地の地名が変更される事態が生じたため、それ以降は「讃州市」(→現在の観音寺市)・「玉藻市」(→現在の高松市)・「大橋市」(→現在の坂出市)などと「現実とは異なる名称」で呼称されるようになったとみられる(来覇「【結城友奈は勇者である考察】勇者であるシリーズの地名について」(note、2023年)(https://note.com/yuyuyu_treatise/n/n2b75bd2fefa6(2023年9月24日閲覧)))。

 

なおこの点については、「ゆーなしあ大陸( ◠‿◠ )」氏がより網羅的な検討結果をTwitter(X)上で指摘していることは附記しておく(ゆーなしあ大陸( ◠‿◠ )「探しても見つからなかったので神世紀と西暦の地名対応表と『楠芽吹は勇者である』の呼称表を作りましたご自由にお使いください(画像2枚)」(https://twitter.com/yuunasia/status/906759190131105802(2023年9月24日閲覧))参照)。

 

また、以下「讃州市」・「大橋市」などの神世紀四国の自治体名は特に断りなく使用することとする。

 

なお「神世紀移行期」とは、バーテックスの襲来した2015年7月30日(いわゆる「7・30天災」)以降、四国地方の「勇者」を中心とした人類とバーテックスとの戦争やその余波が継続した時期を指示するものである。それは西暦2010年代末に西暦年号は神世紀年号に改元されたことに基づくが、この場合は西暦最末期に当たる西暦2010年代全般も含め、『芙蓉友奈は勇者でない』で一定の平穏を取り戻した様子が描かれている神世紀29年頃までの期間をそのように呼称する。

 

*2:

この点については、既に「関西学院声優研究会」の「ペコ」氏が簡潔かつ平易に指摘している通りである(関西学院声優研究会「関学声研ブログ第118回 『結城友奈は勇者であるにおける神樹崇拝について』」(note、2019年)(https://note.com/kgseiken/n/nc26d746ffe6b(2023年9月24日閲覧)))

*3:

テレビアニメ版2期の「鷲尾須美の章」などを見る限り、乃木園子の二条城を模したと思われる自宅は大橋市内にあると推定されるため、園子の自宅らしき讃州市内のマンションの一室(「聖地」そのままと考えれば、観音寺駅南口すぐ近くのマンションの一室)は、讃州中学への登校拠点として新たに大橋市外に自宅あるいは別宅を設けたものと思われる。そのため「自宅」としてはいるが、現状、詳細は不明である。

 

「二冊目の勇者御記」(電撃G'sマガジン編集部編『結城友奈は勇者である ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2015年))を確認したところ、「彼女は駅近くのマンションを借りている。新築のとても高級そうな建物だ。」とあった。そのため、当該マンションの一室は「自宅」と見て間違いない。(※2023年12月11日追記)

 

 

乃木園子の推定自宅遠景(3期5話・©2021 Project 2H)

 

 

乃木園子の推定自宅内部(3期5話・©2021 Project 2H)

 

 

*4:

神世紀四国の宗教・仏教をめぐる状況については、僧侶部部長(第六十八番・第六十九番札所 神恵院・観音寺 住職)「特別寄稿 ゆゆゆとお寺 ―神世紀における仏教または寺院について―」(『勇者たちのキセキ2』(Project 2nd Anniversary、2018年)に詳しい。本コラムの立論の関係上、「僧侶部部長」氏の優れた研究を参照した議論を展開できないのだが、示唆に富む内容に満ちており、ぜひ参照されたい。

*5:

もちろん「異形」であることによって、そして「異形」を最大限に利用することによって、危機にあった王権=天皇制を再建・強化しようとしたといわれる後醍醐天皇の例も考えれば(網野善彦『異形の王権』(平凡社ライブラリー、1993年、初出1986年)参照)、そうした「異形」性に積極的な意味を見出すことも困難ではないだろう。だが、その後醍醐天皇の試みが短期間のうちに失敗に終わった事実を以て、既に「異形」性—「異形」であること—の意義は薄れてしまうのである。やはりそれは消極的に意味づけられるべきものであるだろう。

*6:

ちなみに、こうした「神仏分離」の具体例をゆゆゆの「聖地」である観音寺市に求めてみると、四国八十八箇所霊場の68番札所・69番札所として知られる神恵院・観音寺を挙げることができる。それまで琴弾八幡宮別当寺=神宮寺だった観音寺は、「神社に付属して置かれた寺院」(「神宮寺」『日本国語大辞典』)という性格に明白であるように、当然「神仏習合的信仰の排除」=「神仏分離」の対象となったし、寺院の廃合・僧侶の還俗を推進した以上(=「廃仏毀釈」)、神恵院ともども「神仏分離という大嵐にまきこまれ」ることは避けられなかった。「琴弾八幡宮別当寺として君臨し、観音寺・総持院・泉蔵寺・境照院・寂静院などを末寺とした」という神恵院の場合、琴弾八幡宮の「分離」に当たってはトラブルとなることはなく「円満に完了した」ようだが、その後の荒廃は凄まじかった。明治前期までには、「仏像こそ残っていたが、仏具その他の目ぼしいものはほとんど売り尽くされ」、ついには「来客を泊めようにも布団のかさね一組もないほどであった」らしい(以上の記述は、観音寺市誌増補改訂版編集委員会編「近代編 第一章 新しい時代の波」(『観音寺市誌 通史編 増補改訂版』観音寺市、1985年)に基づく)。

 

 

現在の神恵院・観音寺(2023年8月筆者撮影)

 

 

*7:

 この点は、神世紀移行期の長野県諏訪地方で孤独な戦闘を繰り広げた、勇者・白鳥歌野と巫女・藤森水都の最期の場面において、「神」がくだした「あまりにも理不尽な」「神託」(「お告げ」)にも明白である。それは、孤立無援の状況下で結界を徐々に縮小しながら人々を守り続けた彼女たちに対して、「よく三年も諏訪を守り続けた」・「うたのん(白鳥歌野:引用者注)と私(藤森水都:引用者注)が敵を引きつけていたお陰で、四国は敵に対抗する基盤ができた」などというおよそ信じられない四国中心主義的に過ぎる傲慢な内容を告げるものだった。彼女たちが「薄々とは気づいていた」とはいえ、「諏訪は四国に戦闘態勢が整うまでの囮だった」と直接的に伝えてくる態度はおよそ許容できるものではあるまい。

 そのことは、諏訪地方の「土地神」でさえも、「神樹様」の居る四国地方の足下に跪かざるを得ない事実を示唆しているだろうが、それにしても残忍酷薄である(「白鳥歌野は勇者である」『乃木若葉は勇者である』上参照)。四国地方が良ければそれでよいというような「神」は、果たして人類の味方なのだろうか。もはやそれらの「土地神」に屈従を強制して「一元化」を達成した後の「集合神」に希望を持つことは到底できないだろう。(※2024年2月6日追記)

*8:

なお、網野氏も含めた一連の「水田中心史観批判」と呼ばれる研究潮流については、さまざまな問題があることが指摘されており、その詳細は安藤広道「『水田中心史観批判』の功罪」(『国立歴史民俗博物館研究報告』185、2014年)に詳しい。

*9:

網野氏の「非農業民」論は、確かに「百姓は農民ではない」という言葉に集約的に表現されているが、そうした「網野史学」の一大テーゼと呼ぶべき「非農業的世界」論には現在では数多くの批判が寄せられており、たとえば「農業的世界」の基軸性や「複合生業(生業複合)」論などの観点から留保が必要である(谷口前掲書)。

また、日本近世史の立場から見てみると、「百姓は農民ではない」という言葉は「二重の意味」をもっている。ひとつは、網野氏同様に「百姓のなかには、漁業・林業・商工業など多様な職業に携わっている人々が含まれて」おり、(専業・兼業の違いはあるとしても)「農業だけに従事していたわけではな」く、「複合的な生業を営んでい」たということである。そしてもうひとつは、「農業をすることが即百姓」ではないということである。近世日本社会における百姓とは、「いちおう土地を所持して自立した経営を営み、領主と村に対して年貢・役などの負担を果たし、村と領主の双方から百姓と認められた者に与えられた身分呼称」を意味した。網野氏がおそらく措定していたような「特定の職業従事者の呼称」としての百姓呼称は必ずしも当てはまらないのである(渡辺尚志「第三章 村はどのように生まれたのか」(『百姓の力』角川ソフィア文庫、2015年、初出2008年))。

*10:

中世日本列島の諸国年貢については、網野氏によって以下のようにまとめられている(網野善彦『日本中世の百姓と職能民』(平凡社ライブラリー、2003年、初出1998年))。

 

 

「諸国荘園・公領年貢表」(網野善彦『日本中世の百姓と職能民』(平凡社ライブラリー))

 

 

上図をみると、米を年貢とする荘園が荘園の総数の50パーセント以上になる国々は、全国の約50パーセントに達する。それらは「畿内及びその近国、北陸道、山陽・南海道西海道などに集中しており」、「遠江・越後を除き、全体として西国―西日本に大きく偏り、また瀬戸内海、日本海などの海上交通による運送条件の相対的によい国々」である。とはいえ、「非水田的生産物のみを年貢とし、あるいは米とあわせ納める荘も少なからず見出しうる」ため、「米年貢を出す荘園が約八〇パーセントに達する」国々が「伊賀・近江・若狭・越前・備前・安芸と九州諸国にすぎない」ことは留意すべきだろう(網野前掲書)。

また、米を年貢とする荘園のまったく見られない国々は、圧倒的に東国―東日本に多く、佐渡隠岐などの島々もそこに入れられる。東国諸国が綿・糸を含めた繊維製品をもっぱら貢上しており、伊勢・丹後や若狭を除き、越中を含む北陸道諸国もそうした貢進をおこなっていることは重要であり、特定の物品が50パーセント前後に達する国々―たとえば、陸奥の金・出羽の馬・但馬の紙・出雲の莚・周防の榑・材木・長門の牛・阿波の油・伊予の塩―などについても注意しておく必要がある(網野前掲書)。

*11:

こうした一群のイメージには、「日本人」や「日本」をめぐるイメージが刻印されているだけではなく、近代日本および戦後日本の歴史的・社会的展開の具体相の影響をそこに見て取ることもできるだろう。いわゆる「日本文化論」や「縄文人弥生人」については、既に青木保氏や坂野徹氏によって明らかにされている通りだが(青木保『「日本文化論」の変容』(中公文庫、1999年、初出1990年)・坂野徹『縄文人弥生人』(中公新書))、ゆゆゆにおいてもその例外ではあるまい。

 

とりわけ坂野氏の議論にあった「縄文人弥生人」のイメージに関しては、ゆゆゆに当てはまることもあると思われる。たとえば、後述するテレビアニメ版3期「結城友奈は勇者である -大満開の章-」のOP(オープニング)映像では、巫女・国土亜耶と思しき人物の手が映され、「神樹の種」(神樹の神性を有する種)が地面に撒かれ、一瞬のうちに発芽し、「五穀」をともないながら巨大な若木に成長する様子が示されていた。こうしたものを「日本」的なものとみなすならば、縄文イメージの表象としての若木・弥生イメージの表象としての麦や粟などの「五穀」と捉えることも可能である。縄文時代は森林性の植物質食料(森林性食料)の安定的利用によって特徴づけられ(指標という意味ではない)、弥生時代は灌漑式水田稲作の使用を指標としている以上(藤尾慎一郎『日本の先史時代』(中公新書、2021年))、そうした各々の特徴的事物によって縄文と弥生を表象する若木=森林や五穀=稲作がモチーフとして選択されたと捉えられる。また、縄文人弥生人をめぐる「日本人の起源」の論争の過程も考えれば、あるいは縄文人を「基層」・「深層」の集団とし、「渡来」した弥生人縄文人の「混血」によって、「日本人」の成立を導く見方の「勝利」=「定説」化状況を考えれば(坂野前掲書)、その折衷として「日本人の起源」を想定させるような縄文的なるものと弥生的なるものを敢えて混淆させ、始原的モチーフとして機能させているとも考えられる。こうした推論がどれほど当たっているかはわからないが、そのような文脈においても論じておくべきことは間違いないだろう。残念ながらこれ以上論じる余地はないので割愛するが、ひとまず述べておいた次第である。

*12:

設定として、「亜耶の植えた種から五穀(稲・麦・粟・大豆・小豆)が芽を出し一気に成長する」という記述が存在することも考えれば、麦や粟などについては「五穀」だと捉えることもできる(『電撃G‘sマガジン編集部『結城友奈は勇者である -大満開の章- ビジュアルファンブック』(KADOKAWA、2022年)』)

*13:

なお、在地首長制たる国造に関しては、篠川賢『国造』(中公新書、2021年)を参照されたい。

*14:

なお、日本列島史における木や花の占めた地位の大きさも留意しておく必要があるだろう。実際、日本列島史と木・花の関わりにおける「自然信仰」の性格は非常に色濃いものだったといわれており(和歌森太郎『花と日本人』(角川文庫、1982年、初出1975年)・海野聡『森と木と建築の日本史』(岩波新書、2022年))、ゆゆゆの「神樹信仰」においてもそれとの関係性のなかで論じる余地があるはずである。

*15:

以下、本コラムの引用に当たっては、漢字は新字に、旧仮名遣いは新仮名遣いにそれぞれ改めた。

*16:

たとえば、日本列島史の重要な地位を占め続けている現在の「神道」についても、「往々にして古代からの連綿たる信仰の継続を強調するが、それは近世以降に作り上げられた虚構(フィクション)であって、中世にはそれとは異なる信仰と教説が存在していた」のであり、「必ずしも天皇にのみ収斂していくものではなかった」ことは強く留意すべきである(伊藤聡「終章」(『神道の中世』中公選書、2020年))。「神道」の基本的性格とは、「仮構された〈固有〉性への志向」にほかならない。したがって、その信仰の「素朴」な姿は「古代のプリミティブな自然崇拝の残存」ではなく、あくまでも「中世・近世・近代における神道の形成・展開過程において、再解釈・再布置された結果として装われた素朴さであり『古代』なのである」(伊藤聡『神道とは何か』(中公新書、2012年))。記紀と一括されることの多い『日本書紀』・『古事記』も、それぞれの語ろうとした「古代」が異なるだけではなく、「現実の古代(歴史の現実)」とも違うものだった(神野志隆光『複数の「古代」』(講談社現代新書、2007年))。こうした一群の「古代」たちを問いなおすことなしに、神道記紀、引いては「日本」的なるものを問うことはできないだろう。

*17:

その場合は、岡本健編『コンテンツツーリズム研究〔増補改訂版〕』(福村出版、2019年、初出2015年)および同書所収の宗像宏之「53 『結城友奈は勇者である』――地域とファンの密なる交流」も参照されたい。管見の限り、学術書におけるゆゆゆのまとまった記載としては現状唯一のものだと思われる。